ずっと一緒
暗い。
前も、自分の手さえも見えない。
完全な暗闇。
まるで水の中にいるような浮遊感と、時々聞こえるのはゴボゴボという泡の音。
千歳は無明の闇の中を漂っていた。
意識が戻ってすぐに感じたのは、手の違和感だった。
セツを掴んでいた手の感触が無い。
声を出そうとしたが、出たのは気泡だけだった。ごぼっと空気が漏れ出て慌てて口を閉じる。手探りでセツを探す。でも、どこにもセツの感触がない。
(セツ! どこなの!?)
水の中で手を伸ばす。だが、掴むのは空気なのか水なのかもわからない。
だんだんと息が苦しくなり、肺が痛くなる。目を閉じて片手で口元をおさえる。だが、そんな我慢も長く出来るはずがない。耐えられず、このまま溺れてしまうのかと死への恐怖が湧き上がり、体が震えた。
その時だった。なにか温かなものが千歳の背中に触れた。
直感でなにか理解した。
「千歳……」
セツの声だ。
千歳は四肢をバタつかせ、後ろを向く。そこにはセツがいた。改めてセツを見る。淡く光を放つ体、濃紺の狩衣、結袈裟、黒い翼。
その姿を見て千歳は思い出した。それは去年の記憶、一昨年の記憶。親に連れられて来た御霊神社の木の下で遊んだ神社のお友達。それこそがセツだったのだ。毎年神社で遊んでいたのに名前すら知らなかったお友達。存在が希薄なお友達。その理由は本来人に見えるはずのない、人ならざるものだったからだった。
「どうして忘れてたのかな。セツ、毎年一緒に神社で遊んでくれてたよね。名前は教えてくれなかったけど」
いつの間にか千歳は話せていた。水の中にいるような苦しさが無くなっていた。セツは優しく微笑みかける。
「君が初めて僕の神社に連れてこられた時から、見守ってたよ」
お互いに向かい合って、手と手を合わせる。セツの手のぬくもりに安堵する。
「僕が氏神になって、色んな子を見守ってきたけど、僕を見ることができたのは千歳、君だけだった。嬉しかった」
「わたし、神様のお友達だったんだね」
「ふふっ、そうだね。さあ、もう行こう。お母さんとお父さんが待ってるよ」
千歳はセツの言葉でぱぁっと笑顔になると、千歳の背後から強い光が伸びた。
強く青白い光差す方へ向く千歳。隣にセツが立つとお互いに手を手繰り寄せ、力強く握りあった。二人の体はゆっくりと光の方へ吸い込まれていく。不思議と怖さは感じなかった。冬の朝のような澄んだ冷たい空気を浴びたような感覚。冷たく清々しい光の中へと吸い込まれながら、千歳はセツの顔を見た。
「また一緒に遊ぼうね!」
千歳の言葉にセツは静かに微笑んだ。返事を聞く間もなく、光に包まれた千歳はまた意識を手放した。溢れる閃光の中へ、二人の体が溶けていった。
意識を失う瞬間、千歳の頭の中にセツの言葉が聞こえた。
また、会おうね――。
*****
七海は祈っていた。
一樹も祈っていた。
宗久と、周りを固める禰宜たちも祈りを捧げていた。
鈴の音と祝詞をあげる声が満ちる儀式の間で、隅に正座で控えている禰宜があるものを見つけ、反射的に立ち上がった。
「千歳ちゃん……! いつの間に!」
禰宜の視線の先に千歳が横たわっていた。
宗久たちが儀式に集中していて、千歳の存在に気づいても動くわけにはいかない。控えの禰宜は静かに駆け出し、地面に横たわる千歳を抱き上げた。
息はある、だが眠っているようだ。
儀式は続く。
正導の儀は神隠しに遭った人をこちらの世界に引き戻すだけではない。こちらの世界に干渉してこようとするカドワシさまを領域の中に閉じ込めるまで、儀式は続く。
宗久は突き出した腕から血をぽたり、ぽたりとしたたらせながら祝詞を読み上げていく。血は器に注がれ、カドワシさまを
千歳を抱き上げた禰宜は七海たちの元へ向かう。地下道を出て、蔵を出て、森を抜け、七海たちの待つ社務所の一室へと駆け込んだ。
どういうわけか、禰宜はその間一切息が切れることはなく、まるで羽が生えたように体が軽かった。
部屋の戸を開けて中へ入ると、すぐさま七海と一樹は千歳の姿を見て立ち上がった。
「千歳!」
驚きと歓喜がないまぜになった悲鳴のような声をあげた。
真っ先に千歳へ駆け寄り、禰宜が抱きかかえている千歳を受け取り、抱きしめた。
「ああっ! 千歳! しっかり!」
意識の無い千歳を揺り起こそうとする七海。だが千歳は応えてくれない。
一樹はそれを見るなりスマートフォンを取り出した。
「救急車を呼ぶぞ!」
しかし、スマホの電波は山奥の神社にまで届いていないようで繋がらない。
それを見た禰宜が電話なら事務室にあるので救急を呼んできますと部屋の外へ飛び出していった。
一樹は七海の側に寄り添い、千歳は両親の手の中でまだ目覚めない。
救急車が来るまでの間千歳を寝かせるために一樹は部屋の隅に積まれていた座布団を引っ張り出し、畳に広げた。七海から千歳を受け取ると静かに座布団の上に寝かせる。七海が側に座ると千歳の冷たい手をギュッと握った。
「千歳、もう放さないわ……ずっと一緒よ」
涙ながらに千歳に声を掛ける七海。
救急隊を待っていられず、麓まで降りようとする一樹。
儀式を続ける宗久と禰宜たち。
皆が皆、一人の少女の為に祈った。
カドワシさまなんかに千歳は渡さない。
千歳の日常を返せと、お前なんかにくれてやる命はないぞと。
そして千歳の神隠しから数時間が経った。早朝神隠しに遭った為、まだ外は昼時であった。
七海は永遠に感じる程不安で胸がいっぱいになっている中で、ようやく救急隊が担架を持って駆けつけてくると、手際よく千歳を担架に乗せて運び出す。
担架のすぐ横につき、千歳を見守る七海。ふと、千歳の着物の裾に乾いた泥のような汚れがついていた。
きっと山奥で走り回って汚したのだろう。そう思い七海は咄嗟についた汚れを手ではたき落とした。乾いていた汚れは簡単に着物から剥がれ落ちると、ほろほろと塵となって消えていった。
その時、ピクリと千歳の指が動いた。
「千歳!」
「お母さ……ん」
「患者意識戻りました!」
慌ただしくなる救急隊員。目蓋を薄っすら開けた千歳。
11月の少しくすんだ青空の下、陽の光に千歳は目を細めた。
「お母さん、お父さん……」
「千歳、ここにいるわ!」
「お父さんもいるぞ。もう大丈夫だからな!」
両親の声を聞き、千歳は弱々しくも微笑んだ。
やっと帰ってこれたという実感を得て、千歳の頬に温かいものが伝った。
カドワシさまの魔の手から、千歳は救われたのだった。
千歳の着物の帯にいつの間にか差されていた、黒い1枚の羽根が立冬の風に揺れていた。
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