第三話
「――伯父様」
陽雨は無理やり腕を伸ばして月臣の背に手を回した。
月臣が遠慮会釈なく抱きしめてくるから、障りはほとんど月臣に移ってしまった。
もう陽雨が月臣に触れるのを我慢する理由はなくなった。
狼狽える月臣に構わずしがみつきながら、密着する体から滲む圧倒的な霊力の気配に意識を研ぎ澄ませる。
陽雨と月臣の霊力の量に差があるのは当然だけれど、それでも冬野の刀から受けた障りがこんなに簡単に移りきってしまうのは異常だった。
龍神との親和性が強くなっているせいで、月臣の霊力が増しているのだろうか。
「よ、陽雨……、離れなさい」
馬鹿なことを言う月臣にぎゅうぎゅうと腕を巻きつける。ぐりぐりと頭突きをするように首を振った。
「やだ。伯父様は伯父様だもん。私、伯父様にぎゅっとしてもらうの、好きだもん」
「いい子だから離れておいで。おまえは好いた女に執着する男の厄介さを分かっていない。私が今おまえにどんなことをしたいと思っているか、おまえは分かっていないだろう」
「分かんなくていい!」
陽雨はむきになって言い返して、不穏な手つきで際どいところを撫で回す月臣の手を掴み、そのまま自分の頭に載せた。
撫でるならこっちにして、と唇を尖らせると、月臣は困ったように微苦笑して手を下ろしてしまった。
離れていくぬくもりが淋しくて、陽雨は泣き出しそうになりながら、月臣の肩口に顔を埋めた。
「私、朔臣のことが好きなの」
「……おまえに懸想する男の前で、他の男への愛を語るのか。おまえも」
月臣の独り言が雨音に霞む。
切ない顔で微笑む月臣に胸が痛む。
残酷だろうか。
それでも陽雨は、告げられた想いをはぐらかすことは、絶対にしたくなかった。
「……知っているよ」
吐息混じりの呟きが降ってきた。
「初めから、陽雨の目には朔臣しか入っていなかった。明陽の一番はずっと冬野で、陽雨の一番はずっと朔臣だった。私は一度だって、おまえたちの一番にはなれなかった」
それは違う。
反射的に声を上げようとして、陽雨は口を閉じる。閉じさせられたと言ったほうが正確かもしれない。
月臣の人差し指が、反論を封じるように唇に触れていた。
ゆっくり首を横に振った月臣は、何かを惜しむように陽雨の背に手を回して、折れそうなほど弱々しい力で陽雨を抱きしめた。
「私の狂気がおまえと朔臣を引き裂いてしまう前に、最後におまえにしてあげられることがあって、本当によかった」
――最後? と疑問に思う間もなく、とん、と両肩が押された。
体が浮遊感に包まれる。
気がついたときには、陽雨は後ろ向きに体勢を崩していた。
「……冬野。おまえの宝物を、返したからな」
そう声が聞こえたとともに、背後から伸びてきた力強い腕に抱き留められる。
陽雨の視界を青藤色の影が閃いた。
一瞬のことだった。
鈍い音がして、龍神の鋭く尖った爪が、月臣の胸を抉っていた。
ひく、と喉が呼吸を失敗して鳴った。伯父様、と叫んだ声は酷く歪に響いた。
嫉妬に狂った龍神を身ひとつで受け止めて、月臣は穏やかな微笑みを浮かべた。
いつも通りの、昔からずっと同じ、慈しみに満ちた眼差しで、陽雨を見つめていた。
赤黒いものを零す口元さえ、柔らかな弧を描いていた。
ずるりと爪が引き抜かれて、月臣の体が重力に従って地面に倒れ伏す。
陽雨は冬野の手を振り払って駆け寄った。
伯父様、と縋りつく陽雨に視線を持ち上げて、月臣は緩慢な仕草で手を伸ばした。
「すまな……陽雨……」
夢中で月臣の手を掴む。
月臣は陽雨の手を握り返してくれなかった。
陽雨に手を取られたまま、ぐったりと陽雨を仰いで、青褪めた唇を震わせて、たどたどしく細い声を紡いでいた。
喋らないで、今止血するから、と言った陽雨の声も届いていないようだった。
月臣の目が虚空に揺れる。ゆっくりと瞼が上下する。
視線が虚ろに彷徨って、陽雨に戻ってきて、ああ、と月臣が破顔した。
まるで、そこにいたのか、やっと見つけた、とでもいうかのように。
「おじさ、」
「……どうか、……しあわせ、に……私の……可愛い、おひいさ……――」
するり。
力が、抜けた。
そっと瞼を下ろして、だらりと腕を投げ出して、月臣はそれきり瞬きひとつしなかった。
雨粒の伝う月臣の頬は、暗がりでも分かるほど陶器のように真っ白だった。
伯父様、と温かい体を揺さぶった手に、どろりとしたものが付着する。
雨に流れ出すそれが何かだなんて、今も月臣の胸元からどくどくと溢れ出すそれが何かだなんて、陽雨は分かりたくなかった。頭は完全に理解を拒んでいた。
あるひとつの事実に対しては麻痺したように鈍くなる陽雨の思考回路は、しかしすぐに別の方向に回転した。
つい先程凶刃を振るったきり、めっきりおとなしくなった龍神すらも、既に陽雨は視界に入れていなかった。
不思議なほどするりと作り上がってしまった式神で、月臣を抱え上げて夜空に飛び上がった。
