第四話

「伯父様……」

「……ああ、すまない。部屋まで送ろう。ほら、書類はもう置いておいで」


 何か考え事をしていたのか、目を瞬いて繕うように微笑んで、月臣が陽雨の肩を抱き寄せる。

 有無を言わさずそのまま執務室を連れ出されてしまった。


 自室のベッドまで付き添われて、巫女の装束のまま寝かしつけられそうになる。

 ちゃんと眠るから、と子供扱いにむくれると、困ったように笑っていた月臣が、ベッドサイドに目を留めた。

 婚姻届をじっと見つめられると顔が赤くなる。


「伯父様、あの……」

「……朔臣から、陽雨の誕生日までは当主継承の儀に集中させてやれと怒られてしまった。成人前に陽雨が婚姻届に署名しなければならない状況に追い込むな、陽雨が当主継承の儀のあとに当主として下した決定にしか従わない、と」


 昨晩も朔臣は「当主継承の儀のあとに」「陽雨が正式な当主になったら」と繰り返していた。

 今の陽雨がどれだけ強く意思を表明したとしても、朔臣はそれを最終決定として受け取ってくれることはない。

 ――まるで、陽雨が当主継承の儀の前後で、求める結婚相手を変える可能性を確信しているかのように。


 本当は陽雨と結婚したくないと思っているのだろうか。

 当日までにこっぴどく振るなりして、陽雨に諦めさせる悪足掻きでもするつもりだろうか。

 それとも――


「……当主継承の儀で、私が朔臣との結婚を諦めざるを得なくなるような“何か”が、あるのかな」


 その “何か”の正体には見当もつかないけれど、陽雨の当主継承の儀に龍神の封印の件が絡んでいることは間違いない。

 陽雨は自分の中に封じられている龍神の封印を解いて神力を御するという、歴代の本家当主がこなしてきた当主継承の儀とは異なる儀式手順を踏むことになる。

 なおさら朔臣のほうが詳しくてもおかしくはない。


 昨晩の動物霊の件を思い出す。

 朔臣が陽雨の婚約者であることには理由があったのだろう。

 封印術式の状態すら目視できるほどの探知術に長けた術師。陽雨の中に封印された龍神の動向を間近で監視するのにこれほど都合のよい人間はいない。

 朔臣にその才能があったから陽雨の婚約者となったのか、陽雨の婚約者となったために朔臣が求められて腕を磨いたのかは分からないが、龍神の封印や復活に関する知識や理解は朔臣のほうがずっと勝っていると考えていいだろう。


 唯一朔臣より上を行くとすれば――と考えて月臣を振り仰いだ陽雨は、自分の心臓が静かにどくんと鼓動を打つのを感じた。


 月臣は一見いつも通りだった。

 穏やかな微笑。落ち着いた佇まい。

 ――しかし、その眼差しは感情の一切を削ぎ落としたように虚ろだった。


「……伯父様?」


 呼びかければ、すうっと唇が弧の形に引かれる。

 陽雨の呼びかけにゆっくりと瞬きをひとつして、月臣はまっすぐに陽雨を見つめた。


「――陽雨」

「伯父、さ、ま」


 なぜか、言葉に詰まった。


 月臣は慈愛の形に和らげた眼差しを立ち尽くす陽雨に惜しみなく注ぎ、温かい手のひらで何度も頭を撫でていった。

 そのまま髪を掬って毛先まで撫で下ろしてから、今度は陽雨の頬に触れて、顎まで指先でなぞる。

 名残惜しむように指先が離れていったかと思うと、思い出したようにもう一度頭をぽんと撫でる。


「安心しておいで。陽雨に望まれていながら、背を向け続けることなど、朔臣には初めからできなかったんだ。あと少しで当主継承の儀だというのに、結局辛抱できずに陽雨にべたべたし始めたのがいい証拠だ。それでもなけなしの意地は最後まで張り続けたいんだろう」


 往生際の悪い息子だ、と父親らしい口調で言う。

 ……いつもの月臣、だろうか。

 陽雨はそうっと体の力を抜きながら、月臣の手に身を寄せた。


「……朔臣は私にべたべたなんてしてくれないもん。私のことをまだ小学生くらいのころと同じに思ってるから、泣いてる妹分を放っておけなくて甘えさせてくれただけだもん。昔からずっとそうなの」

