第8話 過去と向き合い、(勇運)
キキィィィー、ドン
その音が始まり、そして終わりを迎えた頃。一つの儚い命が、静かに散った。
「車が電柱に突っ込んだぞ!」
「救急車!!」
言葉にすれば十文字にも満たない。だけど、その十文字にも満たない間で、親父は、この世からいなくなってしまったんだ。
「勇運、おいで」
「もう”おいで”なんて言われる年じゃねーよ。中学生だぞ」
「はは、そうだけどね。親の目にはね、ふとした瞬間に、子供が小さな頃の姿で見える事があるんだよ」
「……なんだそれ」
親父は優しかった。おっとりしていて、母親に怒られた俺たち兄弟を慰めるのは、いつも親父の役割だった。
「どうして母さんが勇運を怒ったと思う?」
「……俺のことが嫌いなんだろ」
「はは、嫌いだったら怒りもしないよ。大好きだからさ。本当は怒りたくないけど、心を鬼にして怒ってるんだよ」
「心だけじゃなくて……顔も鬼みたいだったぞ。母さん」
「……ぷっ。それは秘密にしておかないとね」
子供好きの父親だった。だから何かと理由をつけては俺たちを構いたがった。そして、俺たちも親父を嫌いになる理由はなかった。だから反抗期を迎えることなく、良い親子関係が築けていた。家族みんなが、親父のことを好きだったんだ。
事故に遭う、あの日だって――
「もしもし。え……警察?」
俺は中学二年生。兄貴は高校三年生。「守人は将来なにをしたい?」と、親父が子供の将来に目を向け始めた、春。親父は、子供の未来を見ることなく、その生涯を閉じた。
いつもニコニコしていた親父がいなくなり、家の中で笑う者はいなくなった。
母さんは俺らの前では気丈に振る舞っているが、夜遅くまで泣き、朝早くから泣いていた。一体いつ寝てるんだって思う程、自分ひとりの時間は、親父を思って泣き続けていた。
「親父、どうして交通事故なんか……」
親父は運転に慎重で、あまりスピードを出さなかった。親父は電車通勤だったし、車に乗る機会は、休日に家族と出かける時だけ。
「遅刻するから急いで!」と家族に言われても、速度を上げることはなかった。「ペーパードライバーなお父さんに無茶を言わないように」なんて、冗談のような本気の声色で、親父は何度も俺たちに言い聞かせていた。
そんな親父が、交通事故。しかも、電柱に突っ込んで……即死だったらしい。
事故に関して、腑に落ちない事があった。だけど言及出来なかったのは、きっと泣いている母さんを見ていたからだ。今、親父が死んだ原因について話したら……母さんが壊れてしまうと思ったんだ。
だけど、違った。
親父の事故について「あえて」言及しなかったのは、母さんだった。それに気づいたのは、とある訪問者が来た日。その訪問者とは――
「この度はウチの息子のせいで、本当に、本当に……申し訳ありませんでした……っ!!」
葬式が終わって、家の片付けの何もかもが手つかずのまま。親父が死んで時が止まった俺の家に、ソイツらは来た。
両親の間に、一人の子供が立っている。幼稚園児くらいか、まだ幼い。その幼い顔は顔面蒼白で……年相応のツラではなかった。そして、なぜか子供の両親も、この世の物とは思えないくらい切羽詰まった顔をしていた。
だけど……何よりも驚いたのは、母さんの顔だ。
そいつらを見る母さんの顔は、まるでノリを顔にぬりたくったように。チグハグに曲がったまま、固まっていた。怒りたいのに怒れないような、泣きたいのに泣けないような――
「母さん……?」
「……」
全ての感情をコントロールできない母さんは、のろのろと玄関に出て来た俺と兄貴に、初めて怒号を飛ばした。
「あなた達は……部屋へ」
「でも、」
「いいから! 早く行きなさい!!」
泣く母さんを見た事はあっても、怒鳴る母さんは初めてだった。衝撃で、どうしたらいいか分からず立ち尽くす俺。そんな俺の腕を……
「勇運、おいで」
兄貴が引っ張った。だけど、二階にある俺たちの部屋には行かなかった。すぐそばのリビングに隠れ、玄関での話し声を聞いた。
でも、俺は思うんだ。この時に盗み聞きをせず、大人しく部屋に行っていれば良かったんじゃないかって。そうすれば長年悩むこともなかったんじゃないかって。今でも、自問自答している――
「今日は、どのような用件で」
「謝っても謝りきれないとは思っています、だけど……何もしないわけにはいかなくて……っ。本当に、ウチの子が……」
「もう、いいですから」
「ウチの子が、急に車の前に飛び出さなければ、こんな事には……っ」
「……っ」