全速力で石段を飛び越えて母屋の中庭に降り立つ。
屋敷の周囲には家人や使用人が集まっていた。
口々に好き勝手に騒ぎ立てる黒山の中で、陽雨は声を張り上げた。
「医務班! いないの! 何をしてるの!」
陽雨の剣幕に誰かが「よ、呼んできます!」と駆けていく。
掻き分けられた人混みから陽雨の名を呼ぶ声が聞こえた。
陽雨は振り向きざまにそちらの方向を睨みつけた。
「遅い!」
陽雨の八つ当たりを朔臣は眉を顰めて受け止めた。
朔臣はとっくに本家を下がっていたはずだった。
いつもはかっちりとスーツで装っている格好も、ラフな普段着のままで、山を下りた市街地に構えられた霧生の屋敷から本家に戻ってくるのには相当急いだと見える。
それでいて陽雨の式札や神楽鈴をわざわざ持ってきてくれたのだから、感謝こそすれ、陽雨が朔臣に怒るのはお門違いだ。
分かっていても陽雨は当たらずにはいられなかったし、朔臣も陽雨の八つ当たりに対して殊更に目くじらを立てることはしなかった。
「医務室の当直はまだなの。早く伯父様の手当てを」
「……陽雨」
手から式札をひったくって術式を構築していく陽雨に、朔臣が声をかけてくる。
うるさい、と呟いて陽雨は式札にありったけの霊力をこめた。
「陽雨」と今度は肩に手を置かれた。うるさい、と手を振り払う。
手早く、それでいて丁寧に張り巡らせた結界に、駄目押しの護符を貼りつけて、さらに霊力を注ぐ。
障りに深く侵された月臣を密度の濃い清浄の霊力に晒せば月臣の肉体への負担となる。逸る気持ちを抑えて慎重に穢れを祓っていく。
「陽雨、やめろ。……もう、手遅れだ」
「っ――うるさい!」
浄化の方陣は完成した。障りに黒ずむ月臣の体は浄められた。
月臣の表情は安眠に揺蕩うように穏やかだ。揺すり起こしたらすぐにでも瞼を開けて、おはよう、と微笑みかけてくれる姿が目に浮かぶようだった。
だから、邪魔をしないで。
そう言いかけた陽雨の肩を無理やり引き寄せて、朔臣は「陽雨!」と怒鳴りつけた。
「おまえが死者と生者の区別をつけられないわけがないだろう! 現実を見ろ!」
朔臣に声を荒げられたのはいつぶりだろうか。
凍りついた陽雨を、朔臣は痛ましげに見下ろしていた。
眼鏡を外したままの双眸で静かに月臣の遺体を一瞥して、苦しそうに眉間に深い谷間を刻んで、陽雨の顔を真っすぐに覗き込んだ。
「……月臣は、もう手遅れだ。分かっているだろう。無駄なことはやめろ」
無駄じゃない。無駄なんかじゃない。
陽雨は頭をうち振ってずぶ濡れの月臣を抱きしめた。
無駄であるはずがない。
だって、月臣の顔はこんなに安らかで、体だってまだ温かいのに。
「伯父様、お願い、目を開けて、返事をして」
陽雨は月臣に取り縋った。
胸に覆い被さるように触れた手のひらが鼓動を伝えてこないことに、全力で気づかない振りをした。
口元から呼吸音のひとつも聞こえないのは、陽雨の心臓のほうがうるさく早鐘を鳴らしているせいだ。激しい雨の音が打ち消しているからだ。
そうだ。きっと、そうに違いない。
月臣が手遅れだなんて、朔臣のたちの悪い冗談に決まっているのだ。
「お願い……」
――そう、信じているはずなのに。
どういうわけか月臣を抱える手は情けないほど震えていて、陽雨は脳裏にこびりつく恐ろしい想像を振り払うことができなかった。
「……やだ……いや、絶対いや……」
認めたくない現実が迫ってくる。他でもない陽雨自身が、多くの死霊の間を渡り歩いてきた陽雨の中の冷静な部分が、目の前の肉体はとうに命の炎の尽きた亡骸だと訴えかけてくる。
おまえが触れているものはただの虚ろな容れ物で、その内に留まるべき霊魂は遥か遠くに消えてしまったのだと、陽雨の術師として磨かれた眼がそう告げている。
「おじさま、いや……ひとりにしないで、陽雨をおいていかないで」
口を衝いて出たのは、幼子のような懇願だった。
立派な当主になるから。
もう役目を押しつけたりしないから。
ちゃんと跡継ぎも作るから。
衣装や部屋がどうこうなんて我儘も言わないから。
龍神のことだって制御してみせるから。
もう二度と龍神に襲いかからせるような真似はさせないから。
明陽の代わりになれと言うなら、そうあるよう努力するから。
だから――
「死なないで……伯父様が側にいてくださらなかったら、生きてる意味なんてない。置いてかないで、陽雨も一緒に連れていって、陽雨をひとりにしないで、やだ、やだぁっ」
陽雨は周囲の目も憚らずに泣き縋った。
ぼたぼたと月臣の顔に滑り落ちていく雫が自分の涙なのか、空から降ってきた雨なのか、もう分からなくなってしまった。
――不意に、雨が遮られた。黒い、黒い影が差す。
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