味噌汁は銃より強し
市井へい
第1話 彼女と私のはじまり
でっかいおっぱいは柔らかい。
そして、若い女はいい匂いがする。
三十八年も女をやってきて、それを今日はじめて知った。
今までは都市伝説か、フィクションだと思っていたんだ。だって、自分はぺったんこだし、かび臭いし、どぶ臭いから。
何で今さら知ったかって?
なんせ友達がいなかったから、戯れに触ることもなければ、匂いを嗅ぐこともなかったからね。
しかし、柔らかいおっぱいに抱かれ、フローラルないい匂いに包まれようが、全くもって救われやしない。冥土の土産ならせめて王子様の胸に抱かれたかった。
「落ち着いて──ね?」
これだから、この世界は嫌なんだ。
だけど、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、期待しなかったわけじゃない。
死ぬときぐらい、なんか奇跡が起きるんじゃないかって。
今までの苦しみを帳消しにするようないいことが起きて、思いとどまれるんじゃないかって。
なのに、意を決して手すりを乗り越え、摩天楼の光の海にダイブしようとしたそのとき──
私の貧相な体をかっさらうようにして引きずり下ろしたのは、なけなしの自尊心を木っ端みじんにするような上級女子。ゲージを振り切るくらい劣等感を煽る、若い、きれいな女。
給水タンクの裏でその腕に抱かれたまま絶叫する。
「止めないでよぉぉーーー!!」
その顔とおっぱいがあれば、私だってこんなことにはならなかったのに。
その瞬間、女がくりっとした大きな瞳を見開いてぽかんとする。
「いや、違う。違う。そうじゃなくて」
そして──艶やかな唇で信じられないことを言った。
「どっかよそでやって欲しいんだよね」
なにを言われたか分からなかった。
自分を抱く、何もかも持っているようなこの美しい女は、今まさにビルの屋上から飛び降りようとしていた自分に向かって、どこか違うところでそれをしろと言ったのだ。慈悲もひったくれもあったものじゃない。こんなくそたっれの世界に救いなんてないんだ。
さめざめと泣きはじめた私に、彼女はあくなく整った顔を困り顔に変える。
「いや、自分で言っててひどいとは思うよ。だけど、少し……いや、大分?」
彼女はなにか吹っ切れたようにいった。
「邪魔なんだよね。死にたくなかったら他所に行ってほしいんだ」
ぽかん、とした私の顔を見て彼女は声を上げて笑う。
「いや、死にたいんだもんね。そうだった」
そのとき、空気を切り裂くような音にならない音がした。
それと同時かほんの少しだけ遅れて彼女が動く。
気づいたときには、彼女の胸に抱かれたまま周囲の景色が変わっていた。確か給水タンクの裏だったはずなのに、今は何かボイラーみたいな機械の横にいる。
「あんたは巻き添え喰らって死んでもいいかもしれないけれど、私が困るんだ」
私を抱きかかえたまま立ち上がった彼女が、正面を睨み据えながら呟くように言う。
暗闇で良く見えないが、なにか人影のようなものがうっすら見えた。しかも、何かをこちらに向けているような…?
あれは何? もしかして……銃?
「そんなことになったら、大目玉なんだよ!」
彼女は叫ぶとともにどん、と私を横に突き飛ばす。
それを合図にしたようにまた空気を切り裂くような音がし、彼女は身を屈めながら短距離走の選手のように一気に人影との距離を詰めた。
手刀を払うと乾いた音がして、回転しながらコンクリートの床を何かが転がる。
一瞬だけ深い藍色のひかりが立ちのぼったかと思うと、人影は地に崩れていた。ほんのひと呼吸のあいだの出来事だった。
ヒールの踵をかつんかつんと鳴らしながら、彼女が近づいてくる。
「震えているね」
そう言われてはじめて気が付いた。手も膝も震えていて、とても立てるような状況ではなかった。
屈みこんだ彼女はじっと私の目を見た。
「怖いってことは、生きたいってことじゃないの?」
これが、彼女と私の愛しくて奇妙な関係のはじまりだった。
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