第10話 睢水亭の特上カルビ。

「あっはっは!それで氷雨澤さんは作画を完遂できた、と」

私の報告を聞いた岸辺大五郎は、心底おかしいというように電話先で笑い転げた。

氷雨澤青の仕事ぶりについてかいつまんで話したのだが、キャラクター作画に怯える氷雨澤青にどうやって描かせたのかと聞かれたので、まぁ少し熱の入った喝を入れた、とだけ話した。

それだけの話だったのだが、私が元来口汚いことを知る悪友は、想像しておかしくなったということなのだろう。私自身、随分恥ずかしかった。

仕事中に口汚い言葉を使うなんてあり得ない話だ。新入社員の頃ですら使ったこと無かったのに、何故氷雨澤青に対してあんな口汚さが出てしまったのかと、反省している。

「とにかく、原稿がなんとかなりそうで助かったわ。ありがとうね」

ひとしきり笑い転げた後、大五郎は穏やかな声で礼を言ってくれた。

「ただ、茜はもう少し氷雨澤さんのところで待機していてくれる?話を聞く限り大丈夫だとは思うけど、追加の作画があるかもしれないから、いつでも動けるようにしておいて」

編集長としての采配を振るう悪友に、私は了承の意思を示したが、その采配には疑問が湧いた。

原稿はすでに編集部に送ったのだ。

朝の都内の混雑状況を鑑みると、バイク便の到着には少なく見積もっても一時間半はかかるだろう。そこから編集長である大五郎の確認が入り、「追加の作画」という指示が出たところで、そこからまた一時間半かけて氷雨澤邸に原稿を送るというのだろうか。原稿がこちらに到着する頃には最終デッドライン間際になってしまう。

つまり「追加の作画」なんてほぼ不可能なのだ。

そう考えていた時、電話口から不敵な笑い声が聞こえた。

「そういうわけだから、後数時間は氷雨澤さんのところで待機していてね。なんだったら新作の打ち合わせも済ませてきちゃって」


―やられた。こっちが本命だ。


ジュエル編集長岸辺大五郎は、天才的画力を持つ氷雨澤青に連載を持たせたいのだ。ほとんど二十四時間働きっぱなしの私をさらに働かせてでも、未知の天才に大いなる期待をしているのだ。

「…わかりました」

私は大五郎の提案を飲んだ。私自身、氷雨澤青には期待があった。

現在ジュエルで連載されている漫画に比べても遜色ないどころか、作画力だけでいえば歴代漫画家の中でも一二を争う実力を持つであろう氷雨澤青。なのに、描く漫画がどうしてあぁも面白くないのか。面白くなるには何が必要なのか。

照り返してくる眩しい光に、私は唇の端を引き上げていた。

「睢水亭の特上カルビ」

電話口の大五郎に交渉する。とくに何も無くても働くつもりではいるが、貰えるものは貰っとく主義だ。

「あぁもちろん三人前ね」

睢水亭は新人時代に大五郎とよく行った大衆居酒屋だ。値段百点、味十点。居心地の良さ一億点の睢水亭にある「特上」とは名ばかりのペラペラカルビ。三人前でようやく腹に溜まるあのカルビを奢れ、労働基準法なんて知らなかったふりをしてやるから。

「メガハイボール三杯もつけるわよ。面白い作品に出会えるならね」

悪友の魅力的な提案に頷いて、私は電話を切った。

大豪邸の玄関ホールを抜け、食堂から廊下を通って作業部屋へと向かう。

私が作業部屋に来たと見ると、猫脚の王族デスクに半球状の頭を付けていた氷雨澤青は頭を素早く持ち上げて、不安そうな眼差しを送ってきた。

私がこの部屋を出る時に「完成原稿を送った後、編集長と少し話をしてくる」と言っていたからだろう。編集長から何か言われたんじゃ無いかという心配そうな眼差しに、私は出来るだけ穏やかに見えるように笑って見せた。「おそらく大丈夫だと思いますが、追加の作画等があるかもしれないので、少しここで待機させていただきたいです」と話すと、氷雨澤青はガチャガチャと音を立てて頭を縦に揺らした。

「えっと」

一つ息をついて、猫脚デスクの前に向かう。

「この時間を利用して、少しお話を聞きたいのですが」

銀のドラム缶がのけぞるようにしてガチャンと音を立てた。

うんまぁ仕方がないとはいえ、確実に怖がられている。

だが彼の漫画を面白いものにするには、まず第一に氷雨澤青自身のことを知る必要があると思った。

「改めて自己紹介させていただきますね」

怯えるドラム缶に向かってゆっくり礼をする。

「ジュエルの編集で美空茜と申します。ですがまだ当編集部には配属されたばかりで、少女漫画というものに疎いという自覚があります」

自らの弱みを見せることで親しみを持ってもらう。コミュニケーションの常套手段だが使ったのは久しぶりだ。

「少女漫画には疎いですが、ジュエルに来るまでは人気小説家さんの担当として十年以上の経験がありますので、その経験を活かしながら氷雨澤さんの作品作りにご協力できればと思っています」

親しみを与えた後には必ず信頼を勝ち取らなければならない。舐められては駄目なのだ。

「作品作りにおいて、何か困っていることはありませんか?」

こちらの手札を提示して相手の出方を窺う。

すると銀のドラム缶はブルブルと震えた後、勢いよく立ち上がった。

「あのっ!」

勢いよく立ち上がった反動で椅子が背後に流れ、側にあったスツールに当たって音を立てる。

「僕の心、壊れていると思いますか?」

椅子とスツールが立てた音をやけにはっきり聞きながら、目の前の昭和ロボットを見た。

「心が壊れているか、ですか」

あまりの突拍子な質問に、思わず聞かれたことをそのまま繰り返してしまう。

「はい、どう思いますか?」

ロボットはガラス玉の瞳でまっすぐ私を見つめている。

半球状の頭に円柱の体。蛇腹の手足のついた昭和ロボットだが、人と変わらぬコミュニケーションが取れること、圧倒的な作画ができること、何より、煌めくガラスの目を見る限り、到底「心が壊れている」ようには思えなかった。

「目に見えないことなので正確なことは分かりかねますが、私には氷雨澤さんの心は壊れていないように見受けられます」

素直に答えると、ロボはよろよろと後退し、流れ着いた先の椅子に銀の尻を付けた。

「そうですか…そうですよね」

ガックリと項垂れたロボットは小さくため息を吐き出して、U字の手を胸に当てた。

「壊したかったんです」

落ち込む様子のロボットから放たれた言葉は、私にとって心底意外なものだった。

「僕は心を、壊したかったんです」

心が壊れている私の前で、氷雨澤青はそう呟いた。

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