キトリとバジル
夜の遊園地はとても綺麗だけれど、バジルの瞳には敵わないと思う。
「どうして、いつも私に構ってくれるの?」
初めて言葉を交わした八年前と比べて、とてつもなく良い男になったバジルに対して、私はそう言った。
「⋯⋯どうしてって。理由をいちいち考えたりはしないよ。ただ、キトリと一緒にいるのが楽しいっていう、それだけ」
バジル、キトリと呼び合うのは、バレエの名作『ドン・キホーテ』からつけたあだ名だった。
私たちは恥ずかしげもなく、互いをそう呼び合っている。
「じゃあ、あのライトアップされたクリスマスツリーの下で踊ろうって言ったら、一緒に踊ってくれる? 理由なんていちいち考えずに」
私は、「こちらです」とバジルを導くようにして右手を内側から外に向け、ツリーの方に近づいて行った。
「さすがにそれは。いくらキトリのお願いでも」
バジルは臆病な顔をしながらついて来た。
ツリーの下には素敵な写真を撮ろうと、恋人や家族、友達同士などたくさんの人が集まっていた。
こんなところで踊れば迷惑だと分かっている。
でも、どうしても私は⋯⋯
「バジル。一緒に踊ってよ」
私の中でドラマは出来上がっていた。
あとは、私が演じるだけ。
「いや、でも」
臆病なバジルは、勇敢な私のそばにいたら、一生臆病なままだ。
「バジル。そばにいることだけが、友情じゃないからね」
私はそう言うと前に進み、ライトアップされたツリーの下でポーズをとった。
あとは、バジル。
あなたが一歩踏み出してくれたらいい。
勇気を持って一歩を⋯⋯
私とバジルの出会いの認識はそれぞれ違った。
私の誤った認識としては八年前、小学二年生の頃。
学校帰りにちょっと訳があって、寄り道をして時間を潰していた時、上級生に絡まれて困り果てるバジルを見かけたことだった。
勇敢な私はバジルを救い、臆病なバジルはそんな私をあまりにも綺麗な瞳で見上げた。
八年前のバジルは、とても可愛かった。
そして、そんな可愛い男の子はなぜか私のことを知っていた。
バジルは、まだキトリというあだ名のなかった私を本当の名前で呼び、こう言ったのだ。
「僕は君にずっと憧れていたんだよ。ねえ、どうしてそんなに姿勢が良いの?」
「私のこと、どうして知ってるの?」
「えっ、僕のことを知らない? そっか、こんな地味な奴のことなんか知らないよね」
バジルは心から悲しそうにした。
「もしかして、私たち同じ学校?」
恐る恐るそう訊くと
「うん。しかも、隣のクラス」
と答えて、バジルはさっきよりも悲しそうな顔をした。
「ごめん」
本当に申し訳なくなった時あの感情を、今でも思い出すことがある。
意図的にではなく、ふと思い出すのだ。
私に存在を知られていなかったことに落ち込んでしまったバジルはそれでも、私のある特徴について話し始めてくれた。
「君は本当に姿勢が正しいね。立ってる姿も凄く綺麗だなって思ってた。他の女の子とは明らかに違う。猫背の僕の憧れなんだ」
お父さんに褒められたことはあったけれど、それ以外の異性に褒められるなんて初めてで、私はとても恥ずかしかった。
恥ずかしかったけれど、嬉しかった。
自分が誰かの憧れだなんて、まるでドラマの世界だと思った。
私は得意になってつい、本当にあっさりと、私の秘密をバラすことにしたのだ。
「どうして姿勢が良いか教えてあげようか?」
バジルは瞳をキラキラとさせて、大きく頷いた。
「ちょっとついて来て」
そう言って私はバジルを連れて、図書館に向かった。
図書館に着くと、バジルは不思議そうに私を見つめていた。
「ここに、君の姿勢が良い理由があるの?」
「うん。あるよ」
私はいつものように目的のある階に行き、目的を棚から取った。パソコンの前にバジルを座らせ、目的をセッティングし、私も隣に座る。
「はい、ヘッドフォンつけて」
バジルにヘッドフォンを渡す。
「君は?」
私は首を横に振り、
「私はもう聴かなくても、頭の中で勝手に流れるから」
と自慢げに言った。
バジルはまだ不思議そうな顔のまま、ヘッドフォンをつけた。
私は、目的を再生させる。
再生させたのは、バレエの名作『ドン・キホーテ』のDVDだった。
バジルは、最初に一度私を見たものの、その後は一度もパソコンの画面から目を逸らすことはなかった。
終わってから、そこでようやく私を見た。
ヘッドフォンを外す発想がなかったのか、それともそれだけが理由ではないのか、図書館にしてはちょっと大きな声でこう言ったのだ。
「僕も踊ってみたい」
その時の表情は、純粋そのものだった。
私はバジルのヘッドフォンを外してあげ、
「じゃあ、一緒に踊ろう」
とバジルの耳元で告げた。
それに対しての笑顔なんか、本当に眩しいほどだった。
図書館を出た私たちは近くの公園に行った。
最初はまず、私がバジルのために踊ってみせる。
私なりのドン・キホーテ。
見どころを良いとこどりみたいにして踊った。
バジルのためだけのステージ。
踊り終えた私に、バジルは拍手を送ってくれた。
長すぎる拍手だったけれど、私は本当に幸せだった。
バジルも幸せそうだったのが、私の幸せをもっと強める。
バジルは見様見真似で踊り出し、私を笑わせた。
自分で可笑しいのかバジルも物凄く笑っていた。
「そういえば、名前」
そんな踊りの途中で私は、彼に名前を訊いていなかったことに気づく。
そこで思いついたのが、バジルというあだ名だった。
「バジルって呼んでもいい? 私のことはキトリって呼んでよ」
「キトリとバジル?」
「そう。さっき観たドン・キホーテに出てくる二人の名前」
提案したあとで、キトリとバジルが恋人同士だということに気づいた。
撤回しようかなと迷っているうちに、
「なんか、いいね」
とバジルが気に入ってくれたので、撤回するのはやめる。
「でしょ?」
「じゃあ君をキトリって呼ぶよ。僕の憧れの人だから」
「姿勢が良いから?」
「そう。姿勢が良い君は僕の憧れ。それで、お願いがあるんだ。今みたいにふざけるのも良いけど、本当に僕にバレエを教えてくれない?」
「本当に、本気で?」
「うん」
私は少しだけ迷った。
ほんの少しだけ。
そして、答えた。
「分かった。バジルの猫背を直してあげる」
「ありがとう。キトリ」
こうして私たちは、キトリとバジルになり、バレエレッスンを始めることになったのだ。
実を言うとこの日私は、バレエのレッスンをサボっていて、しかも、そのまま辞めようかと悩んでいるところだったのだ。
母親に言われるまま習い始めたバレエを好きではあったけれど、それよりも友達と遊んでいたかった。
どういうわけか、バレエを習っているというのを恥ずかしがって隠していたのも、辞めたくなる理由の一つだったと思う。
私は嫌いで辞めるのではなく、好きだけれど辞めようとしていたのだ。
だから、バジルが私の姿勢を褒め、バレエを教えてほしいと言ってくれたのは、私がバレエを簡単に辞めずに済んだとても重要な出来事だった。
次の日、初めて学校でバジルの存在を認識した。
私としての最初は学校の外だったから、校内で会うのに違和感を感じた。
私たちは、話せそうなタイミングがあればバレエの話をしたし、バジルが知りたがった知識を教えてあげることもあった。
放課後、私がバレエのレッスンがある日には、レッスンの時間までをバジルのためのレッスンの時間とした。
バレエのない日も、もちろんバジルのレッスンの時間とし、公園で鉄棒を使いバーレッスンをしたり、二人で踊った。
どちらかの家に親がいない日があれば家に行って、レッスンをしたり、バレエのDVDを観たりした。
バジルは、伯母さんにおねだりして、『ドン・キホーテ』のDVDを買ってもらっていた。
「そんなに好き?」
「うん。何回観ても飽きないよ」
「アニメよりも面白い?」
「うん。アニメより何倍も面白い」
バジルはとにかくバレエに夢中だった。
猫背を直すとかそんなのよりも、違うことを考えているというのが私には分かっていた。
私の方は、あんなにも友達と遊びたがっていたくせに、遊びたかった友達よりもバジルと踊ったり話したりする時間が楽しくなっていた。
だから、バレエを習っていることを隠さなくなり、バレエという習い事のせいで忙しいという設定を作った。
それから1年経ってもずっとバジルは飽きずに踊り続けるから、私はバジルをバレエ教室の発表会に招待した。
バジルは、伯母さんと二人で観に来てくれた。
私は同じチュチュの衣装を着た二十人以上の中の一人で、振り付けもその子たちと同じだった。
せっかくバジルが観に来てくれたんだから、もっと目立つ役が良かった⋯⋯なんて思ったけれど、バジルにはそんなのは関係ないことのようだった。
とにかく私を褒め、まるで私が主役だったかのように賞賛してくれたのだ。
「キトリが一番良かったよ」
その言葉がとにかく嬉しかった。
そして私は、次の展開にも期待していた。
そこからさらに一年。
その日が、ついに来た。
私はいつその日がやって来るのかと、ずっと心待ちにしていた。
放課後、二人でバレエを踊り終えたあと。
バジルは涙目になりながら私に言った。
「キトリ⋯⋯僕、お父さんとお母さんに頑張って頼んだよ。ドキドキして、怖くて、泣きながらになっちゃったんだけど、ちゃんと言った。バレエがしたいって。今のままキトリから教えてもらうのも楽しいんだけど、それだけじゃなくて」
「うん」
「最初は反対されたけど、許可してくれた。伯母さんは最初から応援してくれたし、本当に良かった。お父さんとお母さんは、僕の度胸を試そうと思ったのかもしれない。臆病な僕がどれほど本気なのかを知りたいんだと思う。だから、キトリと同じ教室に通うことになった。いいかな?」
その時のバジルはもう、前のバジルとは違った。
猫背のバジルは、どこにもいなかった。
「私、嬉しい。いつか本当に、キトリとバジルとして舞台で踊りたいな」
「僕も。それが夢だよ」
こうして、私たちは同じバレエ教室に通うことになった。
性別なんて関係なく、本当に仲の良い親友だった。
私はバジルと、何回一緒に踊っただろう。
何回一緒に『ドン・キホーテ』を観ただろう。
その度私は、バジルの純粋でまっすぐでキラキラとした瞳を覗き見ていた。
本当にキレイな瞳だった。
そして、もうその頃には、私は自分の恋心に気づいていた。
初恋だった。
バジルは私の初恋相手になってしまったのだ。
もちろん、その気持ちを言わなかったし、誰にも分からないように隠し続けた。
中学は私立を受験しない限り皆んな同じところに通う流れだったから、バジルとも意図せず同じ中学に通うことが出来た。
私たちは、思春期の男女に距離が出来てしまう時期でさえも離れることはなかった。
バレエという共通項やキトリとバジルというあだ名のお陰なのか、それともその共通項がなくても相性が良かったのか。
私たちは周りから、付き合っているのではないかという疑いをかけられながらも、仲良くし続けた。
ただ、その頃。
私は気づいてしまう。
バジルの恋心についてだ。
バレエ教室にいる、私たちより一つ年上の麗花さんにバジルは恋していた。
バジルは隠しているつもりのようだったけれど、私には分かった。
バジルの綺麗な瞳を覗き見しすぎたせいで、気づいてしまったのだ。
私は正直、落ち込んだ。
だって、こういうパターンだと私のことを好きになる確率が高い気がしていたから。
バジルはそもそも姿勢の良い私に憧れていて、そんな私に偶然救われて、バレエという夢だって私が『ドン・キホーテ』を観せてあげたお陰で始まって⋯⋯
そこまで考えて、私のお陰とか思ってしまっている時点で、バジルみたいな人は私を好きにならないんだなと気づいたのだった。
私は“憧れ”というだけで、恋という枠には入れなかった。
バジルが私を“憧れ”という対象で見てくれていることは、その純粋さから伝わっていたけれど、いつかその対象さえも麗花さんに奪われるのではないかと怖かった。
そんな発想が思い浮かんだのは、私がネガティブになっていたからではなくて、だんだん目に見える形で現れるようになっていたからだ。
バジルは私なんかを憧れにしていてはいけないほど美しく、儚く、繊細に、時に大胆に、力強く舞った。
つまり、バジルにはバレエの才能があったのだ。
しかもその上、バジルは誰も敵わないほどの努力を続け、その表現力に磨きをかけた。
熱量も凄かったけれど、バレエが好きという純粋な気持ちも凄かった。
私は、バジルにDVDを観せ、バレエを教えた自分を誇らしく思おうとした。
そして本音は、寂しい気持ちでいっぱいだった。
自分に才能がないからではない。
バジルという大切な存在が、どんどん離れてしまうと予感したからだ。
でも、その予感とは裏腹にバジルはずっと私のそばにいた。
私が繋ぎ止めたとかそんなのではなく、離れていかなかった。
高校だって私が仕組んだりすることもなく、同じ高校を選んだのだ。
「どうしてわざわざ同じ高校に? まるで私たち、本当に付き合ってるみたい」
バジルの反応が気になって、いたずら心で訊いたつもりだった。
でも本当はバジルを試したい気持ちもあったんだと思う。
「キトリといると楽しいから」
バジルは当たり前のように答えた。
私は嬉しかったけれど、少しずつ違和感を感じ始めていく。
バジルの才能に、バジルのバレエへの熱量だとコンクールに出場したり、バレエ留学を考えてもいいはずだ。
バジルならスカラシップの授与だって夢ではない。
バレエの先生だって、留学を勧めたはずだ。
でもバジルは、中一の時に一度コンクールに出場してからは、出場しなくなった。
その時は入賞しなかったものの、そこからの伸びが本当に凄かったのに。
それからはただ、教室の発表会のために練習しているだけになってしまった。
最初は反対していたバジルの両親でさえ、才能が勿体ないと言った。
「またコンクールに出たらいいのに」
前に私がそう言った時には、
「競い合いになると楽しくなくなる」
と、どこまで本気なのか分からない答えが返ってきた。
それ以降、同じことを訊けなかったけれど、私には何だか引っ掛かるものがあった。
そして、その引っ掛かりの正体が明らかになったのは、高一の冬の始まり。
発表会での演目が『ドン・キホーテ』に決まった時だった。
そこで、バジル役に指名されたのがバジル。
キトリは私ではなく、麗花さんだった。
それは、教室に通う人なら誰もが当然に思う配役だ。
それに、バジルとしても喜ばしいことのはずなのだ。
恋する麗花さんと一緒に踊れるのだから。
二人でたくさん練習して、お喋りも出来るのだから⋯⋯
それなのに。
他の人がいる手前、その配役を喜んでいたバジルだったが、その日のうちにバジル役を断った。
私は先生に、バジルと仲の良い私なら何か知っていると思われその話を聞かされたのだが、何も知らなかったのでとにかく驚いた。
バジルは、
「学業に集中したいので、主役は出来ません」
と言って断ったそうなのだ。
確かにそれは、どう考えてもおかしい。
バジルほどバレエを好きな人が、バジル役を断るその理由を見つけ出せなかった。
見つけ出せない中、私はある仮定を始める。
それは、“バジルが本当に好きなのは私”という浅はかな仮定ではない。
“もしもこの世に恋や夢よりも強い、憧れという感情があるのなら”という仮定だ。
小学校低学年にして自分の猫背を気にし、私の姿勢の良さに気づいたバジル。
上級生に絡まれ困り果てていた臆病なバジル。
そんなバジルを救った勇敢な私。
初めて観るバレエに夢中になったバジル。
そんなバジルのためだけに踊った私。
そんな私に拍手を送ったバジル。
一緒に踊った私たち⋯⋯
もしもバジルが私に今でも憧れ続け、私とバレエについて語る日常を好み、私と一緒にキトリとバジルとして舞台に立つ日を夢見ているのなら。
それがバジルの中で一番強い感情なら。
バジルが私と離れたがらないのも、キトリ役が私ではない舞台に立ちたがらないのも納得出来る。
私への憧れと麗花さんへの恋心は全く違うものだと、バジルはバジルなりの真理に辿り着いたのかもしれない。
それがバジルが私に向ける、あのキラキラとした瞳なのだ。
私は、ようやく気づいた。
私を見るバジルの瞳が、バレエへの最初の衝動となった『ドン・キホーテ』を観る時とも、恋心を抱く麗花さんを見つめる時とも違うことに。
それらよりもっと輝いていて、特別な光を閉じ込めていることに。
バジル。
違うんだよ。
バジルは雛鳥と同じなだけ。
最初に見たものを親鳥だと勘違いするように、最初に憧れた私を特別だと勘違いしているだけなんだよ。
バジルがバレエを好きだという気持ちは、私が与えたものなんかじゃない。
バジルが生み出した感情なんだよ。
麗花さんがキトリを演じることだってそう。
麗華さんの方が私より何倍も何十倍も才能があって、麗花さんがキトリを演じる方が、バジルにとっても良いに決まってるのに⋯⋯
そうして私は、計画を立てたのだった。
バレエのレッスン終わりに、夜の遊園地にバジルを誘った私。
バジルと遊園地に来たことは何回もある。
でも、夜の遊園地は初めてだった。
そこはやっぱり、明るいうちの遊園地とは違う特別感があったから⋯⋯
バジルはどう思っていたのか知らないけれど、バジルに恋する私としては、わざわざ夜の遊園地に行く気にはなれなかった。
片想いの切なさが浮き彫りになるだけだし、バジルは麗花さんを好きなのだから、そういう素敵な景色は麗花さんと見るべきだと思った。
だけど、この作戦には夜の遊園地がうってつけだった。
そして私の欲も少しあった。
少しでも多くの“綺麗”がある場所で、良い思い出として残したかったからだ。
「バジル。一緒に踊ってよ」
ツリーの下で、ついに私はその台詞を言った。
その台詞を、私は何度も鏡の前で練習した。
バレエを練習するよりも、その台詞を練習した。
「いや、でも」
バジルが躊躇うことくらい、十分に予想出来ていた。
「バジル。そばにいることだけが友情じゃないからね」
この台詞は用意していなかった。
心の中では思ったことのあるものだったけれど、伝えようとはしていなかった。
でも、伝えなければならないとその場で判断したのだ。
私は、バジルのことが好きだから。
私は、バジルのバレエが好きだから。
ツリーの周りにはツリーを撮影するための人たちが多いのに加え、その近くには夜の観覧車に乗るための列も出来ていた。
観覧車に乗っている人たちがツリーを見下ろすことも出来る。
他には、豪華に輝くメリーゴーランドもあるし、クリスマスの食べ物やホットドリンクなどを売ってる屋台に、座って食べるスペースまである。
これで、オーディエンスは十分だ。
今後、迷惑を掛けないようにするから⋯⋯
この恥ずかしさを思い出して遊園地には今後、来れなくなるかもしれないけれど⋯⋯
困り果てたバジルに私は、用意していた次の台詞を言った。
「バジル。私の踊りを見てて」
「えっ」
バジルが何かを言う前に、私はツリーの下で踊り出す。
不思議そうに見ている人も、不審そうに見ている人もいた。
クリスマスツリーの下でバレエという、それなりに合っている世界観のせいか止めに来る人はいなかった。
髪もレッスン終わりそのままのお団子ヘアだったし、服は普通だったけれど本当の素人の踊りではないせいか、私を撮影している人までいた。
バジルは立ち尽くしている。
そして、私には分かった。
一緒に踊るべきだと思い始めているバジルの気持ちが。
私が踊っていたのは、『ドン・キホーテ』でキトリとバジルが一緒に踊る曲だったからだ。
それを私は一人で踊っている。
バジルの支えが必要な部分はアレンジをして、一人で踊っているのだ。
バジルの心はもう、決まっている。
あとは、最後の勇気を振り絞って一歩踏み出すだけ。
踏み出して、私と一緒に踊ろうとしている。
こんなところで、こんな私のために踊ろうとしている⋯⋯
ツリーを囲む人の数が明らかに減ってきていた。
私を変な人だと思い始めたのだろう。
ああ、もっとそんなことを思わせないくらいのバレエが踊れたらな⋯⋯
そういう落ち込みを少しは感じながらも、自分の才能よりも、努力の足りなさの方を悔やんだ。
その時、ついにバジルが一歩踏み出した。
私は踊るのをやめて伝える。
「来ないで!」
バジルは止まった。
「本当に一緒に踊る気なの? こんなところで? 私が踊ろうって言ったから? そんなのダメだよ。私と一緒にいるのが楽しいからって、私に構い続けたらダメ!」
バジルは人目を気にしながら、私に近づいてきた。
「そんな大きな声出したらダメだよ。せっかくのクリスマスなのに」
バジルは私の前まで来ると、いつもと変わらない瞳で見つめてきた。
本当に、好きだった。
バジルのその瞳も、そうやって私を見つめてくれるバジルのことも。
でも、ダメ⋯⋯
好きだから、ダメなんだ。
「ねえ、バジル。バジルの未来にはたくさんの大舞台がある。そこには大勢のバジルのファンがいて、バジルのバレエを楽しみにしているの。でも私にはこうやって、夜の遊園地とイルミネーション目当ての人たちを自分のためのオーディエンスと見立てて踊ることしか出来ないの。分かる? 私のバレエは、私が招待した人しか観に来ないレベルなの。教室の発表会が私の最大。でも、バジルは違う。バジルには才能も、必死に続けてきた努力もあるから」
私たちを横目で見ながら、何かをコソコソ話している人もいた。
恥をかいても、こうでもしないと⋯⋯バジルは決心を固めてくれないと思った。
こんな方法しか思いつかない私の気持ちを、分かってほしかった。
「バジル。まずは発表会でバジルを演じて。キトリが私じゃなくても、バジルを演じて。それから、将来のことをちゃんと考えて。コンクールとか、留学のことをちゃんと。バジルは競い合いが嫌なんじゃない。私のことを気にしてるんだよ。私たちは最高の親友だから、私と離れるのが嫌で私だけが落ちぶれるのが嫌なの。だから夢を見ないようにしてる。そんなの本当にダメ。お願い。ちゃんとバレエと向き合って。あと、恋愛も。好きな人のことをこっそり見つめてるだけじゃダメだよ。恋する相手の演じるキトリはきっと、最高だよ。親友が演じるキトリよりも。たとえ、バジルが私に憧れてくれていたとしても⋯⋯憧れよりも、好きな人と踊るべきだよ。私はもう、バレエを辞めるから」
私は驚いた。
バジルの美しい瞳から、美しい涙が流れたからだ。
「どうして泣くの?」
私も泣きたくなる。
私だってバジルとずっと一緒にいたいから。
バジルをずっと、自分のもののように思っていたかったから。
「本当に寂しいんだ。キトリとずっと今みたいにいられないのが、寂しいんだ。でも、キトリが僕を思って、言ってくれた言葉が嬉しくもあって」
「現実を受け止めて。もしも、私じゃなくてバジルがここで踊ったら。皆んながバジルの踊りに魅せられたはず。もしも私も一緒に踊ったなら、私はバジルの大きな力に助けられて、自分の才能を勘違いしてしまうの。私がバジルと踊るべき、キトリなのかもって」
私もついに泣いてしまった。
「キトリ⋯⋯」
私はポケットからハンカチを取り出すと、バジルの涙を拭った。
バジルはそのハンカチを私から奪うと、私の涙を拭った。
一枚のハンカチに二人の涙が混ざり合う。
ああ、なんて素敵な場面なんだろう。
バジルと離れてもずっと、大切な思い出として残り続けるだろう。
「⋯⋯バジル。バジルはバレエを続けて。大きな舞台で、世界へ飛び立って」
大丈夫。
私たちは離れても、大丈夫。
「キトリ。キトリが僕の憧れなのは変わらない。それだけは覚えていて」
「うん、ありがとう」
その瞳を見れば、それが真実だと私には分かる。
でもそれは今の真実であって、バジルはこれから新たな憧れに出会うべきなんだよ。
バジル⋯⋯
キトリとバジルとして舞台に立つことは出来なかったし、キトリとバジルのように結ばれることもなかったけれど、それでも幸せな八年だった。
私をキトリと呼んでくれてありがとう。
美しい瞳で見つめてくれて、本当にありがとう。
私は⋯⋯
バジルへの恋心を捨て、憧れだけを抱いて生きていくね。
私の憧れのバジル。
私たちは離れてこそ、強くなれるはず。
絆がもっと深まるはず。
だから、勇敢になったバジルに会えるのが、今からとても楽しみだよ。
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