「私はおまえたちには昔のように仲睦まじいふたりに戻ってほしいと思っているけれど……」

「昔と同じじゃ駄目なの。私は妹じゃなくて、朔臣の奥さんになりたいんだもん。ちゃんと、結婚相手として、ひとりの女の子として、見てもらいたいの――」


 最後まで言ったか言い終わらないかというところで、陽雨は不意の浮遊感に素っ頓狂な声を上げた。

 月臣が陽雨の腰を掴んで持ち上げたからだ。

 ちょうど幼い子供に親がする『高い高い』と同じ格好である。

 普段は見上げている月臣の顔が目線の下にあって、足は当然床から離れていて、陽雨は慌てて月臣の肩に手をついた。


「お、伯父様、いきなり何をなさるの……」

「……娘を嫁に出す父親というのは、こういう気持ちになるものなのかと思ってね。あんなに小さかった陽雨を、男の下に送り出してやる日が来るなんて、おまえの親代わりとしては複雑だ」


 眉を寄せながら苦笑して、月臣は切なそうに目を細めた。

 陽雨が暴れる前にすとんとベッドに下ろして「すまなかったね」と微笑む。

 その表情もやっぱりどこか淋しそうで、陽雨は堪らず月臣に抱きついた。


「嫁に行くんじゃなくて、婿に来てもらうの。そうしたら、私、伯父様の娘になるんだから。伯父様を『おとうさま』って呼ぶんだから」


 両親のいない陽雨の保護者は月臣である。

 水無瀬の本家本流を継承する皆瀬家の人間は陽雨しか残っていないので、月臣と陽雨の養子縁組が持ち上がったことはないが、陽雨は本当はずっと月臣の本物の家族になりたかった。

 明確に存在する本家と分家の垣根を越えて、月臣を家族だと胸を張って言いたかった。


「……冬野に怒られそうだ」


 月臣は陽雨を抱きしめ返して、万感のこもった声音で囁いた。

 嬉しそうで、しみじみと感じ入るようで、同じだけ悲しげだった。


 刀に封じられている人がどうやって怒るの、と言おうとして、見上げた先の月臣の表情がやけに張り詰めていて、陽雨は咄嗟に反論を呑み込む。


 ……今日の月臣は、いったいどうしたというのだろうか。


 何か、どこかおかしい。

 どこ、と明確に言えない、捉えどころのない違和感だけれど、いつもとは確かに違う。

 まるでこの世を独りきりで生きているかのような、孤独な微笑を頬に張りつけた目の前の月臣は、陽雨のまったく知らない人のようだった。


 ――否。違う。そうではない。


 きっと今までもこういう瞬間は何度もあったのだ。

 陽雨がまったく気づかなかっただけ。隠されていた以上に、知ろうとしたこともなかった。

 今まで気がつかずに見落としてきたこともたくさんあるのかもしれない。


 誰からも期待されていなかった陽雨が一転して当主継承の儀を成功させると思われているのは、月臣が皆の前でそう語ったからだ。

 その月臣は、明陽がそう語ったからだと言った。

 月臣がそれだけで陽雨の当主就任を信じているのを、陽雨は妄信的だと思っていた。

 月臣に限らず、水無瀬の家人は『明陽様がおっしゃったこと』はなんでも盲目的に信じるのだと、馬鹿馬鹿しいとすら思っていた。


 でも、実は陽雨もそうだったのかもしれない。

 陽雨は自分自身を顧みて、そう思う。


 ――朔臣も、月臣も、まだ隠している。陽雨の当主継承に関する何かを。


「おまえが望む限り、朔臣はおまえを拒んだりしない。安心しなさい。秘密主義で言葉の足りない息子だが、当主継承の儀のあとも、あれを見捨てないでやっておくれ」


 陽雨が逡巡した先を遮るようにそう言って陽雨の頭を撫でると、月臣は陽雨を横たわらせて、手のひらを目元に翳して強制的に視界を覆った。

 眠りなさい、と囁く声が意識に染み込んで、陽雨は眠りの世界に吸い込まれるように寝入ってしまった。

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