第6話

珍しく携帯が鳴った。

花は、高検のための受験勉強の毎日だった。

週に一度、ロンドンの雪乃から電話が来るだけで、何かトラブルでもあったのかと画面を見ると、三松の名前だった。懐かしい。

「はい、石井です」

「三松だけど、今、いいかな」

「はい」

「忙しいか」

「さあ、どうなんでしょう、忙しいのかもしれません」

「何、してる」

「受験勉強です」

「ああ、そりゃあ、忙しいか」

「何か」

「一度、会っておきたいと思ってな」

「何か、特別な話ですか」

「いや、引退した。病気もした。いつ、終わるかわからん。なぜかわからんが、花に会いたいと思ったんだ」

「もちろん、喜んでお邪魔しますよ」

「ありがとう」

「先生のご都合は、いつが、いいんですか」

「今度の土曜日でも、いいかね」

「はい」

「花とは、一度も食事をしたことがなかった。最後に、教え子と食事がしたい」

「最後なんて、言わないでください。何度でもお付き合いしますから」

「ありがとう」

「どこへ、伺えば」

「場所は、メールしとく。無理言ってすまんな」

「とんでもありません。喜んで伺います」

「楽しみだ」

「はい」

土曜日、花は、銀座の中華飯店を訪ねた。

中華料理が食べれるのであれば、まだまだ、元気なのだろうと思ったが、部屋に入って驚いた。三松は、別人のように痩せて、歳をとっていた。

「よく、来てくれた」

「とんでもありません。お体の具合は、どうですか」

「これでも、随分、回復したんだ。一度は、死にかけた」

「そうだったんですか。何も知らずに済みません」

「なに、一度、レッスンしただけの間柄なんだから、気にすることはない。随分、世話した子でも、寄り付かない。もう、終わった爺だからな」

「そんなこと、言わないでください。私は、いつでも会いに来ますよ」

「あんたは、変わった子だな。あの時も、そう思ったけど、やっぱり、変わってる」

「そうなんですか」

「それと、もう1つ、謝らなければならないことがある」

「何でしょう」

「増田君も来ることになっている」

「それが、目的ですか」

「いや、何故か、君には会っておきたいと思った。ほんの数カ月の付き合いだったけど、最後に、君の顔が見たくなった。自分でも驚いた。その話を、つい、増田君に話してしまった。彼女、すぐに喰いついてきた。まだ、現役だから、仕方ないけど、話さなければよかったと思ったけど、後の祭りさ。彼女とは長い付き合いで、断りにくい。つい、君も来るかい、と言ってしまった。すまん」

「先生が、私のことを心配してくれたのですから、全然、問題ありません」

「でも、もう、歌手は辞めたんだろう」

「はい」

「だったら、もう、私に利用価値はないだろう」

「先生、そういう問題ではありません。確かに、先生と生徒の関係でしたけど、私は、先生に感謝しているんです。私の中では、歌うという仕事に関しては、先生はたった一人の恩師なんです」

「ありがとう。そんなこと言われると、泣いてしまいそうだよ」

「やめてくだい」

「君の歌を初めて聴いた時、顔には出さないようにしてたけど、驚いたというよりショックだった。こんな声を出せる人間がいたんだ、という驚き。多くの歌手と仕事をしたけど、君の声は初めてだった。歌は粗削りだったけど、君の声には、ぬくもりがあったんだ。サブスクを解禁してくれたおかげで、今でも、君の歌は、残らず、何度も、聴いている。歌が上手になったけど、あのぬくもりは失っていない。私は、何も教えられなかったけど、私にとっては、一番の生徒だと思っている。俺は、あの花のレッスンをしたんだぞ、という密かな自慢。これだけは、あの世でも自慢できると思っている」

「ありがとうございます。嬉しいです」

「苦労はしたんだろう」

「人並みには」

「それでも、ぬくもりは失くさなかった」

「自分では、わかっていませんけど、そう言ってもらえると嬉しいです」

「もう、音は降って来なくなったのかね」

「はい、お陰様で、解放されたような気分です」

「そうか。それはよかった」

中華バイキングだから、料理は次々と運ばれてくるが、三松が手を出しているのはスープくらいで、花も遠慮した。

「で、この先、どうする」

「はい。大学へ行って、何か、新しいものに挑戦したいです」

「音楽ではない」

「だと思います。自分でも、何がしたいのか、まだ、わかりません」

「そうか、何か見つけられるといいな」

「はい。楽しみです」

ドアが開いて、増田が入ってきた。

「ごめんなさい。遅れてしまいました」

「ご無沙汰しています」

「ごめん。押しかけて。三松さんがあなたと会うと聞いて、無理矢理、同席させろと無理を言った。仕事の話はするけど、素直に、あなたに会いたいと思ったのも、ほんと。変な言い方だけど、大きくなったわね、という感想。懐かしいわ」

