マリアにはなれなくて
深雪 郁
第1話
紅茶のシフォンケーキ、ザッハトルテ、フルーツタルト、モンブラン・・・学校が終わってバイト先のケーキ屋に出勤した
高校三年生の颯は代々続く豆腐屋の一人息子で、卒業したら家業を継ぐことになっていたが、少しでも社会経験をした方がいいとの両親の考えで一年生の頃からこのチェーン店のケーキ屋でアルバイトをしていた。
「津田君、六時から佐原さん来るから、仕事教えてあげてくれるかな。僕今日はもう上がりなんだよね」
店長が店先に顔を出し、颯に言った。
「あ、そういえばそうでした。了解です!」
忘れてしまっていたが、今日は佐原
相性が良い子だといいけど。そんなことをぼんやり考えながら仕事をしていると、いつの間にか時間は過ぎ、辺りは薄暗くなっていた。
颯爽と人影が近付いてきて、店の前で止まる。「いらっしゃいませー」颯が声を掛け顔を上げると、そこには一人の少女がいた。
歳の頃は十六歳くらい。小柄な背丈で、対照的に髪は長くて黒い。眉下で切り揃えられた前髪が彼女の黒々として大きな目を強調していた。店の照明に照らされた肌は白く、大人びてはいないが整った顔立ちの少女だった。
「アルバイトの佐原です。宜しくお願いします」
そう言って少女は頭を下げる。彼女が佐原有紗か。礼儀正しい子というのが颯の第一印象だった。
「ああ、佐原さん、よろしく。俺は津田っていいます。着替えてタイムカード切ったらここに来てくれるかな」
颯が朗らかに言うと、有紗は、はい、と言って従業員控室へと向かった。礼儀正しかったが、彼女に笑顔の
六時になると有紗が出勤してきた。長かった髪は頭巾の下で団子に纏められ、彼女の白い丸顔を際立たせていた。
「宜しくお願いします」
静粛に、しかしきっぱりとした話し方をする少女だった。見た目の幼さとは相反するものがあった。
「ああ、じゃあ、とりあえず陳列棚の補充をしてもらおうかな。えーっと・・・、オペラとコーヒーロールとクラフティを二個ずつ奥から持って来てくれる?・・・あ、まだどれがどれだか分からないか」
「いえ、大丈夫です」
有紗は踵を返すと、奥に入り、すぐに颯が指示した通りのケーキを持って戻って来た。
「すごいね、もう名前覚えたんだ」
颯が感嘆すると、有紗は大きな瞳を彼に向けた。
「採用が決まった時に商品の一覧を貰ったので、全部覚えてきました」
そう話す有紗は得意げな様子も嬉しそうな表情も無く、淡々と言葉を紡いだ。
真面目な子なんだな、などと考えながら颯は有紗に仕事を教えていた。彼女は飲み込みが良く、分からないところはまめにメモを取り、お客の対応も物怖じせず礼儀正しかったので安心したが、最低限の愛想しか出さなかった。丁寧だが笑顔の無い接客、それだけが有紗の印象の中にひっかかった。
初日なので有紗の勤務は短い。八時迄の予定だったので時間になると上がるように指示をすると、彼女は「ありがとうございました」と深々お辞儀をした。颯も「うん、お疲れ様!」と返事をし、その日はそれで有紗と別れた。
接客に必要な笑顔が無かったことが気がかりだったが、まだ仕事を始めたばかりで緊張していたのだろう、と颯は結論づけた。おいおい身につけていけばいい、そう気楽に考えた。
しかし有紗の愛想の無さは彼女の混沌とした人生からくるものだった。それがどれだけ彼女を苦しめていたか、後に颯は告白されることとなる。
有紗が颯のいるケーキ屋で働き始めてから一ヶ月が経った。仕事はもう安心して任せられる程度に成長していたが、変わらず笑顔の接客だけができなかった。三度目の出勤の時に、「佐原さん、丁寧な接客ですごく良いんだけど、もう少しにこやかにしてあげられるかな?」とそれとなく言った。すると有紗は顔を翳らせ、「すみません、善処します」といったものの、その後も変化はなかった。彼女の態度そのものは丁寧であったし、ケーキを買うだけのわずかな時間に満点の接客を求める客も少ないので、彼女へのクレームは今のところ無かったが。
その日は有紗と退勤時間が一緒だった。颯が勤務を終えて控室に入ると、有紗が机に座ってシフト表の確認をしていた。
「お疲れ」
颯が声を掛けると、顔をこちらに向けた有紗は「お疲れ様です」と言い、また顔をシフト表に戻してしまった。彼女が入社してから、ずっとそうだった。勤務中に雑談をすることもなければ、控室でも挨拶と事務連絡しかしない。話し掛けられれば一応受け答えはしていたが、最低限だった。仕事に集中するのは良いことだが、大抵は暇な時間があれば多少の雑談はするだろうし、控室でも全く話さないのは珍しかった。それは颯に対してだけではなく、他の従業員でも同じだった。
「だいぶ仕事に慣れてきたね」
試しに話し掛けてみた。すると有紗は顔を上げ、大きな瞳を颯に向けた。
「ありがとうございます」
やはり返ってきたのはそれだけだった。颯は一歩踏み込んでみることにした。
「同僚の間では、佐原さんは仕事も出来るし見た目もかわいいって評判だよ。だから皆ともう少し仲良くなるようにしたらもっと好かれるんじゃないかな」
颯の言葉に、有紗は顔を上げて何かを考えるような顔をした。
「・・・皆さんには、仕事を教えてもらって感謝していますが、必要以上に親しくしようとは思っていません」
「・・・なんで?」
有紗の目が宙を泳いだ。何かを言いかけて逡巡しているかのようだった。
「・・・私は、他の人と仲良くしないことにしているんです。仲良くする、資格が無いんです」
彼女の大きく黒々とした瞳が乾いていた。
「え?それってどういう・・・」
颯は聞き返したが、有紗はシフトを書き込んでいた手帳を閉じ、席を立った。
「すみません、今日はこれで失礼します。お疲れ様でした」
颯が引き止める間もなく、有紗は彼の横をすり抜け控室を出て行った。残された颯の頭にはひたすら最後の言葉が渦巻いていた。
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