比翼の鳥

甘灯

比翼の鳥

「…はじめまして、鏑木かぶらぎ伊織いおりと申します」


 『伊織』と名乗った女中は緊張した面持ちで頭を下げた。


「どこを向いて“お辞儀 ”してるんだ?」


 机に頬杖しながら、土岐とき将臣まさおみが飽きれたように言い放った。


「も、申し訳ありません…!」


 伊織は弾かれたように顔をあげ、左右に視線を彷徨わせた。


「申し訳ございません、将臣様。伊織は……その…盲目で…あまり物が見えないのでございます」


 年配の女中が伊織の非礼をびて、深々と頭を下げた。


「…ふん、なるほどな。目がよく見えぬ下女なら俺の気が触れないと思っての配慮か?」


「そ、そんな!滅相もございません!!わ、わたし達は…ただ」

 

 将臣は拳で机を思い切り叩き、女中の弁解を遮った。

女中は息を吞み、身をすくませる。


「はっきり言ったらどうだ?俺の顔が醜いから世話をするのが嫌なんだろう?視界にも入れたくないんだろう?…だから目が見えない者を遣わせた。ああ…そうだよな!こんなに焼けただれた顔…自分でも嫌気が差す!!」


 急に癇癪かんしゃくを起こした将臣はそう吐き捨てると、机に置いてあった水差しを乱暴に投げつけた。

水差しは女中のすぐ横の壁に当たって、パリンと音を立てて割れた。

伊織が吃驚びっくりして、音のする方へ振り向く。

女中の顔はみるみるうちに青褪あおざめた。


「出ていけ!!」


 将臣が大きな声で怒鳴ると、女中は伊織を置いて慌てて部屋を出ていった。


「くそっ!」


 将臣は机に広げていた原稿用紙をぐしゃっと握り潰した。


(なんで俺がこんな目に遭わなければならんのだ!!)






 かつて将臣は新聞記者をしていた。

業界に入ったばかりの新人の頃、将臣は『弱きを助け、強きをくじく』と言う、実に正義感に溢れた駆け出しの記者だった。

世論に鋭く切り込む将臣の記事は、周りから賞賛された。

その実力を買われた将臣は、帝都で有数の大手新聞社に引き抜かれると、そこから異例の速さで出世していった。

 しかし徐々に上の立場になると、政治家の汚職や軍の不祥事など大きなスキャンダルを扱うことが多くなった。

その頃の将臣は自分の立場を守ることに固執こしつしていた。

上層部から『もみ消せ』と言わせれば、二つ返事で記事を握りつぶすことをいとわなくなっていった。


 ある日、帝都内を歩いていた将臣は突然現れた男に火炎瓶を投げつけられて、顔に大きな火傷を負った。

 