増田も、それなりに歳を取っていたが、現役の臭いは強くなっているように感じた。

「今日は、仕事の話は、なしですよ。旧交を温める会合ですから」

「ううん、相変わらず、難攻不落みたいね」

「増田君。食べなさい」

「はい、頂きます」

増田の食欲は旺盛で、花もつられて食べた。三松は、そんな二人を見て喜んでいる。

初めて三人が会った時の話で盛り上がり、楽しい食事会になり、三松が喜んでいる様子が嬉しかった。

「先生。無理してません」

「そうだな、少し疲れた」

「増田さん、お開きにして、いいですか」

「そうね。私、タクシー頼んでくる」

会計は、勝手に増田が済ませてしまったようだ。

二人で、タクシーを見送った後に、増田に、お茶を誘われた。

断る口実はない。会食の時は仕事の話をしなかったのだから、仕方がない。

「今日は仕事の話はしない。でも、一度、時間を作って欲しいの」

「わかりました。いつがいいですか」

「私は、いつでも」

「では、これから、増田さんの事務所に行きましょうか。増田さんの話も分かっていますし、増田さんは私の返事もわかっている。それでもいいですか」

「いい」

「じゃあ、そうしましょう」

「ありがとう」

二人はタクシーに乗った。

「あなた、今、何してるの」

「高検の受験勉強をしています」

「大学」

「はい。私、音楽しか知らない出来損ないですから、普通の人間目指しています」

「そう、高校も行かなかったのよね」

「はい」

「音楽だけじゃ駄目なの」

「駄目ではないですけど、いろいろなこと知りたいと思っています」

「街で声かけられたりしない」

「出かけませんから」

「銀座でも、振り返って、あなたを見てた人一杯いたけど、気にならない」

「慣れてますから」

「慣れてる」

「はい。これでも、イギリスでは有名人でしたから」

「そうか」

「三松さんの病状、知ってますか」

「かなり、良くないみたい。最後の力を振り絞ってでも、あなたに会いたかったみたいね」

「そうなんですか」

「あなたとは、ほんの数カ月だったのに、あなた、よく、来てくれたと思う。私、三松さんとはいろいろあったけど、付き合い長いし、できるだけ、喜んでもらいたいと思ってた。私も、あなたには感謝してる。嬉しそうな三松さんが見れて、私も、嬉しかった。それと、有名人なのに有名人になっていなかったあなたに会えたことは、三松さん、嬉しかったと思う」

「有名人なんて、いいこと、何もありませんよ。うっとうしいだけです」

「変わってないわね」

「変ですか」

「いや。あなたの、そのパワーの源を知りたいわ」

「パワーですか」

「初めて会った時も、そう思った。今日も、そう思ってる」

「多分、気が強いだけの、出来損ないなんですよ」

「違うわね。出来損ないが、三松さんに対して、あんな接し方はしないと思う。あなたには、ぬくもりがあった。社交辞令では、あんな接し方はできない。三松さんは、とても、嬉しかったと思う」

「今日、三松さんにも、声にぬくもりがあると褒めてもらいました。自分では、よくわかりませんが、お二人に言われると、そうかな、なんて思ってしまいそうです」

「そう、三松さん、そんなこと、言ってたの」

「はい。有難いと思います」

案内された部屋は会議室ではなく、立派な部屋だった。

「増田さん、役員になられたのですか」

「一番、下っ端のね」

「おめでとうございます」

「私は、あまり優等生じゃないから、嬉しいとは思っていない」

「増田さんも、出来損ないなんだ」

「そうだね。ほんと、出来損ない」

「ごめんなさい、言い過ぎました」

「自分で出来損ないだと言えるあなたと同類だと言われるほうが嬉しい」

増田は、日本の音楽業界が心配だと語り始めた。

「心配だと言いながら、私は、積極的に後押しをしている。私みたいな人間は、引退すべきなんでしょうけど、しがみ付いている自分が情けない。私の感覚は古いのかもしれないけど、音楽って、基本、心地いいものだと思うの。そこを忘れてしまっていいのかと思ってしまう」

