「はぁ…今日も疲れた」

　仕事を終えた芽衣（めい）は心底くたびれた様子で、家路に向かって歩いていた。

（木崎（きさき）さん、私に一体なんの恨みがあるんだろう…あんな姑みたいな…ううん、まるで親の敵みたいに攻撃してくるし）

　自分が視界に入るだけで、まるで拒否反応を起こしているかのような異常な振る舞い方だ。

（恵（めぐみ）は『芽衣（わたし）がまだ若いから、ただ僻（ひが）んでるだけよ』なんて言ってたけど…私、たとえ同じ歳になっても絶対！後輩いびりなんてしないんだから！！）

　心の中で誓いを立てると、ちょうど昨夜立ち寄った公園に差しかかった。

「あの人…もしかしたらまた居るかな？」

　昨夜ここで会った豆電球頭の男。

どうしても彼のことが気になった芽衣は再び公園の中に入った。

「やぁ、こんばんは」

　ベンチに座った“豆電球頭の男”は、実に親しげに挨拶をしてきた。

「こ、こんばんは」

　本当にいるとは思わなかった。

芽衣は動揺して、思わず上擦（うわ）った声で挨拶を返した。

やはりどこをどう見ても、どの角度から見ても、頭が見事な豆電球だ。

昨日は混乱して無理にそう思い込もうとしていたが、もう一度まじまじと見て、やっとそれが被り物ではなく“本物”だと分かった。

案外、強い光のせいで輪郭がぼやいでいるが、ガラスの球体の中には水晶玉のような丸い形状をした“物体”が確かに灯（とも）っている。

それが何なのか、まったく分からない。

台座のような物もないのに、ガラスの球体の中でそれはぷかぷかと浮いているのだ。

そして鼓動するかのように、光にはわずかな強弱があって暗くなったり明るくなったりしている。

「ここの席、空いてますよ」

　男は隣の空いたスペースを手のひらで軽く叩いた。

「し…失礼します！」

　芽衣は鞄を胸元に抱えながら、緊張した面持ちで隣に座った。

「今夜は蒸し暑いですね」

　男はとてものんびりした様子で話しかけてきた。

「そ、そうですね」

「いつもこんな遅い時間に帰られるのですか？」

　男が何気なく尋ねた言葉に、芽衣の表情にわずかな陰りが差した。

「…はい。職場で大きな企画があがっていまして…その業務に追われていまして」

「そうですか。それは大変ですね、ご苦労様です」

「…ありがとうございます」

　男に「ご苦労様」と言われて、芽衣は何故か泣きそうになった。

心配はされても、最近ねぎらいの言葉を掛けてくれる人が居なかったのだ。

「いえ、礼には及びませんよ。貴女はとても気遣いの出来る、そして優しい人です。どうぞ、ご無理はなさらないように」

　男の言葉に、芽衣は照れ臭くなって頬を掻いた。

「そんな優しいなんて…」

「いえ、貴女はとても優しい方だ。私の“この姿”を見ても逃げ出さず…むしろ汚れた顔を拭ってくださった」

　男は自身の豆電球の頭を撫でながら、そっと呟いた。

「私の顔に触れた“人間”は、今まで誰一人いなかったんですよ」

「な、内心すごく驚いたんですよ！『あ！？頭が豆電球！？なんで！！』って」

　男が落ち込んだように感じられた芽衣は茶化すように大げさに言った。すると男は「ふっ」と笑う。

「普通は驚きますよ。でも貴方は、私のことが怖い（・・）とは思わなかったでしょ？」

「え……あ、そういえば、驚きはしましたけど怖くなかったです」

　昨夜のことを思い返しながら、芽衣は素直な感想を言った。

怖くなかったのは被り物だと思っていたこともある。

だが直感的に“この人は良い人”だと思ったことが大きかったと、芽衣は思った。

「普通の人間は…私をひと目見ただけで『化物』だって、怖がって逃げていくんですよ」

　男の声は笑っていた。しかしどこか寂しげな声音（こわね）だった。

「私はとても可愛いと思いますよ、その頭。丸いフォルムで、中の明かりに懐かしい温みを感じますし…」

　芽衣は微笑んだ。

「…ほんと、とても優しい明かり。一緒にいるとなんだかホッとします」

「…ありがとう」

　芽衣の言葉を聞き、男は噛（か）みしめるように礼を告げた。やはりその声音は、どこか寂しげでどこか泣きそうにも聞こえた。

「…あ、もうそろそろお帰りになった方がよいのでは？」

「あっ、そうですね。…って！もう日付変わってる！！」

　芽衣は腕時計を見て、慌ててベンチから立ち上がった。

「…引き止めてしまって申し訳ない。気をつけて帰ってくださいね」

「ありがとうございます。では、私はこれで失礼します」

　お辞儀をして、芽衣はそそくさと公園の出入り口に向かって歩き始めた。

しかしふと思い出したかのように立ち止まり、男の方へ振り返る。

「おやすみなさい！！」

　芽衣から屈託（くったく）のない笑顔を向けられて、男はすぐに言葉が出なかった。

「…ええ。おやすみなさい」

　男からやっと出てきた声音はとても穏やかだった。

　芽衣が完全に立ち去ると、男は静かに呟く。

「芽衣さん、貴女はきっと大丈夫です。貴女はとても温かい光を持っている。けっして『灯台』のような導く大きな光ではないですが、貴女の光は棘のように尖った人の心を優しく溶かしてくれる。そう…まさに『蝋燭』の揺らめきだ。その光は誰かの心を癒やし、そして愛される灯（ともしび）なのだから」

　　○　○　○　　　○　○　○

「望月さん！何度言ったら貴女はわかるのかしら？この資料はこの棚！ここの位置なのよ！！」

　木崎の癇癪（かんしゃく）がまた始まった。

周囲の社員が不快そうに眉を顰（ひそ）める。当の本人は、そのことにまるで気づいていない。

「まぁまぁ、木崎さん。きちんと決められた棚には入れているんですから、そんなに目くじら立てないでくださいよ」

　課長の清水（しみず）が見かねて、声をかけてきた。

「でも！きちんとした場所に置かないと次に使う人が探すのに苦労するでしょ？」

「いやいや、ファイルの背表紙にちゃんと資料の見出しが書いてあるんだからさ。しかも大きな太文字だからとても見やすいし。少なくとも僕は苦労せずに探せるよ。僕も（・）最近、歳のせい（・・・・）か老眼が始まったみたいでね。望月さんのファイリングはとても見やすくて、助かってるんだ」

　芽衣の方を見て、清水は優しく微笑んだ。

「木崎さんはこれでも見づらいなら、一度眼科で診てもらったほうがいいんじゃない？」

　清水は実に明るい声で、木崎に忠告した。

嫌味を一切感じさせない、のほほんとした柔らかな物言い。

途端に社員の控えめな笑い声が聞こえ始めて、場の空気がすぐ和（おだ）やかに戻った。

「大きなお世話よ！そんなんだから、いつまで経ってもあんたは課長止まりなのよ！」

　木崎はそう吐き捨てると、象並みの大きな足音を立てながらその場を後にした。

「課長、すみません。ありがとうございました」

　芽衣は清水にお礼を告げた。

「いいんだよ。僕は鈍感だからなかなか気づいてあげられなかったけど。新谷（あらたに）から『望月（君）が困っているから、木崎さんにしっかり釘を刺しておいてくれ』って言われてしまってね」

　清水の口から出てきた名前に芽衣は驚いた。

「新谷君、後片付けなら私がやるよ。今日は珍しく定時で上がれるんだから先に帰っていいよ」

　会議は終わったというのに、新谷はテーブルの上の空（から）の紙コップを集め始めた。

それは雑用係の芽衣の仕事だ。チームリーダーに手伝わせるのは、気が引ける。

「それを言うなら望月だってそうだろう？」

　新谷は芽衣にそう告げて、一向に片づける手を止めない。

「私はこれが仕事だもん。終わったらすぐ帰るよ！」

「なら、俺が手伝った方がもっと早く帰れるだろう」

　新谷はぶっきらぼうに言うと、テキパキとテーブルの上を片付けていく。

「…ありがとう、新谷君」

　新谷の不器用な優しさに、芽衣は鼻を啜（すす）りながら、急にぽろぽろと泣き始めた。

「……課長に聞いたの。私なんかに気遣ってくれて…本当にありがとう」

　芽衣が泣いてることに、新谷は驚いた顔をした。

すぐに片づける手を止めて、芽衣の元に近づく。

「…礼なんかいいって」

　新谷は自分のシャツの袖で、芽衣の涙を優しく拭った。

「……泣くなよ。お前はいつも笑ってろ」

　新谷が笑いかける。

「うん…」

　芽衣は少し目を赤くさせながらも、笑顔を作った。

その笑顔を見て、新谷がとても眩しそうに目を細める。

「……早く終わらせて、一緒に飯でも食いに行くか」

「うん！あ、なら恵（めぐみ）も誘おうよ！」

「え…ああ…そうだな」

　芽衣の提案に、新谷はなんとも歯切れの悪い返事をした。

「？」

　そんな新谷の反応に、鈍感な芽衣は不思議そうに小首を傾げるのだった。