 犯人の男はとある政治家によって人生を狂わされて、糾弾する記事に書いてくれと将臣に頼みこんでいた。

しかし将臣は取材にはしたものの、それは形ばかりであり、決して表立った記事にはしなかった・・・・・。 

そのことに・・・・・男は激昂し、将臣に逆恨みした末の犯行だった。


 しばし治療に専念するために将臣はしばらく休職することになったが、左半分に負った火傷の痕が元通りに治ることは決してなかった。

 焼けただれた皮膚は赤黒く変色し、突っ張ったように歪み、以前の彼の精悍な面影はなくなっていた。

哀れみの目、奇異の目が容赦なく自分へ向けられることに、将臣はとてつもない大きな恐怖心を抱くようになっていった。


 かつての将臣が記事で取り上げた者達が、輝かしい栄光から一気に転落していったように…。

 将臣もまた賞賛された人生から、一気に人の目に怯える日々を余儀なくされた。 





「…皮肉なものだな」


 将臣は自分を嘲っあざけた。

そんな彼の耳に雑音が届いた。

将臣は我に返って振り返ると、伊織がしゃがみこんで割れた硝子の破片を拾っている姿があった。


「痛っ」


 案の定、あまり目が見えていない伊織はガラス片で指を切ってしまった。


「何をしてるんだ。俺は『出ていけ』と言った筈だぞ!」


「すみません。これを片付けてから出ていきますので…お怪我をされたら大変ですから…」


 そう言って伊織は光のない目を懸命に凝らしながら、畳に散らばったガラス片を覚束おぼつかない指先で拾い上げていく。


「…そんなもの、ほうきで掃いて集めればいいだろう」


「……箒がどこにあるか、分からないもので…」


 将臣はチッと舌打ちをして、部屋を出て行った。


「これで取れ」


 戻ってきた将臣は仏頂面のまま、伊織の目の前に箒とチリ取りを突き出した。

物が見えずらい伊織は、思わず首を傾げる。

将臣は焦れったくなり、強引に伊織の手に箒を握らせた。


「!?あ、ありがとうございます!」


 手に持った感触でそれが箒と分かると伊織は驚いたが、すぐ感無量といった面持ちで深々と頭を下げた。


「…目はどのくらい見えているんだ?全盲でなければ、ある程度は見えるんだろう」


「はい…明るさと暗さの違いぐらいは…それで物の輪郭がぼんやりとですが、分かります」


「そうか。……片付けが終わったらさっさと出ていってくれ」


「わ、分かりました」


 伊織はぎこちない手つきで、ガラス片を箒で掃いていく。

しばらく机で執筆していた将臣だったが、箒を掃く音がどうしても気になって再び振り返った。


「なんでうちに来たんだ?」


「働きたくって…でも、こんな目なので…なかなか仕事先が見つからず…そしたら奥様がここで雇ってくださると仰ってくださいまして…」


「…………」


 その言葉に将臣は押し黙った。


 盲目の伊織を雇い入れたのは、将臣の母親だ。

今現在、将臣は帝都から離れた田舎町にある生家に身を寄せている。

火傷を負った一件で人間不信になっていた将臣は、敷地内の離れでひっそりと生活していた。

食事を運んで来る者、掃除に来る者……来る者すべて拒み、母親の手をわずらわせていた。

そこで物が見えずらい盲目の伊織に白羽の矢が立ったのだろう。


「俺の顔は…本当に見えんのか?」


「はい」


「…そうか」


 将臣は伊織の返事に安堵した。


「お前は本当にここで働きたいんだな?」


 将臣の言葉に、伊織は驚いた顔をした。


「はい!…でも」


 先程から将臣に邪険にされ続けていることで、伊織は思わず口ごもった。


「…なら、最低でもこの離れの間取りや家具の場所ぐらいは覚えておけ…そんなに覚束ない感じのままなら、すぐクビにするぞ」


「は、はい!頑張ります!」


 将臣の嫌味たっぷりな言葉にめげず、伊織は力強く頷いた。






   ◇ ◇ ◇   ◇ ◇ ◇






「…食事をお持ちしました」


 伊織は膳を持って、将臣の部屋に入ってきた。

数週間が経ち、伊織は離れの間取りや家具の配置をすべて把握したかのように、盲目とは思えないほど自然な立ち振る舞いをしていた。 


「もう以前のように家具にぶつかったり、段差につまずかなくなったな……」


 将臣は思わずそう呟いていた。

そんな将臣に対して、伊織は静かに微笑む。


「はい。将臣様が根気強く物の場所を教えてくださったお陰ですね」


「……俺は、別に大したことはしてない」


 お礼を素直に受け取れない卑屈な将臣に、伊織は少し困り顔をした。


「いえ、将臣様には助けられました・・・・・・・


 伊織は将臣が聞き取れないほど小さな声で呟いた。


「…以前に少しお話しましたが、私の目は色の見分けがほとんどつかないのです。光の加減で明るさと暗さの違いがある程度分かるといった状態でして」


 伊織が自ら話し始めて、将臣は黙って聞くことにした。


「例えるなら……そう、色が抜け落ちて全体が白黒のような濃淡に見えるといいますか。ですから…そこに物が置いてあればその輪郭が濃い影のように浮かんで見えるのです」


 そう言って伊織は箪笥たんすの方を正確に指差した。


「…なるほどな」


 将臣は相槌を打った。


「…でも物の距離感を掴むのは難しいです。物の有無が分かっても、距離が掴めないとぶつかってしまうのです。特に明かりの届かない夜はまったく物が見えなくなります。私なりに考えて、物の距離を歩数をかぞえて覚えようと試したこともありました」


 当時を思い出すように伊織は何もない宙を見据えた。


「…ですが自分が今どこにいるのか分かっていないとあまり意味を成しません。でも、これも慣れていくと頭の中に自然と見取り図が出来上がっていくのです。今まで培った経験と感覚が頼りになるといいますか」


『だから将臣様が根気強く教えてくださったお陰もあるのです』と伊織は続けた。


「俺はそうは思わん。すべてお前自身の努力の賜物だろう。……俺には到底できない芸当だしな」

 

 将臣はなおもへそを曲げた返しをする。


「…ありがとうございます。褒めて貰ったことなんて今まで一度もなかったので……とても嬉しいです」


 そんな将臣の皮肉めいた言葉を、伊織は“正しく”褒め言葉と受け取ったようだ。

 