「日本の音楽事情は、私にはわかりません」

「イギリスでは、どうだった」

「いろいろな音楽が、それなりに存在しているって思います」

「そうよね。世界の音楽から見ると、異質に見える。あなた、前に、自分の曲は日本では喜ばれないと言ってたわよね。私も、そう思うようになった」

「それは拙いですね。私は、もう、日本人失格なのかもしれませんが、増田さんが、そんなこと思っちゃだめじゃないんですか」

「ほんと、私も、日本人失格になりそう。私は、ただ、普通の音楽が、心地いいだけの音楽が、優しい音楽が欲しいと思うの。あなたの曲みたいな音楽が欲しい」

「そう来ますか」

「違う、違う、これは営業トークじゃない」

「私は、歌いませんよ」

「曲の提供は」

「もう、残り少ししかありませんし、日本では難しい、と今でも思っています」

「何曲くらい出したの」

「そうですね、350くらいです」

「残りは」

「50くらいです」

「その50は、どうするつもり」

「まだ、ロンドンで、私の事務所が営業してます」

「私が、申し込んでもいいのかな」

「誰が歌うかによります」

「誰が歌えば、出してくれるの」

「私は、日本の歌手の方は知りませんので、名前はわかりません。申し込んでくれれば、歌手名を聞いてきますので、伝えてください。曲を出していて、サブスクで聴ける方なら、事務所のスタッフが判断します。新人の場合は、事務所で歌ってもらうことになります。必要なら、事務所が、既に提供している歌手名を教えてくれます」

「あなたは」

「私は、関与しません。彼等を信頼してますので」

「そう」

「ただ、日本での発売は、難しいかもしれません」

「どうして」

「スタッフは、その曲の販売数が報酬に直結していますので、販売予測も判定材料になります。日本は不利だと思います」

「あなたが、頼んでも」

「ですから、私は関与していません」

「あなたの曲なのに」

「はい」

「もう、音は、降って来ないのね」

「はい」

「あなたの曲なら、流れを変えることが出来るんじゃないかと思ったんだけど」

「難しいと思います。誰か一人の曲で、全体の流れが変わるなんてことは起きないと思います。特に、私の曲では無理だと思います」

「そうか」

「ごめんなさい。役に立てなくて」

「ううん、でも、念のため、申し込んでみる。事務所の連絡先教えてもらえる」

「後で、メールします」

「ありがとう、口利きなんてしないのよね」

「私に出来るのは、増田さんという人から連絡が来ることを伝えるくらいです」

「それでもいい。お願いします」

「わかりました」

「日本語でも大丈夫なの」

「はい。日本人スタッフが事務所の責任者です」

「そう」

花は、ロンドンのメールアドレスを渡して増田の事務所を後にした。

翌日、増田にメールをして、雪乃に電話した。

「断ってもいいんですか」

「雪乃さんに任せます」

「わかりました」


1週間後、増田から電話が来た。

もう、断られたのかと思ったが、三松が亡くなったという連絡だった。

「お葬式、どうする」

「行きます」

「娘さんが、是非、あなたに会いたいと言ってる。声かけてやってくれる」

「わかりました。増田さんは、行かれないのですか」

「まだ、わからない。時間ができたら行きたいと思ってる」

「わかりました」

葬儀は3回目だったが、寂しい葬儀だった。そこそこ有名な人だったのに不思議だった。

焼香をして、親族席に頭を下げて読経を聞くために席に座った。

親族席には中年の女性と高校生と思われる女の子の二人だけのようだ。

女性が席を立って近づいてきた。

「石井さん、ですか」

「はい」

「少し、よろしいですか」

「はい」

葬儀会場のロビーの椅子に座った。

「三松の娘です。ありがとうございます」

「石井です。この度は、残念です」

「いいえ、本人が一番、安堵していると思います。あなたが会ってくださったあの日から、父は、それまでの父と別人のように、とても穏やかでした。死に顔も、とても優しい顔で、私、泣いてしまいました。ここ数年は、とても怒りっぽくなって、どんどん世間を狭くして、今日も、こんな寂しいお葬式になってしまいました。あなたに会えなければ、きっと、もっと、寂しいお式になっていたと思います。ほんとに、ほんとに、ありがとうございます。父は、あなたに救われて、納得して、あの世に行ったと思います」

「私は、何も」

「父は、あなたに貰ったCDを大事に持っていて、何度も聴いて、あなたの声が好きだったみたいで、あなたのファンだったと思います。今は、娘が、よく聴いています」

「ありがとうございます」

「歌手はお辞めになったと増田さんから聞きました。そうなんですか」

「はい」

「イギリスですよね」

「はい」

「父は、いつも、もったいない、と言っていました。日本でも歌って欲しいと言ってたんです」

「そうなんですか。私には、そんな話はしてくれませんでした」

「ちょっと、変わっている、あら、ごめんなさい。あなたにはあなたの信念があるのだろうが、もったいない、と言ってました」

「ありがたいです」

「石井さんには、どうしても、一言、お礼を言いたかったんです。来ていただいて、ほんとに、ありがとうございました。お忙しいでしょうから、適当に切り上げてください」

「はい」

二人は、それぞれの席に戻った。

出棺の少し前に、増田がやって来た。間に合ったようだ。

「ありがとう。娘さん、喜んでたよ」

「よかったです」

出棺を終えた時の参列者は、数人だった。

「寂しいお葬式だったわね」

「そうですね」

「癖の強い人だったから仕方ないのかもしれないけど、私は三松さん、好きだったな。あなたのお陰で、最後は穏やかだったと聞いて、私も、嬉しかった」

「役に立ったのなら、私も、嬉しいです」

「一緒に帰る」

「いえ、私も、車、待ってもらっていますので」

「そう」

仕事の話をしない増田を不思議に思った。諦めてくれたのか。まさか、そんなことはないと思った。葬儀場でする話ではないと思っただけだろう。

翌日、三松の携帯から電話があった。

「三松紗枝と言います。おじいちゃんの携帯から電話してます」

「はい。石井です。どうしました」

「いえ。昨日、来ていただいたことのお礼と、おじいちゃんの形見のCDに、花さんのサインを頂けないかと思って、電話しました」

「お安いことです。サインくらい、いつでも、しますよ」

「ありがとうございます」

「お母さんは、疲れ、出てませんか」

「はい。大丈夫です」

「いつがいいですか」

「今度の日曜日、お邪魔してもいいですか」

「もちろん。場所は分かりますか」

「増田さんに聞きましたので、行けると思います。何時がよろしいでしょうか」

「私は、何時でもいいですよ」

「それじゃ、一時でいいですか」

「他に、何か用事あるの」

「いえ」

「だったら、12時でどう。一緒に食事しましょう」

「いいんですか」

「もちろんです」

「ありがとうございます」

「じゃあ、日曜日の12時で」

「はい。ありがとうございます」

「好き嫌いある」

「いえ。何でも食べます」

「わかった」

日曜日に私服の紗枝が来た。

昼食は、定番のオムライスだった。花も、亜矢のオムライスは、絶品だと思っている。紗枝も、一心不乱に食べた。

「こんな美味しいオムライス、初めてです」

「でしょう。何度食べても、私も、夢中で食べてしまう」

「レシピ、教えて欲しい」

「あとで、頼んでみよう。CDは」

「はい」

ポーチからCDを取り出した。

「懐かしいCDね」

「おじいちゃんと、何度も、聴きました」

「ありがとう。紗枝さん、サブスクは」

「もちろん。花さんの曲は全部聴いています」

「それは、重ね重ね、お礼言います」

紗枝を音楽室へ連れて行った。

「どこへ、書けばいい」

「直接、お願いします」

「紗枝さんは、どんな字なの」

「更紗の紗に枝です」

「わかった」

花は、最新のCDにもサインをして、紗枝に渡した。

「ありがとうございます」

「紗枝さんは、何年生」

「高3です」

「どうして、三松さんなの」

「両親が離婚して、おじいちゃんと暮らしてました」

「そうなんだ。紗枝さんも、三松さんのように、音楽やりたいと思ってるの」

「まだ、わかりません」

「そう」

「花さんは、いつから、音楽やったんですか」

「私は、中1」

「そうなんですね」

「無理には勧めないわよ。私、楽じゃなかったし」

「おじいちゃんも、そう言ってました」

「ま、何をやっても、同じなんでしょうけどね」

「はい」

「花さんは、どうして、歌手やめちゃったんですか」

「そうね、大人の事情」

「大人って、難しそうですね」

「確かに」

「これから、どうするんですか」

「私、仕事、忙しくて、高校に行けなかった。今、高校検定を受ける受験勉強。高検に合格したら、大学に行ってみたい」

「大学に行って、何、するんですか」

「それは、私にも、わからない。今から、見つける」

「何か、見つかるといいですね」

「うん」

「おじいちゃんから聞きましたけど、音が降ってくるんですよね」

「そうなの。それが厄介」

「どんな感じなんですか」

「突然」

「それは、困るでしょう」

「ほんと、困る。待った無しだもんね」

「どうしたんですか」

