第10話

母は「お帰り」と言って、優しくハグしてくれた。きっと、母は、揺れ動いて、揺れ動いて、心の痛みと戦って、父に助けられて、優しい母に戻ってくれたのだろうと思った。

花も、母を抱きしめた。

紗枝とは遠隔でやり取りをしていて、5曲目を過ぎた頃に、合格点が出た。

「やってみます。いえ、やらせてください」

「お願いします」

「でも、まだ、突き放さないでくださいよ」

「もちろんよ」

それでも、花は、音楽の世界から完全に身を引くつもりだった。

普通の人のように、テレビを観て、散歩をして、時折美術館に行き、ゆったりとした生活をした。きっと、そんな生活は生まれて初めてかもしれない。

「雪乃さん。そろそろ、次の仕事にかかりますよ」

「はい」

「私、母子家庭の子供達の食を支えたい。そんな財団を作りたい。父も母も兄も、私の資産なんて必要としていない。了解は貰うけど、全ての資産をその財団に委ねたいと思う。雪乃さんは、その財団の理事長として、私の遺志を継いでもらいたいと思ってる。引き受けてもらえませんか」

「ほんと、あなたには、いつも、驚かされます。そんなこと、いつから考えてたんです」

「さあ、いつからかは、わからない。でも、この仕事をやってくれるのは雪乃さんしかいないと思っています。以前、戦友だという話はありましたけど、私は、雪乃さんを生涯のパートナーだと思っています。私の遺志を継いでくれるのはあなたしかいない」

「ありがとうございます。嬉しいです。とても、嬉しいです。でも、少し、考えさせてください」

「どうして」

「だって、私に、そんな大役が出来るとは思えません」

「やってもいないのに、どうして、出来ないなんてわかるんですか。今まで、私と一緒に仕事してきて、どうして、そんなこと言えるんです。雪乃さんは、今でも、警護と通訳の仕事しかしてないんですか。違うでしょう。あなたには、出来るんです」

「それでも」

「しゃあ、雪乃さん。これは、業務命令です」

「あちゃー」

「明日から、調査にかかってください」

「わかりましたけど、嗚呼」

父、石井達意が、どうして手を差し伸べてくれたのかはわからない。父が、生活を保障してくれ、目標を持たしてくれ、自由にやらせてくれたことで、音楽を世に出すことができた。しかも、その音楽は、音の神様が、理由はわからないが、与えてくれたものだ。確かに、歌う仕事はしたけど、楽曲がなければ、歌うことも出来なかっただろう。だから、花は、自分の力で何かを成し遂げたとは思っていない。音楽で得た金も、自分のものだとは思ったことがない。しかし、銀行にはかなりの額の金がある。父と神様に貰ったものだとすると、神様に返してもいいと思う。父は、反対しないだろう。いや、きっと、喜んでくれる。何人かの子供のひもじさをなくせるのであれば、父も神様も納得してくれると思う。雪乃の就職先も確保できる。全部、丸く収まる。

途方に暮れた顔をしていた雪乃が、数日後、坂田と二人で花の部屋に来た。

「坂田さんに仕事手伝ってもらっていいでしょうか」

「そうなの。坂田さん」

「雪乃さんに泣きつかれました。私に何が出来るか、いや、役に立つとは思えませんが、母子家庭の子供の食を支えるという仕事には、心動かされます。私も雪乃さんも、子供を持てませんでしたが、少しでも役に立てるのなら、と言いました」

「そうですか。では、坂田さんの仕事は、先ず、信頼できる看護師を見つけることです。そうすれば、配置転換が可能になります」

「なるほど。私、花さんの看護と、この仕事を両立させることばかり考えていました。葛城先生に相談してみます」

「じゃあ、動いてください。雪乃さん。それで、いいですね」

「わかりました」

「ひとつ、聞いてもいいですか」

「何でしょう」

「どうして、母子家庭の子供の食を支えるという仕事なんでしょう」

坂田は、花の過去を知らない。

「古い体験ですが、今でも、どこかに残っています。それが、ひもじさ、です」

「ひもじさ」

「私、子供の頃、ひもじいのを我慢してた頃があるんです。あれは、結構、きついです。お腹が減ると、気持ちも折れます。やせ我慢してましたが、辛かったです」

「そうだったんですか」

「これ、ほんとは国がやることです。個人に、どれほどのことができるのか、わかりませんが、焼け石に水と笑われるかもしれませんが、でも、やりたいと思ったんです」

個人に出来ることには限界がある。それでも、抵抗したい。「自分さえよければ」をやっている国や多くの人に、目を醒ましてくださいと言いたい。「優しさと温もり」を思い出してください、と言いたい。

著作権料収入がいつまで続くかは、わからないが、全額、財団に寄付をすれば国に税金を払わずに済む。いくら税金を払っても、子供達の飢えはなくならない。その分、1人でも、2人でも、ひもじさに耐えなくて済む子供がいれば、神のご加護だ。花は、特定の宗教への信仰心は捨てたが、それで、全ての信仰心を失ったことにはならない。

それでも、多分、「馬鹿な奴だ」と言われるのだろう。

そんなもん、「糞、喰らえ」だ。




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音の神様 石田友 @you-ishi

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