その時、母さんの声にならない声を聞いた。息を呑む音っていうのは、実際に聞こえるものなんだと――一瞬だけ静まり返った家の中で、初めて知った。
「母さん、知ってたみたいだね」
「え……」
「あの子を助けようとして、父さんが事故した事」
「……助ける?」
ポツリと、兄貴が言った。その無表情から、兄貴が今、何を考えているか分からなかった。そして、それ以上なにも喋りそうになかったから、俺は素直に自分の疑問をぶつけた。
「親父は、あの子を避けようとして……電柱に突っ込んだのか?」
「うん、そうだね」
「……」
何を言えばいいか分からなかった。どっちかが死ななければ、どっちかが助からなかった状況で……。そして、その両人が揃ったこの場で、俺は「良い」も「悪い」も言う事が出来ないまま。
「……っ」
ギュッと、拳を強く握った。それしか出来なかった。声にも出せず、批判も出来ず。行き場を失った感情は涙へと変わり、目に溜まっていく。その時、兄貴が口を開いた。
「あの子は……いつまで父さんの事を覚えてるかな」
「え」
「まだ小さいでしょ。だから、いずれ忘れちゃうのかなって――ごめん、変な事を言ったね」
その時、兄貴は笑っていた。悲しそうに、眉を下げて。昔は俺より泣き虫だった兄貴だけど、なぜかこの日は涙を見せなかった。泣いても仕方のないこと、と。早々に諦めていたのかもしれない。
「父さんの人生の上に、あの子の人生が続いた。あの子には……これからを大切に生きてほしいな」
「……っ」
他人事みたいに言う兄貴に、腹が立った。俺らの父親が、あの子供に殺されたようなもんなんだぞって――そう言いたかった。
だけど、ちょうどその時。玄関が静かになった。見ると来訪者は帰っていて、ちょうど母さんが力なく床に座り込んだ所だった。
「うぅ……っ」
静かに嗚咽を漏らす母さん。一人ぽつねんと座る姿を見て居られなくて、俺たちは移動した。
「母さん……」
「守人、勇運……。さっきは、ごめんね。大きい声を出しちゃって……」
床に両手をついて、今にも蹲りそうな母さん。そんな母さんの背中に、兄貴がそっと手を置いた。
「一人で背負わなくても良いんだよ、母さん」
「っ!」
親父の事故の真相を、母さんだけが知っていた。単独事故ではないと知り、飛び出した子供を庇うためだったと知り……無念だったはずだ。だけど、ずっと隠し続けた。俺と兄貴に、自分と同じ「無念」を抱かせないために。
「俺たちは家族なんだから。良い事も、悪い事も、全部まかせ合おうよ」
「守人……っ」
「ね、勇運。勇運もそう思うでしょ?」
「……」
何も答えない俺を、泣きながら見る母さん。「はぁ」とため息をはいて、握った拳をゆっくり解いた。
「俺……隠し事は嫌いだから」
「って事だから。ね、母さん」
「……うん、ごめん。ごめんね」
四人家族が、三人になった。一人少なくなった穴を埋めるように、俺たちは団結力を強くした。そうすれば、悲しみも乗り越えられるんじゃないかと、そう信じて――
それから、定期的に親父の墓参りに家族みんなで行った。そして、ある時。兄貴が言ったんだ。
「父さん、僕は警察官になろうと思う」
――守人は将来、なにをしたい?
子供の未来を楽しみにして、そして……無念にも、見る事ができなかった親父。そんな親父は今、兄貴の姿を見て誇らしげに見ているだろうか。
そして……いつまで経っても過去を受け入れられない俺を見て、残念に思っているだろうか。
――にーちゃん、大丈夫?
――……っ
親父、ごめんな。俺は、あの日。事故の真相を知った日から、子供が大嫌いになった。それは年々こじらせて、今では子供と話しただけで立っていられないほど気分が悪くなる。
母さんは、よく笑うようになった。
兄貴も、立派な警察官を目指している。
それなのに……俺だけは、過去から進めていない。
――もう三石とは関わらない
――こんな俺で、ごめんな
こんな俺を変えなきゃと思うのに、立ち向かう勇気を持って居なくて。自分を守るために、必死に「守り」に入っていた。だけど――必死に「今」を変えようとしてる三石を見て、俺も「変わりたい」って思ったんだ。墓参りの時、俺だけ浮かない顔をするのは嫌だ。見守ってくれる親父が安心できる「俺」になりたい。
『勇運、おいで』
親父がそう言った時、昔みたいに「ヤダね」って。堂々と言い返せるような、そんな俺でいたいんだ。そのためには、過去と向き合うことから始めないとって、三石が気づかせてくれたんだ――――
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます