第9話

三谷紗枝作曲の5曲とメグとサエ作曲による5曲のアルバムが完成した。Breezeの曲がヒットチャートの上位に出てくることはなかったが、底堅い支持があり、サブスクのリスナー数はそれなりの数字を維持していた。

次のアルバムでは三谷紗枝の曲だけで作れそうだ。

紗枝が曲を作るようになって、村山も松岡も、実質的なリーダーは紗枝だと思っているが、紗枝はリーダー風を吹かすことなく、村山にリーダーを任せている。村山も松岡もBreezeを続けることが自分の利益になることを知っている。微妙なバランスで活動するグループだが、長続きするグループはそのバランスを維持することに成功しているのだろう。

久しぶりに紗枝が訪ねて来た。

花にサビの選択をしてもらうことが、紗枝の安心感になっている。

「どう」

「忙しいです」

「だろうね」

「苦しいです」

「だよね」

「一寸先が闇と言うか、茨の道と言うか、ともかく、苦しいです」

「それが、嫌なの」

「嫌じゃないです。て言うか、負けたくないという気持ちが一番強いかもしれません」

「ごめんね。変な所へ引きずり込んで」

「たまーに、花さんを恨むことあります。でも、たまーに、です」

「ごめん」

「でも、はるかに、充実感の方が大きいです。花さんは、おじいちゃんの弟子でしたが、私は、花さんの弟子です。そして、その事を私は誇りに思っています。人のつながりって凄いことなんだと思います」

「ほんと、全部、たまたま、なんだよね。ここで、紗枝と私がこんな話をしているが不思議。何か1つ、たまたまが欠けていたら、こういう光景はなかったんだよ」

「そう考えると、ちょっと、怖いかも」

「だよね」

紗枝が初めて来てくれた時のあの幼さは、もう、どこにもない。仕草も、容貌も、話し方も、その内容も、大人だ。ただ、来るたびにオムライスのリクエストをすることは変わっていない。亜矢に作り方を教えてもらって、何度も作っているが、味が違うと言ってた。雪乃も、教えてもらったが、やはり、亜矢のオムライスではないと言っていた。雪乃は、亜矢のオムライスをアヤライスだと言っている。

珍しく、キャサリンが来てくれた。

病気が判明し、花が大学へ通うようになって、キャサリンとの関係は途絶えていた。音楽の話なら電話があったと思うので、キャサリンの用件は、教会の事だと思ったので、雪乃にも同席してもらった。

再会を喜び、近況を話し、話は弾んだが、今では遠い過去になってしまったイギリスでの音楽活動が懐かしく思える。

「わざわざ日本まで来てくれたのは、教会の件ですか」

「そう」

「もう、キャサリンさんは忘れてくれてもいいのに」

「仕事ではね。でも、花は私の友達だから、放っておけないの」

「あなたが危険な目に遭えば、あなたの友人は、苦しみますよ」

「だから、細心の注意を払ってる」

「だとしても」

「ま、話を聞いて」

「はい」

「この前、ヘレンの招待でウォルター家の晩さん会に参加した。その時に、バチカンの方と友達になった。私、変な趣味があって、何かわかる」

「想像もできません」

「古代文字。シュメール文字とか絵文字って聞いたことあるでしょう」

「はい」

「子供の頃から、好きだった」

「文学少女だったとか」

「ただ、絵が文字になっていたのが好きだったのかもしれない」

「そのバチカンの人もシュメール文字が好きだったとか」

「そう、たまたまね。絵文字の話で盛り上がった相手がバチカンの人だったということで、バチカンの人だから近づいたというわけではないの。年齢は60歳を越えた人で、もちろん、紳士で、いろんなコレクションがあるから見に来ないかと誘われた。お互いにコレクションを見せ、いろんな話をした。最初は、趣味の話ばかりだったけど、次第に音楽の話とかバチカンの話になっていった。趣味の仲間って、急速に友達になるのよね。まるで、10年来の友達みたいな関係に。そこで、以前に騒がれた神父の不祥事について聞いてみた。天と地がひっくり返るような大騒ぎだったと言ってた。で、事件にはならなかったこともあるんじゃないかと聞いたら、あるね、と言ったの。でね、アメリカのケイン司教にもそんな噂がありましたよねと聞いたら、あれは、過去の事件で、今では、誰も気にしてないよ、と言ったの」

「それ、ちょっと、危なくないですか」

「警察の捜査があって、立証できなかったことと本人が死んでいることで、事件にはならないと言ってた。日本人歌手に気絶させられたことも知ってた」

「いや、いや、それ、危ないですよ」

「じゃあ、あなた、あの事件を立証できる」

「それは、無理ですが」

「自白を取る加害者は、既に、死んでいるんだから、事件になりようがない。だから、教会に被害が及ぶことはない。それが結論みたいよ」

「そうなんですか。FBIの捜査があったことは、私も聞きました」

「やっぱり。誰から聞いたの」

「私の友人の友人がCCMの楽団のリーダーをやっていて、私も、そこで歌ったんですけど、多分、彼は司教の手先でもあって、捜査の時にFBIに聴取されたけど、起訴されなかったから、もう、大丈夫だと言ったらしいです」

「もう、あなたの事件は過去のものになったということだと思う。2カ所で裏が取れたんだから、信じてもいいんじゃないかな」

「はあ」

「もし、まだ、心配なら、誓約書を書けばいい」

「誓約書」

「教会が、そんな事実はなかったと書き、あなたも、そんな事実はなかったと書けば、両者共安全になると思うよ」

「誓約書ですか。一度考えてみます」

「私は、そこまでする必要はないと思うけど、やるなら、私、交渉役やるわよ」

「はあ、考えてみます」

「もちろん、復帰しろ、とは言わない。病気がなければ言ってたと思うけど、もう、そんな無茶は言わない」

「ありがとうございます」

「どう、大学は楽しい」

「はい、とても、楽しいです」

「そうか、それは、よかった。でも、もしも、あなたがCD出したいと言ったら、私は二つ返事で引き受けるからね」

「は、は、もう、そんな体力ありません」

「そうか。無理しないでね」

「はい」

「雪乃も、少し楽になるんじゃない」

「だったら、嬉しいです」

それからも、イギリスの音楽事情について、キャサリンは熱弁を振るった。

「あっ、ごめん、私、こんな長時間喋って、あなたに無理させてるみたいね」

「いえ、最近は、大丈夫です。学校に毎日通えているんですから、普通の人とあまり変わりません。それより、いろんな話が聞けて、とても、楽しいです」

「ありがとう」

キャサリンが帰った後、花は、疲れを感じていた。

「花さん、少し、部屋で休んでください。疲れた顔してますよ」

「そうする」

花は、翌朝、起きることが出来なくて、学校を休んだ。

そして、3日間、学校を休んだ。

キャサリンの話は、凶報ではなく、明らかな吉報のはずなのに、何を心配しているのか自分でもわからない。気が付くと、あの日の事件を思い出している。

「花さん。念のため、病院に行ってもらえませんか」

花の不調にしびれを切らした雪乃が頼んできた。

「大丈夫、これは、病気ではないと思う」

「それでも、念のため、お願いします」

雪乃は一歩も引かなかった。

診察を受け、検査をしたが、数値に変化はないと言われた。

最近、母は、海外の仕事が増え、今は、フランスに行っている。母が日本にいたら、もっと大騒ぎになっていたかもしれない。花は、気を取り直して、学校に行くことを優先させた。

それでも、以前のような学生には戻れていないと感じている。

地球惑星物理学は、息の長い研究テーマであり、数年で成果を出せるような研究ではない。

最近は、自分の余命を考えてしまう。

あと2年なのか、5年なのかわからないが、10年ではないという確信はある。

つい、2年で、5年で、何ができるのだろうと考えている自分がいる。

そんなこと、端から分かっていたことだが、それを承知だったはずだが、つい、考え込んでしまう。

それは、多分、再び、音楽の道が開けたことが原因だと思うようになった。

では、再び、音楽の世界へ戻れるかと言うと、体力的に、そんな自信は持てない。

自分で決めるしかないことだが、決められない。

それは、周囲の者もわかっているようで、誰も口出しをしない。

そんな状態が4カ月も続いた。

ある日、やめていた発声練習をしてみた。以前と同じ声が出せるとは思っていなかったが、予想外に、声域が狭まっていた。花の持ち歌の何曲かは歌えない。暫く練習をして、自分の曲を歌ってみた。歌えないわけではないようだ。

学校が夏休みに入ったことで、花は、音楽室で歌うことに専念した。

花は、新しく作った曲から、お気に入りの10曲を選んで、メアリーに歌詞を書いてもらいたいとキャサリンに頼んだ。

そして、学校へは退学届けを出した。

どこまで出来るかわからないが、残りの人生を音楽と共に生きていきたいと思うようになった。考えてみれば、自分の人生には音楽しかなかった。余命が限られているなら、音楽と共に生きることが、自分のやることだろうと思えるようになったのだ。

編曲は、慣れているキャサリンに頼んだ。何曲かフルートの音を入れたいと注文し、そのフルート奏者には松岡を使って欲しいとお願いした。

主治医の近くにいたいので、収録は日本でやりたいとお願いした。

増田が録音スタジオの手配をしてくれた。

葛城医師に事情を話し、看護師を紹介してもらって、常駐スタッフになってもらった。

万全の対策を取って、花は、アルバム作りに挑戦した。これほど積極的に歌うのは、初めてかもしれない。自分の全部をぶつけたい。

歌詞、編曲、演奏では、遠隔調整の難しさはあったが、何とか、収録にこぎつけた。

収録には3週間かかったが、何とかアルバムが完成した。

花は、もう、へとへとだったが、やり切った充実感は、これまでのアルバムとは別物だった。ともかく、協力してくれた皆に礼を言いたいと思った。

もう、CDの売り上げがバロメーターになる時代ではない。それでも、そこそこ売れたらしい。サブスク解禁後は、リスナー数が増え続けたので、それなりに受け入れられたようだ。日本でも、以前よりは聴いてもらえるようになった。

「キャサリンさん、コンサートの話、しませんね」

「当たり前でしょう」

「私、やりたい、です」

「そういうのを、無謀と言うんです」

「それでも、やりたい。最後まで歌えるかどうか自信はありませんけど、やってみたい」

「本気で言ってるの」

「本気です」

「そんな」

「ステージの上で死ねたら、なんて考えます」

「それは、自棄でしょう」

「あと、何年、歌えるのか。何年、生きれるのか。そう考えると、時間が愛おしいんです。自分に、充分に生きたのかと問うと、頷けない自分がいるんです。悔いを残し、病院で苦しんで死ぬの嫌なんです。周りの人には迷惑かけますけど、我儘言いたいんです」

「困ったわね」

「一度、考えてください」

「わかった。考えてみる。あなたは、どこまでも強気なのね」

「ごめんなさい。自分でも、そう思います」

キャサリンが、打ち合わせのために日本に来てくれた。

「先ず、花の要望を聞かせて」

「日本公演をやってみて、コンサートに耐えられるかどうかを確認して、アメリカ公演をしたいと思っています」

「どうして、そう思ったの」

「余命です」

「病気は、そんなに悪いの」

「今は、進行は止まっていますが、止まっているだけで治ったわけではありません。ですから、いつかは、それも、そう遠くないいつかは、立つことも難しくなります。地球惑星物理学の研究をやりたいと思っていましたが、簡単なことではなく、何も出来ないまま終わり、周囲の方に迷惑をかけるだけで終わる可能性が高いです。だったら、懸案になっていたアメリカ公演をやることが、私の仕事なんじゃないかと考えました。キャサリンさんにも、会社にも、大変世話になったのに、私の我儘で公演が出来なかったことを申し訳なく思っていると同時に、借りを作ったまま、音楽をやめるのは、嫌だったのです。これも、私の我儘に過ぎません。そのことはお詫びします。それと、もう、惜しい命ではなくなり、アメリカ行きを恐れなくなったことも大きいです。日本の諺に、最後の一花、という言葉があります。日本流の美学かもしれませんが、そんな意識もあります」

「そうか。私には理解できない部分があるけど、花が、望んでいるのであれば、やるしかないと思ってる」

「ごめんなさい」

「ほんと、あなたには振り回されるばかり」

「ごめんなさい」

「でも、私も、全力で、あなたを支えたい。あなたがやりたいようにやることを、私はサポートする。ほんとは、安静にして、一日でも長く生きていて欲しいのが私の希望だけど、きっと、あなたには出来ないのよね」

「最後まで、ごめんなさい」

次の日から、キャサリンは増田を巻き込んで大車輪の交渉を始めた。花は、雪乃に、キャサリンの通訳兼専属運転手をしてくれるように頼んだ。

会場を押さえ、楽団と交渉し、それぞれの責任者のスケジュール調整をし、チケットの手配と、宣伝もしなければならない。

花は、父と母に、コンサートをやると報告した。

「あんた、なに考えてるの。馬鹿も休み休みにしてよ。この前だって録音でボロボロになったじゃない。私は、認めませんよ」

「ごめんなさい。でも、もう、決めたことだから」

「だったら、決める前に言いなさいよ」

「決める前に言ったら、母さん、許してくれた」

「許すわけないでしょう」

「でしょう」

「ともかく、反対。許せない。この馬鹿」

「ごめんなさい」

「あなたも、何とか言ってよ」

「私は、何も言えない」

「もう」

席を蹴るようにして、部屋へ行ってしまった。

「ごめんなさい」

「私に謝る必要はない。花が決めたことだから、私は反対しない。でも、真琴の気持ちは察してやって欲しい」

「わかってます。親不孝者だと、わかってます。それでも、私はやりたいんです」

「お前に、音楽を押し付けたのは私かもしれない。今更遅いけど、反省するよ」

「そんなこと言わないで。私は、自分で音楽を選んだの。そんな私を応援してくれた父さんには感謝しかない。父さんがいなければ、と思うと寒けがする。病気になってしまって申し訳ないと思うけど、ごめんなさい」

「私は、真琴の背中を摩ってくるよ」

「お願いします」

花は、葛城医師の指示を守り、規則正しい生活を心がけている。発病の時から空手の稽古と発声練習はやめていたが、発声練習だけは復活させた。少しずつ、声も戻っているように感じている。日常的に医療サポートは必要ではないが、看護師に常駐してもらっている。もちろん、定期的に検査を受け、レコーディングの時は、臨時の検査も受けた。コンサートの前にも検査を受ける予定をしている。一日中、コンサートで歌う曲の練習をした。こんなに熱心に練習したのは初めてかもしれない。

増田の要望で、Breezeがゲスト出演するので、村山とデュエットすることも受け入れた。

キャサリンは、ITVに働きかけて音楽ニュースとして花のコンサートを取り上げてもらい、花はその取材に応じ、イギリスで放映された。白血病歌手が話題になったところで、キャサリンは旅行社に営業して、コンサート鑑賞を含むジャパンツアーを企画してもらった。その動きは欧州に広がり、アメリカでも売り出されることになった。日本での知名度は低いこともあって、チケットの7割がイギリス発売となった。

もう、後へは引けない。

一番が健康管理、二番が練習。それ以外のことは、花の頭になかった。

体力を考え、リハーサルは1回だけになった。

そのリハーサルを、花は乗り切った。リハーサルの後、三日ほど寝込んだが、看護師の指示に従っただけで、花は練習したかった。

久しぶりに、自称「美の演出家」のスティーブと再会し、スティーブは優しかったが、妥協はなかった。

これまでのコンサートでもそうだが、リハーサルでは、音合わせの意味しか認めていない花が、本番で激変することを知っているスティーブは、花には注文を付けない。化粧や衣装は口を出してくるが、歌には全く口を出さない。

そして、コンサート当日になった。

花は、リラックスしていた。準備に全力投球したという自信があったので、ジタバタはしない。ただ、自分の体に「頑張ってくれ」と頼んだ。

観客は、8割方海外から来てくれた人で占められた。日本でチケットを買った海外の客もいるようだ。

歌の歌詞は英語。日本語の曲はBreezeの1曲だけ。入場者に渡されるパンフレットには、日本語に翻訳された歌詞も載せられていたが、役に立たないのかもしれない。

ついに、幕が開いた。

どよめく観客。ステージの両側にある巨大スクリーンに花が大写しになっている。花の美しさを知っている欧州のファンも、久しぶりに見る花の美しさに溜息を洩らした。

花は、拍手が収まるのを待って、英語で挨拶した。日本の歌手で、スクリーンに日本語訳が出るコンサートなんて前代未聞だった。花も、ここが、日本であることを忘れるようにしたので、日本のファンは不快に思っているかもしれない。申し訳ないが、日本公演はアメリカ公演のリハーサルなので仕方がない。

観客は1曲目から花ワールドに引きずり込まれ、翻弄され、涙を浮かべ、狂喜した。ゲストのBreezeの曲が、観客の記憶に残ったのかどうかは分からないが、鎮静剤としては相応しい曲だった。

後半が始まり、花の魔力は観客を揺り動かした。

そして、花は、10曲を歌い切った。

スタンディンクオーベーションに応えて、イギリスで定番になったダニーボーイを全員で歌ってもらい、コンサートは終了した。

コンサートに招待した葛城医師に付き添われて、花は、病院に直行した。別に体調が悪くなったのではなく、予定の行動だったので、騒ぐスタッフはいなかった。病院には多額の寄付をしているので、全面協力をしてくれる。花の歌を間近で聴いた葛城医師は、業務上の対応ではなく、親身に対応してくれた。

三日後に無事退院した。数値に異常はない。

帰途、雪乃の車で、楽団への挨拶と増田とBreezeのメンバーへの感謝の気持ちを伝えて、家に戻った。

門の外で、母が一人で待っているのが見えた。

停まった車に入って来た母が花を無言で抱きしめて泣き始めた。抱く力が強くなり、号泣、いや、悲鳴になっていた。花は、目で雪乃に車を動かすように言った。車のドアは閉まっていなかったが、雪乃は慎重に運転して、玄関前で車を止めた。

花は、母が落ち着くのを辛抱強く待った。玄関前に出てきた父も仁も亜矢も、動かなかった。

次第に母の力が弱まり、号泣は止んだ。

「母さん、ただいま。心配かけて、ごめん」

頷いた母が、後ろ向きのまま、ドアを出た所でバランスを崩し倒れかけたのを父が支えてくれた。母は父に抱きついて、また、泣き始めた。後で聞いたが、母は「こわいよー、こわいよー」と言っていたらしい。母だけがコンサート会場に来なかった。花が病院にいた3日間、母も倒れて仕事を休んだらしい。未だに夫の死を受け入れられていないのではないかと思うことがある。そんな母に、子供の死は受け入れられないのだろう。花は、自分は子供を生んでいないので、本当の母の気持ちは永遠に理解できないのかもしれないと思った。親不孝者、不肖の娘なのだろうが、それでも、まだ、母には心配をかけることになる。それでも、花は、最後まで、自分らしく生きたいと思う。母には「ごめんなさい」と言うしかない。

親孝行が美談になるのは、きっと、稀なことだからと思うようにした。ほんとは、母に心配を掛けたくない。でも、子供は、親不孝するものなのだと、勝手に思うことにした。


日本公演の動画は世界で評判になった。その美しさよりも、歌の説得力が評価されたことは嬉しい。元々、コンサートの花は、観客の心を掴み、揺さぶる力を持っていた。CDでは味わうことのできない感動を与えてきた。その力が、更に強くなったようだ。歌うことは自分の仕事ではないと思っていた花が、歌いたいと思っているし、聴いて欲しいと思っている。時間が限られたことで、花の強い意志が、歌に乗り移ったようだ。

日本でも、花に関する記事が普通に出るようになった。花のアルバムだけではなく、Breezeの曲、数々の歌手に提供された曲が紹介され、作曲家としての力量も認められた。日本ではほとんど無名だった花が、白血病歌手というイベントで知名度を得てしまったことを申し訳ないと思っている。花にとって日本公演はアメリカ公演のリハーサルに過ぎないなんて言ってしまうと非難されるだろう。それでも、何と言っても、ポップスの世界では、アメリカは世界一なのだから、やむを得ないことだった。

1週間の休暇を取り、日本を観光していたキャサリンが、東京へ戻って来た。

「どう、体調は」

「大丈夫です」

「よかった。で、どうしたい」

「私も、よくわからない」

「そうか。じゃあ、あなたが健康だったとしたら、どこで、何回のコンサートを、したい」

「場所は、どこでもいいです。回数はわからない。例えば、10回のコンサートをやる予定が5回で出来なくなったら、どうなります」

「普通は許されないけど、あなたの場合は、許してもらえるかもしれない。ただ、それなりの費用はかかると思う」

「じゃあ、先ず、5回を目標に。それがクリアできたら、あらためて考えるということでいいですか」

「5回目標ね」

「はい」

「時間は、どのくらい空ければいい」

「そうですね、それも、確信は持てませんけど、2カ月かな」

「わかった。それでスケジュールを作ってみる」

「それと、アメリカ公演の間、現地に住みたいと思います。住む場所は、病院の場所で決まりますが、音楽的なサポートは可能でしょうか」

「もちろん。私も、現地に滞在する」

「そんなこと、できるんですか」

「もう、許可は取ってある」

「そうなんですか」

「私は、アメリカでは、あなたのマネージャーだと思って」

「ありがとうございます」

「それと、あなたの体調の事、雪乃さんは、どのくらい知ってるの」

「全部です」

「じゃあ、彼女と私が定期連絡を取り、あなたの体調を把握することは可能かな」

「はい」

「できれば、検査結果も、共有したい」

「雪乃さんが管理してます」

「あなたの個人情報を、そこまで開示して大丈夫」

「私はキャサリンさんを信用してますので、心配いりません」

「ありがとう」

雪乃に同席してもらって、打ち合わせをした。

「台所まで聞こえてましたから、内容はわかります」

「どんな方法で情報共有するかね」

「はい」

アメリカ公演が動き始めた。

その1週間後、花は、葛城医師の前に座っていた。

「検査の結果もいいようですが、ご自分の感触では、どうですか」

「はい。変わりないようです」

「そうですか。この先も、音楽活動は続けるんですよね」

「はい。そのことで、先生にお願いがあります」

「何でしょう」

「次は、アメリカでコンサートをします」

「なるほど」

「何回かやりますので、アメリカに暫く住みたいと思っています。で、病院を紹介して欲しいのですが、可能でしょうか」

「もちろんです。ニューヨークメモリアルスローンケタリングがんセンターを紹介できます。私も以前に勤務していた病院です」

「紹介状を書いていただけるのですか」

「データも共有できます」

「是非、お願いします」

「いつがいいですか」

「住む家を見つけ、転居予定が決まったら、お願いしたいです」

「わかりました」

葛城医師から貰った病院のパンフレットを雪乃に渡した。家に帰って、二人でパンフレットを見て、相談が始まった。

「ニューヨークですね」

「雪乃さん。家を見つけてきて」

「私ですか」

「雪乃さんにお願いしたい」

「その間、花さんは」

「大人しくしていますから」

「そうですか。音楽室は必須ですよね」

「はい」

「戸建て住宅になりますね」

「はい」

「買っても、いいのですか」

「はい」

「向こうで、どんな方法があるか調べてみます。2年ですか」

「わかりません。10年にはならないでしょうが、5年の可能性はあります」

「奥様は、承知してくれるでしょうか」

「頑張ってみます」

「最初の公演は、ニューヨークがいいかもしれませんね」

「そうね。キャサリンに連絡しておいてくれる」

「はい」

花は、自分で動きたい衝動を抑えていた。自分の役目は、今は、歌うことだ。体力を維持することだと思っていた。

紗枝に来てもらった。

「今日は、あなたに頼みたいことがあって、ほんとは、私があなたを訪問して頼むのが筋なんでしょうが、我儘言って来てもらいました。ごめんなさい」

「花さん、私、怒りますよ。私、もう、高校生じゃありません。いや、高校生であったとしても、私、ここに来ることを、受け入れられるくらいは大人です」

「ごめん」

「だから」

「わかった。ありがとう」

「で、私は、なにをすればいいんですか。わたしにできることなら何でもします」

「これ」

「サビの楽譜ですよね」

「そう、これを、あなたに託したい。曲にしてもらいたい。全部」

「全部ですか」

「私、もう、曲にするだけの時間がないの。誰かが、間違って、私のお棺に入れてしまったら焼却されてしまう。それでは、音の神様に申し開きができない」

「・・・・」

「あなたなら、曲にしてくれて、世の中に送り出してくれる。あなたが販路を開拓してくれてもいいし、私のロンドン事務所を利用してくれてもいい。誰かに、歌ってもらいたいの」

「それを、私がやってもいいんですか」

「いや、あなたしかいない。三谷紗枝作曲でも、メグとサエ作曲でもいい、これ等のメロディーが誰かに歌ってもらえたら、それでいい」

「ちょっと、待ってください」

「駄目なの」

「いや、そうじゃなくて、私なんかが、その役を引き受けていいのでしょうか」

「他に、誰が、引き受けてくれるの」

「それは・・・」

「お願い」

「ごめんなさい。少し、考えさせてください」

「どうして」

「私、それほど、自分の才能、信じていないんです。私の曲も、メグとサエの曲も、花さんの力があって曲になっているんです。そのことは、花さんが一番知ってますよね。私一人で曲にするなんてこと、出来るとは思えません」

「それを、やって欲しいの」

「でも」

「じゃあ、これ、今、庭で焼いてもいい。紗枝は、見ていられる」

「そんな、無茶な」

「あなたが、苦労することは分かってる。私だって、ほんと、苦労したんだから。音の神様を恨んだことは、一度や二度じゃないわよ。それでも、私が曲にするしかなかったから、ない知恵絞ってやったの。それを、あなたに押し付けようとしていることはわかってる。でも、他にお願いできる人がいない。あなたしか、いないのよ。いや、ちょっと、待って。私、今気付いたんだけど、この楽譜、あなた以外の人に託せるのかな、と思ったら、多分、出来ないんだと思う。それなら、私と一緒に灰になってもいいと、今、思ってしまった。音の神様から見たら、酷い裏切りよね。でも、私、きっと、そうしてしまう」

「花さん」

「じゃあ、百歩譲る。1週間で答を出して。それまで、待つ」

「1週間」

「3日でもいいけど」

「いや、1週間で」

「じゃあ、来週、また、この時間に。約束よ」

「嗚呼」

1週間後。

「引き受けてくれる」

「条件がありますが、聞いてくれますか」

「もちろん」

「私、曲作りに専念します。もちろん、全力投球です。そして、1曲毎に、評価、修正してください。手抜きは駄目ですよ。もしも、10曲挑戦しても、私の力では無理だと、私が、花さんではなく私が、わかった時には、諦めてください。焼くかどうかは、花さんが決めることです。好きにしてください」

「わかった」

「今日から、始めます」

「ありがとう。ただ、まだ日は決まっていないけど、私、アメリカに行く。当分、帰れない。別に遠隔でもできるから、問題ないよね。紗枝がアメリカに来てくれるのであれば歓迎する。10曲以内に、あなたが納得してくれたら、もっと、嬉しい」

「私、正直、怖いです」

「わかる。私も、そうだった」

「ところで、いくつ、あるんです」

「数えていないけど、200くらいかな。まだ、増えるけど」

「嗚呼」

「地獄だと思ったでしょう」

「はい」

「私も、そうだった」

紗枝なら、きっと、乗り越えてくれると信じている。

どんな仕事でも、一筋縄ではいかないものだ。

キャサリンから、ITVのオファーの連絡が来た。コンサートの撮影ではなく、花の日常を撮影するドキュメンタリー番組を作りたいという内容だった。コンサートにもカメラは入るが、主に、コンサート前の数カ月を撮影したいと言っているらしい。

「断ってください」

「わかった」

「死病に取りつかれた人間を、世間に晒す行為は、悪趣味でしかないと言ってやってください。私は、動物園のライオンではありません」

「私も、それに近いことを言った。でも、同じ病で苦しんでいる人達に、病気と闘い、頑張っている姿を見てもらうことは、彼等に勇気を与えることになる、と言うの」

「それは、テレビ局の勝手な思い込みです。皆、自分で乗り越えるしかないんです。大変ですけど、他に方法はありません。私の姿を見ても役には立ちません。これは、自分と病気との戦いで、他人が入り込む余地なんてどこにもないんです」

「わかった。断っておく。余計な心配かけて、ごめん」

アメリカの雪乃から映像が届き、電話があった。

「映像、見てくれました」

「見た。立派な家じゃない」

「買値は、8億です」

「で、雪乃さんがこの映像を送って来たのは、別の話もあるんでしょう」

「その通りです。数年後であれば、8億で売れると言っています」

「それじゃあ、ただ、じゃない」

「ま、営業トークかもしれませんが、私の感触では、それほど大損をすることはないのではないかと思います。あくまでも、私の感触ですが」

「雪乃さんの感触に賭けてみます」

「ありがとうございます。契約書を送りますので、サインして返してください」

「わかりました」

「契約が出来たら、音楽室の改造をしなければなりませんし、生活できる場にしなければなりません。車も買います。備品を買いますし、ハウスキーパーも雇わなければなりません。あと、警備会社との契約も必要です。私は、こちらで仕事をしますけど、いいですか」

「お願いします」

「あと、そちらで、坂田さんを料理人として雇ってください。看護師兼料理人です。知ってました。坂田さんの料理の腕前、中々のものなんですよ」

「それは、知りませんでした」

「亜矢さんの弟子になったのは、私の方が先ですが、亜矢さんの免許皆伝を貰ったのは坂田さんなんです」

「そうでしたか」

「坂田さんを雇えば、亜矢さんの料理に近いものが食べられます」

「それは、嬉しいです」

電話を終えると、花は、台所にいる坂田と話をした。亜矢も太鼓判を押している。

さあ、いよいよ、最大の難関に挑む時が来たようだ。

先ず、いつものことだが、父に相談した。

「私が、説得するのか」

「いえ、同席してもらいたいのです。時々、助け船もお願いします」

「わかった」

しかし、母は、あっけなく了解してくれた。

「私が、なに言っても、あなたは、やるのよね」

「ごめんなさい」

「じゃあ、頑張りなさい」

「ありがとう、母さん」

多分、事前に父が説得してくれたのだろうと思った。

坂田の快諾ももらった。坂田は、1年間、アメリカで看護研修を受けた経験があり、会話もそれなりにできるそうだ。

花は、降ってくる音は書き留めるが、もう、曲作りの作業はしていない。体力維持のための簡単なトレーニングと歌の練習に専念していて、外出もしていない。中学時代から今日まで、時間に追われる生活が続き、友人を作る機会もなかったので、友人と呼べる人は少ないが、心ある友人は、闘病中の家に押しかけて来るのを遠慮している。唯一の来客は、紗枝だけだった。

ニューヨーク公演の3カ月前に、雪乃が整えてくれた住居も住めるようになり、家族と友人による送別会が行われた。

父に見送られて、花と雪乃と坂田は、成田を飛び立った。


ニューヨークの家では、家事を担当してくれる黒人の婦人が二人待っていてくれた。

花は一人ずつハグし、「家族になってくれて、ありがとうございます」と挨拶した。

二人は、狐に騙されたリスのように、声も出なかった。新しい雇用主の美しさと優しさは二人にとって初めての体験だったのかもしれない。

雪乃が間に立ち、二人を紹介した。

「エリー、私達のボス、花さん。独身だからミス・ハナと呼んでください」

「ミス・エリー、よろしく」

「あわわわ、よろしくでございます」

「スージー、この人が、話していた、花さん。私の話嘘じゃなかったでしょう」

「はい」

「ミズ・スージー、よろしくね」

まだ、目を見開いているだけで、言葉が出てこない。

「こちらは、看護師であり、料理人でもある、ミズ・サカタ」

「よろしく、お願いします」

「はい、はい。よろしく、お願いします」

「寝室に案内します。まず、休んでください」

「ありがとう」

坂田は、寝室の様子を確かめ、花の脈を診た後で、スージーの案内で買い物に出かけた。エリーとスージーの勤務時間は9時から5時の通い勤務だったので、買い物は、その時間内にしないとならない。地域の情報を把握するまでは、スージーに案内を頼んだ。

花のニューヨーク生活が始まった。

「近所への挨拶とか、どうしたらいいの」

「私が済ませています。白血病の闘病中で挨拶に伺えませんが、と断ってあります」

「それで、いいの」

「しばらくは、いいと思います。それより、病院に行きます」

「はい」

駐車場は車が数台入るほどの広さだった。大きなワンボックスカーが花専用の車だと教えられた。車内は、救急車並みの装備があり、後部座席も改造されていた。

「すごい車にしたのね」

「でしょう。褒めてくださいね」

「すごいです」

坂田も感心していた。

初めて坂田の料理を食べたが、亜矢が免許皆伝したくらいだから、何の違和感もなかった。

花はDVDを観て、雪乃と坂田は後片付けをしている。花が好きなDVDは、風景の映像と音楽があるだけのDVDだった。目は映像を見て、耳は音楽を聞いているが、頭は自由で、何かを考える時は重宝する。

その後、3人は、日本茶をゆっくりと味わった。

「最後まで、合格点が貰えなかったのが、お茶です。どうでしょう」

「美味しいです。亜矢さんのお茶とは少し違いますが、このお茶も美味しいです」

「今でも、何が違うのか、わかりません」

「多分、年季の差だと思います」

「じゃあ、追いつけませんね」

「でも、これで、いいと思いますよ」

「相談してもいいですか」

雪乃が仕事の顔になっていた。

「はい」

「ここは、アメリカです。日本とは違います。私は、一番違うのは治安だと思っています。その原因は、銃社会だからだと思っています。警備責任者としては、その対応をしておきたいと思います。花さん、家の中に銃を置くことを認めてくれますか」

「雪乃さんに任せます」

「坂田さんは、銃を扱ったことはありますか」

「いいえ」

「自分を守り、3人を守るために、銃の訓練をしてもらいたいと思いますが、どうしましょう。坂田さんが、触りたくないと言うのであれば、それでも構いません」

「私は、できれば、触りたくありません」

「わかりました。花さんは、どうします」

「私も、銃は触りたくありません」

「わかりました。私が、2人を守りますが、絶対とは補償できません。その時は、許してもらえますか」

「もちろんです」

「私も」

昼食は、5人で同じテーブルについて食べる。日本式の味付けだが、エリーとスージーは「美味しい」と言って喜んで食べてくれた。だが、オムライスが出た時、スージーが途中で食べるのをやめて、「娘にも食べさせたいから、持ち帰っていいか」と聞いてきた。

「どうぞ」

「ありがとうございます」

やはり、亜矢のオムライスは、最強のオムライスのようだ。

ニューヨーク公演が近づいてくると、訪問者が増えてきた。キャサリンやスティーブだけではなく、衣装担当者やメイク担当者もやってくる。リハーサルの回数が少ないので、楽団のリーダーも来る。

そんな人達は、病人を見舞いに来る服装ではない。明らかに、高級住宅街に相応しくない人もいる。

近隣住民の代表という年配の男性の訪問を受けた。

「ここの主人に会いたい。病気療養中だと聞いているが、ほんとに病気なのか。近所の者は心配している。あんた達は、何者なんだ」という抗議だった。雪乃は出かけていて留守で、スージーが「どうしましょう」と駆け込んできた。

「リビングにお通ししてください。丁重に」

「はい」

服装を変えている暇はないだろう。花は、プログラムを手にしてリビングに向かった。

「主の石井花と申します。ご心配をかけたようで、申し訳ありません」

男性は、花を見て絶句していたが、慌てて自己紹介をした。老人の名はトニー・ロジャース、2軒先の住人のようだ。

「最近、人の出入りが多いが、見舞客には見えないと心配している。あなたが、病気なのかね」

「はい」

「あれは、見舞客なのかね」

「いえ、違います。皆さん、仕事の打ち合わせで来ています」

「仕事」

「はい」

花は、パンフレットを男性に渡した。

「歌手」

「はい。私は、急性骨髄性白血病と戦っています。最後の力を振り絞って、コンサートのためにニューヨークにやってきました。わたしが出向けばいいのですが、私の体力を考えて、皆さん、ここに打ち合わせに来てもらっています。彼等は、決して、危ない人達ではありません。それと、私の余命は限られていますので、ずっと、ここに住むわけではありません。それでも、ここから出ていけ、と仰るのなら、出ていきますが、次の家が決まるまで、少し、時間を頂ければありがたいです」

「いや、そんなことは言ってない。あんたが何者かわからなかったから、心配しただけで、追い出すなんてことは、ありません」

「ここに住んでいて、よろしいのですか」

「ああ、もちろんだ」

「ありがとうございます」

「あんたの歌手名を教えてもらっていいかね」

「HANAと言います。アメリカ公演は、今回が初めてですから、まだ、御存じではないと思います」

花は、スマホでユーチューブの映像を出して、男性に渡した。

「ああ、確かに、あんただ」

ニューヨーク公演のことを書いている記事を出して、再度、男性にスマホを渡した。

「白血病の事も書かれています」

「うん。書いてある」

「事前に情報開示すべきだったと思います。私の落ち度です。申し訳ありません」

「いや、いや、そういうことじゃなくて、ほんと、ちょっとだけ、心配だったんだ」

「それと、私がここに住んでいることがわかると、いろいろな人が見学に来ると思って、出来るだけ、情報開示は控えていました」

「うむ、それは、厄介だ」

「できれば、他言無用でお願いできると有難いです」

「もちろん、もちろん」

「ほんとに、ごめんなさい。この先、よろしくお願いします」

「わかった」

男性は帰って行った。

帰って来た雪乃が事情を聞いたらしく、部屋に飛び込んできた。

「私のミスです。申し訳ありません」

「雪乃さんのミスではあません。ああいう人は、どの国にもいます。雪乃さんが責任を感じる必要はありません。それに、雨降って地固まると言うじゃないですか。近所の皆さん、きっと、協力してくれると思います」

花が想像していたように、近隣住民の態度が変わった。

「いろんな人が、挨拶してくれて、気味悪いくらいです」とスージーが驚いていた。


コンサート当日になった。

世界とか、経済とか、政治とかの話はよくわからないが、日本だけではなく、世界が行き詰っていることは感じる。そういう時代に失われるものは、人の優しさや温もりなのだと思う。音楽には、優しさや温もりを伝える、いや、思い出させてくれる力があるのではないかと思っている。だから、せめて、コンサートに来てくれる人達に、彼等の心の奥底にある魂に呼びかけたい。優しさや温もりを忘れないで欲しいと伝えたい。花の曲も歌も、流行りの音楽ではないのだろうが、自分に出来ることをしたい。歌うことから逃げ続けてきた花が、アメリカ公演に踏み切ったのは、余命を突き付けられたことで、限られた時間で、自分に出来ることをしろ、という音の神様の命令なのではないかと思ったことが、気持ちを変えたのだと思っている。

観客の魂に語り掛けたい、シンクロしたい。伝えたいのは、メロディーでも歌詞でも歌声でもない。伝えたいのは、優しさと温もりを忘れないで欲しいという音の神様の願いを届けることだ。

銀髪に染め、漆黒のドレスを着た花は美しかった。スティーブが絶句するほどの美しさだった。スポットライトに浮かび上がった花の美しさに、大型スクリーンに映し出された花の美しさに、観客がどよめく。スティーブは「美を届けること」が仕事だと言っていた。しかし、花の仕事は「美を届けること」ではない。美しさが武器になるのであれば利用すればいい。花が伝えたいのは、優しさと温もりを忘れないで欲しいという願いを観客の魂に届けることだ。

1曲目から、花は、観客の心へ侵入した。

もっと奥へ、魂の真ん中へ。

心を揺り動かし、壁を越え、侵入し続けた。

病身の自分が、どこまで耐えられるかの勝負でもあった。

自分がコンサート会場のステージの上に立っているという意識もない。何曲目を歌っていて、次の段取りを考えることも忘れ、花は歌い続けた。

次に歌う曲がないことに気付いて、花は、我に返った。

リハーサル通りにやれたのかどうか自信がない。スタッフ、楽団員、照明や音響の人達、皆、随分振り回されて苦労したのだろう。申し訳ないと思う。

客席は、拍手と怒号の渦だった。拍手の音がいつもと違う。それは、ほとんどの人がハンカチを手にしているかららしい。

花は、深々と礼をして、舞台を後にした。

しかし、拍手と怒号は止まない。

舞台裏に引っ込んだ花は、歩き続けた。座ってしまえば、横になってしまえば、二度と立ち上がれないと思って歩き続けた。

スティーブに促されて、ステージに戻った花を、観客は、悲鳴のような歓声で迎えてくれた。

アメリカでのアンコール曲は「アメージング・グレース」だった。

1番の歌詞を歌い終えた花は、観客に、一緒に歌ってくれ、とリクエストした。

会場が「アメージング・グレース」になった。

スティーブが舞台に出てきて、花をエスコートしてくれて舞台を去り、会場の証明が明るくなった。

それでも、拍手と歓声は終わらない。

しかし、花は、病院から借りて来たストレッチャーに乗り、雪乃の運転する車で病院に向かっていた。静養と検査と体力回復のために、数日間入院する。

コンサートの様子が、驚くほどのスピードで広がり、アメリカ中の音楽情報の最大関心事になった。次の公演が予定されているロサンゼルスのチケットの闇価格が暴騰している。

1週間後に自宅に戻った花を、キャサリンが見舞い名目で訪れて、コンサートの近況を伝えてくれた。

「どうでした」

「神がかっていた」

「キャサリンさんにも見えてたんですか」

「何が」

「私、音の神様に脅されてたんです」

「まあ」

「お前が伝えるのは何だ。わかっているだろうな、と」

「あらら」

「私は、優しさと温もりを伝えたかったんです」

「伝わったと思う。皆、受け取ってくれたと思う。私も、受け取った」

「ありがとうございます」

「この騒ぎは当分収まらないと思う。まだ、やれる」

「やります」

「わかった」

コンサートは、ロサンゼルス、ヒューストン、マイアミと続き、最終公演は再びニューヨークで開催された。

花は、5公演を乗り切った。

検査の数値に異常は認められない。

それでも、キャサリンに、アメリカ公演は終わりにしたいと申し出て、了解を貰った。

「雪乃さん。日本に帰りましょう」

「わかりました。撤収の準備に入ります」

アメリカを離れる日、エリーとスージーは泣きとおしていた。

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