「ピアノの稽古をして、楽譜に書く練習をした。ただ、無我夢中。音にこき使われている奴隷状態。何度も、放り出そうと思った」

「それで、何曲作ったんです」

「400曲くらいかしら」

「もう、音は降って来ないんですか」

「お陰様で、解放されたようね」

「それで、歌手をやめたんですか」

「それもあるわね」

「寂しい、とかはないんですか」

「そうね、確かに、寂しいと思ったことはないかな。自由になったという気持ちの方が大きいのかもしれないけど」

「自由ですか」

「あなたも、三松さんの孫だから、ピアノは弾くのよね」

「おじいちゃんには、才能ないな、と言われましたけど」

「三松さんは、厳しかったようね」

「泣いて帰る人、見た事、何度もあります」

「不思議。私、一度も泣かされたことありません」

「子供でしたけど、花さんのこと知ってます」

「知ってるの」

「はい。おじいちゃん、めげない奴だ、と笑っていました」

「じゃあ、私も、怒られていたんだ」

「じゃ、ないですか」

「私、怒られているなんて思ってもいないから、先生も困ったのかもしれないわね」

「でも、花さんの才能は本物だと褒めていました。花さんの声が好きだったんだと思います。おじいちゃんも才能ある音楽家だったと思いますけど、花さんには、どこか遠慮があったのかもしれません。生歌を初めて聴いた時は鳥肌が立ったと言ってました。多くの歌手の歌を聴いてきたあのおじいちゃんが、花さんの生歌には圧倒されたそうです」

「そう」

「ロンドンの花さんのコンサートに行きたいとずっと言ってました」

「知らなかった。言ってくれれば、招待したのに」

「でしょう。母も、言えばチケット送ってくれるわよ、と言ってました」

「それを言わないのが、三松先生なのね」

「そうなんです。意地を張る理由がわからない。扱いにくい変人という噂は、母から聞いていましたが、私には、わかりませんでした。私には、とても、いいおじいちゃんでしたから」

「おじいちゃんが好きだったんだ」

「はい。多分、母よりも私のほうが落ち込んでいるんだと思います。花さんにサインをお願いしたのも、おじいちゃんのことを話したかったんだと思います」

「そうだったんだ。いつでも、話、聞くよ」

「ありがとうございます」

それからも、とりとめのない話をした。花も楽しかった。紗枝の話を聞きながら、自分の中学生の頃のことを思い出したりして、笑いあった。

あっと言う間に時間が過ぎ、夕食の時間になっていた。

父も母も、仕事が忙しくて夕食を共にすることはほとんどない。紗枝と二人で、食事をした。紗枝は痩せているのに、食欲では負けている。自分が若い頃も、こんなに食べていたのだろうか。思い出せない。

「あなた、瘦せの大食いって言われない」

「だって、美味しいんですもの。母は仕事してますし、料理は手抜きが多いです。最近は、私も料理しますけど、私も手抜きしてます。こんな美味しい料理は、もしかすると、生まれて初めてかもしれません」

「そう、それはよかった。亜矢さんに、伝えておきます」

「私、料理が上手な人、尊敬します」

「そう、私の兄が食堂やってるの。プロの料理人。今度、一緒に行きましょう」

「ほんとですか」

「私は、料理、下手だけど、兄の料理は美味しい。自慢できるくらい美味しい」

「楽しみです」

「お母さんは、お仕事、何をしているの」

「看護師です」

「あら、激務じゃない」

「おじいちゃんが倒れてから、お母さん大変だったみたいです。私が、料理するようになったのも、そんなお母さんを助けたかったからです。役に立ったのかどうか、疑問ですけど、私、おじいちゃんやお母さんの力になりたかった。二人とも、大好きだし、とても、大切な人ですから、何とかしたかった。大して役には立たなかったのでしょうが」

「私には、わからないけど、紗枝さんの気持ちは伝わっていたと思うし、気持ちって、とても、人を助ける力を持っていると思う。あなたの気持ちだけで、二人は、とても嬉しかったと思う。先生は、ほんとは、幸せ者だったんだ」

「そう、思ってくれたら、嬉しいです」

「あなたは、夢とかあるの」

「夢ですか。今は、料理上手になって、お母さんを助けたいです。その先は、考えてません」

「だよね。私も、あなたと同じ頃、そう思っていた」

「えっ、だって、花さんはお嬢さんだったんでしょう」

「10年前からね」

「10年前」

「10年前に、母が再婚して、ここに来て、それからはお嬢さん」

「それまでは」

「母が働いて、兄が料理をして、私が、洗濯とか掃除。10年前までは、母子家庭で生活苦しかった」

「そうだったんですね」

「あなたには、おじいちゃんがいたんだから、私より余裕だったんじゃない」

「そうですね。お金の苦労は、余りしなかったと思います。母は、自分で稼いで私を育てると決めていたようですから、普通の母子家庭やってましたけど、でも、母にも私にも悲壮感はありませんでした」

「だから、あなたが、おじいちゃんやお母さんの役に立ちたいと思うような子供になったんだと思う。あなたが、二人の背中を押しているように、二人もあなたの背中を押している。そう思わない」

「確かに、言われてみれば、そうですね。私、おじいちゃんとお母さんに愛されていると思っていますし、一度も、疑ったことありません。それって、二人が私の背中を押してくれているってことですよね」

「私も、そうだった。お金はなかったけど、母と兄と私の三人がお互いに背中を押していた。そして、今は、父が、私達3人の背中を押してくれている。私は、3人の背中を押したいと今でも思ってる」

「私も、お母さんの背中、押したい。大丈夫だよって言いたい。私のお父さん、ろくでなしだったらしいから、私が支えないと」

「私からも、お願いするわ」

「はい」

「あまり遅くなると、お母さん心配するね」

「言ってあります。お母さん、花さんに、絶対の信頼感を持ってます。おじいちゃんを、おじいちゃんの気持ちを、一日で変えた人ですから、花さんは」

「たままた、でしょうけど、そう言ってくれると嬉しい」

「でも、そろそろ、失礼します」

「そうね、送っていく。信頼を裏切らないようにしないとね」

「ありがとうございます。今日は、ほんとに楽しかったです。それと、美味しいもの食べれて、とても、幸せです」


高校検定試験は無事合格した。

次は、大学入試の試験だが、その前に、大学を決めなくてはならない。でも、楽しみでしかない。漠然と、自然科学の勉強ができる大学がいいと思っている。

だが、大学の資料を取り寄せている頃、突然、異変が起きた。

「えっ、嘘でしょ」

また、音が降ってきたのだ。

慌てて、五線紙を取り出した。

「いや、いや、待て。ここで、受け取れば、また、地獄の日々だぞ」

でも、手は、勝手に五線紙に音を書き留めている。

その日を境に、ほぼ毎日、音が降ってくる。

「なんで、どうして、ちょっと待って」

歌手を辞めてからも、生活から音楽がなくなったわけではない。いや、音楽に触れない日は一日もなかったかもしれない。

取り敢えず、音楽に接することをやめてみよう。

1カ月様子を見たが、音は、容赦なく降ってくる。書き留めた五線紙が増えるばかりだ。新しい五線紙も購入した。

ついに、父に相談した。

「どうしたら、いい」

「さあな」

「そんなこと、言わないで」

「だって、答えようがない」

「じゃあ、お父さんなら、どうする」

「んんんん、困ったな」

「でしょう。私、ほんとに、困ってるの」

「わかるけど、今度ばかりは、何も言えない」

「そう」

「ごめんな」

「ううん。私が決めるしかないんだって、わかってるけど、逃げたい、怖い。何が怖くて、何から逃げたいのかもわからないけど、逃げたいの」

「ただ、私は、全力で花を守る。私には、それしかできない。済まない」

「ありがとう」

わかっている。もう、子供じゃないのだから、自分の人生は自分で切り開くしかない。

それでも、決められなかった。

受験勉強なんてできない。

鬱々としたまま半年が過ぎた、五線紙は溜まるばかりだ。

花は、ロンドンに来た。

相談相手はキャサリンしかいないと思った。大きな借りを作ることになるかもしれないが、教会とのスキャンダルを片付けないと、前には進めない。いや、前に進むためには、逃げるのをやめるしかない。キャサリンに力があるかどうかはわからない。駄目だった場合は、音を無視し、今度こそ、音楽とは縁を切る。キャサリンを危険に晒すことになるかもしれないが、キャサリンなら、引き受けてくれそうな気もする。卑怯な振る舞いかもしれないが、大人になるしかない。

ロンドン事務所には、雪乃がいただけで、他のスタッフは出払っていた。

「花さん」

「久しぶりです。元気ですか」

「はい。どうしたんです」

「ちょっと頼みたいことがあって」

「もちろん、何でもやりますが、ヤバイことみたいですね」

「そうかもしれません」

「何があったか、教えてくれますか」

「ん。また、音が降ってきた」

「そうですか。それは、ちょっと、ヤバイですね」

「でしょう」

「で、どうするんです」

「キャサリンに相談してみようかと思って」

「いいんですか」

「他に、頼る人、いないし」

「キャサリンさんで、大丈夫でしょうか」

「わからない」

「でも、花さんは、決めたんですよね」

「うん」

「わかりまました。ここに来てもらいましょう」

「お願いします」

「音の神様、厄介な神様ですね」

「そう思うでしょう」

「はい」

キャサリンは、直ぐに駆け付けてくれた。

「どうしたの。大学生じゃないの」

「そのことで、相談に乗ってもらいたくて、来ました」

「イギリスに留学する、とか」

「そうではありませんが、イギリスの大学でも良かったんですね」

「じゃあ、なに。私に出来ることなら、何でもやるわよ」

「ありがとうございます」

「で」

「また、音が降って来たんです」

「あら、朗報じゃない」

「そうじゃないんです。音は、五線紙に書き止めていますが、それを捨てるかどうかで迷っています」

「どうして」

「復帰するためには、アメリカ公演の話を決めなきゃなりませんから」

「なるほど。何か事情があるのはわかっていたけど、私が、その問題を解決したら、復帰してもいいってことね」

「簡単に言えば、そうなります」

「わかった。やらせて」

「危険かもしれませんので、話を聞いて断ってくれてもいいです。ただし、他言無用でお願いします。これだけは、絶対に守ってください」

「わかった」

「私、昔、教会とトラブルを起こしました」

「相手は、教会」

「はい」

「それは厄介ね。でも、話して。断るかもしれないけど」

「はい」

「雪乃には、聞かれてもいいの」

「一緒にいましたから」

「そう」

アメリカでの出来事を話した。その後、その司教が交通事故で死んだことも。

「でも、教会にとってはスキャンダルですよね」

「確かに」

「私は公表するつもりはありません。ただ、こうやって、キャサリンさんに話をしたわけですから、向こうが信じるかどうかは疑問ですが」

「ちょっと、ヤバイわね」

「ごめんなさい。他に相談する人、いなくて」

「それにしても、音の神様って厄介ね」

「・・・」

「あら、私、変な事言った」

「いえ、私も、そう思ったし、雪乃さんも、さっき、同じことを言ったんで、つい、笑ってしまいました。でも、この会話、神様に聞かれてたら、それこそ、ヤバイです」

「あら、ほんとだ。ごめんなさい。神様、聞かなかったことにしてくだい」

「・・・」

「ただ、相手がね」

「ですよね」

「誰かに、頼めるようなことでもないし、バチカンに友達もいないし」

「無理はしないでくださいね」

「でも、問題にはなっていないのかもしれない」

「そこが、わからないんです」

「ごめん。すぐには決められない。考えさせて」

「もちろんです。断ってくれてもいいですから」

「でも、驚いた。花がロンドンに来た時、まだ、14歳か15歳よね。それ以前にステージで歌っていたなんて思いもしなかった」

「そこですか」

「私が断ったら」

「問題ありません。神様を無視すればいいだけです」

「あなたは、それでいいの」

「はい」

「わかった。で、大学は、どうするの」

「今は、立ち止まったままです。お世話になった神様ですから、簡単ではありません」

「そうよね」

「ごめんなさい。巻き込んでしまって」

「とんでもない。私は嬉しい。花は、私のこと、信頼しているってことでしょう」

「はい」

「でも、あなたは、そっと帰ってくれる。私とは会っていないということで」

「はい」

「ほんとは、一杯、話したいことあるけど、今日はやめとく。次に、あれもこれも、話聞いてもらうから」

「もちろんです」

「雪乃も、口にチャックね」

「はい」

「わからないことがあれば、雪乃さんに聞いてください。私より詳しいですから」

「そう」

花は、その日の便で日本に向かった。

キャサリンからの連絡はなく、雪乃とは電話で話しているが、何も言わない。

ほぼ1カ月が過ぎた頃に、キャサリンが花の家を訪ねてきた。

「キャサリンさん」

「電話では話せないから、来た」

「すみません」

「結論から言うけど、何もわからなかったし、手を引くしかないと思う」

「そうですか」

「あなた、苦しかったでしょう」

「それなりに」

「私、随分無茶を言ったと後悔してる」

「いえ、キャサリンさんは、何も悪くありません」

「これで、ほんとに、あなたを失うことになるのね」

「ごめんなさい」

「私、まだ、少しは、期待してたのよね」

「ほんとに、ごめんなさい」

「で、ここからは、ビジネスの話ではなく、あなたの友人として聞くけど、新しい曲、ほんとに捨ててしまっていいの」

「仕方ないです」

「そう。でも、不思議よね。キリスト教の地元と言えばヨーロッパでしょ。そこで、あれだけ活躍していた花の存在を知らないはずはないのに、何もなかったんでしょう」

「はい」

「つい、もう、大丈夫なんじゃないか、なんて考えてしまう」

「はい。でも、何かあった時は遅いですから、この話は墓場まで持って行ってください」

「ん、そうする。アメリカは行かないほうがいいと私も思う」

「そうします」

「ところで、新しく降ってきた音、聴かせてくれる。あっ、違う、プライベートな興味だけ。仕事では、さすがに、諦めてる」

「いいですよ。二人で、お見送りしましょう」

「アーメン」

音楽室で新しい音を、3フレーズ、弾いてみせた。

「いい曲ね。でも、これまでの曲と、少し、違うみたい」

「そう思います」

「うん」

「私も、不思議だと思っています」

「音の神様って、一人だけじゃないのかもしれないわね」

「なるほど、それなら、わかります」

「でも、これ、全部、捨てちゃうの」

「仕方ありません」

「作曲家に専念してしまえば、捨てなくてもいいんじゃない」

「でも、音楽活動をし始めたら、お偉いさんは、歌わせろ、と言いますよね。アメリカ公演を実現させろ、と言いますよね」

「言うね」

「説得できませんよね」

「できないね」

「お弔いするしかないと思います」

「こんなこと、私が言っちゃいけないんだけど、日本で作曲家としての音楽活動をする分には。いけるんじゃない。あの人達、日本にまでは来ないと思う」

「でも、それじゃ、キャサリンさんが地獄ですよ」

「私は慣れてるし、平気よ。それに、あなたの力になれなかったお詫びだと思えば、お釣りがくるくらいだわ。私、音楽好きだし、この世に降ってきた音を捨てるのは、どうしても納得できないのよね」

「キャサリンさん」

「どう、もう少し、考えてみない」

「はあ」

「すっきりしたい、と思ってる」

「そうかもしれません」

「ほんとに、すっきり、するのかな。あなただって、誰よりも音楽が好きでしょう」

「はあ」

「もう少し、様子、見てみようよ。どうしても捨てるのであれば、その時は、私も一緒にお弔いするから」

「そうですね」

その後、サラやヘレンの話になった。

「ヘレンさん、残念でしたね」

ヘレンは、親の圧力で歌手活動を断念した。ただ、作詞家としての活動は認められたそうだから、ヘレンは、「よかった」と言っているそうだ。花以外の作詞依頼もあって、忙しくしているのは嬉しいことだった。

「お金持ちの人の気持ちは、私達にはわからないということだと思った。あの人達は、きっと、異星人なんだと思う。でも、思っていた以上にヘレンが落ち込んでいなくてよかった。多分、私達にはヘレンの本音は分からないんだと思うけど」

「はい」

「今度、ロンドンに来たら、ヘレンにも会ってあげてね」

「もちろんです」

別れ際に、キャサリンは花を抱きしめて、耳元で「あなた、頑張ったね」と言ってくれた。

翌日、ロンドンの雪乃にキャサリンの結論を伝えた。

「新しい五線紙を捨てるのは、待てと言われた」

「私も、そうして欲しいです」

「そうね。もう少し、考えてみる」

ただ、何も解決したわけではない。自分で、結論を出せるまで待つしかないようだ。音は拾うけど、作曲作業はしていない。もう一度、あらためて、大学のことを考えてみようと思い始めていた。

毎日、ネットで大学の情報を集めた。イギリスの大学も選択肢に入れた。

雪乃から電話があった。

「増田さんから、依頼がありました」

「歌手が見つかったの」

「そのようですが、1曲出しただけの新人です。その曲も5年前に出した曲で、その後は、香港のクラブで歌っている人です」

「その曲のCDは送ってきたの」

「はい。不合格です」

「じゃあ、仕方ないですね」

「でも、今の彼女を評価してもらいたいから、ロンドンに来ると言っています。どうします」

「別人にはなれませんから、無駄だと思いますけど」

「私も、そう言いました。でも、何とかしてくれとしぶといんです。花さんとの接点もあるので、突き放せません」

「ごめんなさい。私から、断ります」

「お願いして、いいですか」

「もちろんです」

増田なら、簡単に引き下がることはないだろう。花は、増田に電話した。

「村山詩織さんのこと、聞きました」

「お願い、聴くだけ聴いてみて。5年前の彼女とは別人だし、声質に関しては、絶対に気に入ってもらえると思うの。お願い」

「わかりました。私が聴きます。三松先生を紹介してもらった借りがありますから、聴きますが、駄目な時は駄目と言いますけど、いいですか」

「もちろん」

「香港で歌っていると聞きましたが」

「今は、日本にいる」

「そうですか。増田さんのところに、まだfarの楽譜ありますか」

「ある」

「1週間後でいいですか」

「わかった。ありがとう。ほんとに、ありがとう」

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