「べ…別に褒めたわけでは…いや」


 反射的に否定しそうになった将臣だったが、その言葉を途中で飲み込んだ。


ハンデを持った伊織の境遇がこれまで良かったとは到底思えない。

彼女はどこか人を恐れている、そのように将臣には見えるのだ。


ーーまるで、今の自分と同じように…


「…ところで、将臣様はいつも何を書いておられるのですか?」


 伊織は将臣の元へ戻ると、正座しながら尋ねてきた。


「ああ……小説だ」


「小説ですか…どんなお話を書いておられるのですか?」


「道化の話だ」


「…道化、ですか?」


「ああ。一度は栄華を極めた男が…己が慢心のせいで次第に転落していくおどけ話だ」


 大まかなあらすじを告げ、将臣は自虐的に笑った。

伊織は将臣がどうして笑ったのか分からず、不思議そうに小首を傾げた。


 伊織は黒い瞳をしている。

外光をすべて吸い尽くしたかのような、深淵の闇そのものだ。

辛うじて明暗の判断しかつかないその瞳が、将臣の顔をはっきりと映すことは決してない。

それでも将臣は何度も伊織の目を見て、確かめずにはいられなかった。

伊織の瞳には、本当に自分の醜い顔が映されていないのか?と。

将臣は怖かった。

本当は自分の顔がはっきりと見えているのではないか…と。

そしていつか、彼女がこの顔を知ってしまう時が来るのではないか、と。

将臣はそれが堪らなく怖かった。


「…様…将臣様」


 伊織の声で将臣は我に返った。

頭痛を覚えて、思わずこめかみを抑える。


「大丈夫ですか?」


 将臣から返事がないことに、伊織は不安になって尋ねた。


「…大丈夫だ。疲れたから…少し休む」


「あっ…は、はい」


 立ち上がった伊織を、将臣は「いや、いい」と手で制した。


「布団は自分で敷くから、お前はもう下がっていい」


「あ、はい…分かりました」


 将臣の声色に何かを感じ取った伊織は素直に頷くと、後ろ髪を引かれながらも静かに部屋の戸を閉めた。

将臣は自分で布団を敷くと、そのまま寝転んだ。





   ◇ ◇ ◇   ◇ ◇ ◇




 ハンチング帽の男が、こちらへ近づいて来る。


「ーーー。ー-ーーーー」


 男は怒鳴り声を上げながら、ジャケットの内側に隠していた硝子瓶を取り出した。

瓶の中には琥珀かかった液体がなみなみと入っている。

男は瓶の縁に詰め込んだ布の先端に、ライターで火を付ける。

そして恐ろしい形相を向けたまま、将臣の顔めがけてそれを投げつけた。


一瞬で将臣の視界が赤く染まった。




   ◇ ◇ ◇   ◇ ◇ ◇




「っ!?」


 将臣は布団から飛び起きた。

心臓がドクドクと早く脈打っているが、全身が冷水に浸ったかのように冷たかった。


『将臣様…?』


 部屋の外から伊織の声がした。


「伊織…まだいたのか?」


『はい…その…大丈夫ですか?今大きな声が…』


「なんでもない…」


『で、でも』


「もう夜だぞ。さっさと自分の部屋に戻れ!俺に構うな!!」


 将臣は布団を深く被って、硬く瞼を閉じる。

伊織の足音が遠ざかっていった。

将臣は伊織に辛く当たる自分に嫌気が差した。

伊織は将臣のことをおもんかばって、こんな時間になってもずっと部屋の外に居てくれたのだ。


ーー…何故「ありがとう」の一言がいえないのか。




“コン、コン”

しばらくして戸を控えめに叩く音がした。

将臣は少し上体を起こした。


『将臣様…入ってよろしいですか?』


 将臣は何も答えなかった。


『…失礼します』


 返事を待たず、伊織はそっと戸を開いた。


「喉は乾いていませんか?お水をお持ちしました」


 月明かりを頼りに、伊織は慎重な足取りで将臣の元に歩み寄った。

そして指で畳を探るようにして、水差しを枕元近くに置いた。


「さっきは…すまなかった」


 将臣がポツリと謝った。


「いいえ。私が勝手なことをしたのがいけなかったのです」


 伊織は首を横に振る。


「いや、お前に八つ当たりしただけだ…本当にすまない」


「お気になさらず…なにか、お辛い事があったのでしょう?」


 伊織の優しく気遣う言葉に、将臣は泣きそうになった。


「これは因果応報なんだ…すべて俺が招いたこと…誰かを責めるなんて…間違っているよな」


 将臣は震える声で呟いた。

伊織はおぼつかない手つきで将臣の背をゆっくりとさする。

その時、将臣は自分が泣いていることに気づいた。


 きっと泣き顔は醜いものだろう。

伊織の目が見えないことが今の将臣には救いだった。


「あまり…うまく言えないのですが…」


 伊織は一旦言葉を切って、慎重に言葉を選ぶように視線を彷徨わせた。

そして意を決したように、こう続ける。


「…将臣様が今まで何か悪い行いをしたとしても…少なくとも私のことは手助けしてくださいました。因果応報は決して悪い事だけではないのです。いい事をしたら巡りめぐって返ってくる。だから…きっと、いつか将臣様がしてきた良い行いのお陰で報われる時が、必ず来ます」


 いつも自信がなくたどたどしい物言いをする伊織だが、その言葉は確信を持ったかのように力強かった。


ーー…正直、そうは思えない。


それが将臣の本心だ。

だが伊織がそう言うなら『信じてみてもいい』とも将臣は思った。


「…そうだな」


 将臣の返事に、伊織は静かに微笑んだ。





 ◇ ