2.一族

 東の果てから、新しい太陽がひしゃげた頭をりだしてくる。

 歪んだレンズが完璧な円を取り戻すにつれ、天地の境をたなびく雲はグラデーションを塗りかえてゆく——あかあかと燃え立つバラ色とロマンチックな群青から、烈しく眩い黄金へと。瞬きごとに変化する鮮烈な色彩は、夜ごと生死のドラマを繰り広げる狩る者たち、狩られる者たち双方の、命の輝きの模倣なのかもしれなかった。

 今朝、大気は瑞々しく冷えて、大地は全体が乳白色のもやに包まれていた。強さを増す陽光に水滴つぶは音もなく蒸発し、小高い丘がひとつふたつ、幻から実体を取り戻してくる。なかでも周辺より一足早く霧から浮上した大きな丘――そのなだらかな稜線を今、一列縦隊に駆けていく狼の群れがあった。

 先頭に戴く王は、いつかの晩に鹿を鮮やかに仕留めた彼である。昨夜の狩りも首尾は上々で、一歩足を蹴りだすごとに、群れの全員がぱんぱんに膨れた丸い腹を重そうに左右に揺らしていた。

 彼らの縄張りは広大な丘陵地帯。丘の底を縫い、ちょろちょろ流れる小川のいくたりかと、水場に沿ったこぎれいな木立。濃い色の岩場が孤島のように点在し、大地の起伏のところどころに厳ついアクセントを造っている。他は銀のさざ波をえんえん地平に送りつづける草穂の海で、こうした平野は鹿には楽園に違いなかった――もちろん、一帯を支配する狼たちの存在を除けば。

 大草原を一望する、やや傾斜のきつい斜面に彼らの巣穴はあった。

 敵に巣が見つかるのを防ぐため、群れはいつも遠回りして用心深く家路を辿る。けれど帰還してしまえば、狼たちは気の向くまま斜面にばらけ、お気に入りの憩いの場所を思い思いに見いだした。ただ一頭、王にだけは常変わらぬ居場所があり、今日も彼は丘頂の大岩へと重い腹を引き上げていった。

 その大岩はまるで異界からの小隕石か、地下から破裂した鋼の花のように見えた。三枚ほどの厚い岩板が捻れて組み合い、のたうちながらそそり立っている。一番下の岩板だけは地面とほぼ平行に伸びており、姿の移りこむほどつるつるした上面は陽光を集めて暖かい。そこに彼は寝そべると、軽く前脚を組んでくつろいだ。ところどころ高熱で溶けたような不思議な歪みはあるにしろ、比類なき怪岩は、偉大な王の座にふさわしい。のどかに口を開けて、彼は一族の団欒を見守った。

 彼は群れの以前の王から、この岩を勝ちとった。実は先々代も、その前の代にも玉座として使われたものだが、寿命の短い狼には長い歴史など知る由もない。ただ岩から眺めおろす一族の風景は、代々の王にもそうさせたように、ある種の永遠性と充足感を彼に与えてくれた。

 ウルル、ウルル――母親たちが優しく呼ぶ。すると仔らが穴から転げでてくる。彼らは、真っ黒な毛玉にせわしなく動くちびた手足と尻尾をくっつけた感じだ。互いに折り重なり、団子になって遊び回り、大人が胃から未消化の肉を吐き戻すと我勝ちにむしゃぶりついてゆく。

 飢えた可愛いモンスターたち。まだ無邪気な毛玉のようでも、彼らも狩人たる己をよく知っている。なぜといって親兄姉おやきょうだいの口から点々と零れた唾液にさえ、そこに獲物の血がにおうなら一滴逃さず舐めつくすのだ。

 銀色、銀色――この世の快楽を知る王は、眠たげに鼻をひくつかせた。

 それは胃袋に訴え、満腹を約束し、肉体の昂ぶりを産む命の象徴しるしだ。見よ、赤子でさえ逆らうすべはないのだと知っている。内なる声が囁くからだ――たいらげろ、飲みつくせ、そこに至上の快楽がある……。

 領土は獲物に溢れ、仲間は安らぎ、仔らは健康そのものだ。狩り、食い、産み育て、また狩りにゆくという彼らの生の営みは、単純明快な繰り返しに尽きる。だが縄張りも食料も、また仲間たちの信頼も、王の命を賭した不断の努力により維持されるものである。

 眼前の平穏は彼がよくやっているという証左であり、王座についてからというもの、日中、彼はいつもこうして家族を眺め、満ち足りた気分に浸るのだった。

 とはいえ、厳しい世界をたくましく生き抜く王にも逃れられぬ変化はある。

 近ごろ彼は被毛が重く、忍び寄る老いを感じていた。関節も以前の柔軟さを失い、五感は鈍くなったような気がする――そこに付随した問題がひとつ。王の衰えを察知した若いはぐれ雄の訪問だ。

 暖かいそよ風が耳先の和毛にこげを揺らし、とろとろと睡魔が降りかけたころ、王の鼻は厄介ごとの気配を嗅ぎつけた。

 いつのまにか向こうの稜線上に、ぽつんとした影が現れている。それは躊躇いがちに、しかし離れがたい風情で立ったり座ったりと落ち着かない。最初に気づいたのは年頃の娘だ。恋人を欲する彼女はぴちぴち尾を振りながら、羽根のはえた足取りで雄のもとへと駆け寄っていった。

 また来たか――娘の行く先を視線で追い、彼は余所者を見定めた。

 彼があの雄を見る目はからい。以前、追い払うべく近寄ったとき、湖畔の群れのにおいがしていた。草原よりも南部にあるあの領域は長雨で草が枯れ、鹿が減って狼の姿も少なくなっている。かの雄はおそらく離散した湖畔の群れの一頭だろうが、いずれにせよ単独で野生を生き抜くのは至難と見え、その身体は痩せすぎていた。

 放浪者の毛皮の色も、彼は気に入らなかった。あの雄の毛は黒がちだ。光の加減で輝きもするが、雲を透かした星明かりのほうがまだしもと言えるだろう。歳経た彼からすれば、赤ん坊とほとんど変わらない。しかし彼の群れでもこのごろは、黒や茶のみすぼらしい毛色が多くなっているのだが……。

 彼が幼いとき、周囲の大人はみな清純な白銀色をしていたものだ。特に先代王の長毛は、晴天の日の湖面のごとき烈しい金剛のきらめきを誇り、瞳までもが青みを帯びた神々しい銀だった。その姿は地上に燃えたつ彗星であり、生きた氷霜の魔物であり――年老いたのち、玉座を賭けた決闘で彼に敗れた夜でさえ、血に彩られた堂々たる出で立ちは、新王に侵しがたい畏怖の念を抱かせたものである。

 彼はのっそり腰をあげ、黒い放浪雄を追い払いに向かった。牙を見せるまでもなく、あと数歩の距離で若雄はこうべを垂れ、尾を股に巻きこんで丘の裏側へと姿を消した。

 うらめしげな娘を唸ってさがらせると、彼は再び地平を見やる。実のところ、輝きを弱めるのは大地も同じだ。かつては見晴るかす華々しい白銀にさんざめいていた草原が、西の森との境から徐々にくすんだ色の斑点模様に侵されつつある。まるで死の領域である黒い森から、その不吉な暗色が染み出しているかのように……。

 大地は力を、輝かしい命の力を薄れさせつつあるのだろうか?

 といって、その変化は眠る狼の呼吸よりも穏やかなもの。王の領土すべてが眩い輝きを失うまでは、彼の寿命どころか子々孫々の命の果てを待つ必要があるだろう。

 さしあたっての問題は、いずれ彼に挑戦してくるかも知れぬ黒い放浪雄。そして定期的に草原への侵入を試みる、北の峡谷の群れだった。

 思案しながら岩に戻ると、満腹した子供らが彼の歩みを邪魔するように戯れかかってきた。ころころと肥った仔らを長い鼻先でいなしつつ、王は大岩の上へ跳び登る。たとえ峡谷の群れが縄張りを奪いに来たとして、それまでには仔らが立派に戦えるまでに育っているだろう。揺るぎない自信が彼にはあった。幾世代ものサイクルを、同様に無事乗り越えてきたのだから。

 ——しかし、真の打撃とは思いもよらぬ折、思いもよらぬ場所からもたらされるものである。

 ほっと息を吐いたとき、湿ったにおいを嗅ぎつけて、岩上の王は天を仰いだ。

 雲ひとつない晴空から、透明な滴がぽつりとしたたり落ちる。王の鼻を打った一滴を皮切りに、にわかに草原へ大雨が降り出した。

 銀の草穂と陽光の乱反射で、雨は世界を七彩に燦めかせた。この世のものとは思えぬ光景に、狼たちはしばし呆然と辺りを見やる。次の瞬間、大人たちは慌てて鋭い警告を叫びだしていた。

 雲のない雨は危険な雨だ。まだ経験がなく、何も知らぬ若者たちがはしゃいで跳びはねるのを叱りつけ、親たちはよちよち歩きの仔らを咥えて急いで巣穴へ運び込む。冷たい雨滴は体温を奪う。だが彼らを恐懼きょうくせしめたのは、それゆえではなかった。

 耳を伏せ腰を屈めて、狼たちは暗い巣穴へ潜り込んだ。地表のすべてを輝かせる天気雨は、見た目の荘厳さとは裏腹に世界を静けさで包み込んだ。巣穴の奥の狼たちは眉間に皺寄せて雨から逃れたことを安堵したが、振りそぼる雨滴は草を伝い、大地へまんべんなく染みこんだ。ついには微少な蒸気と化して、狼の体内へ取り込まれるまで。

 ほどなくして王の群れは、致命的な病の猛威にさらされた。

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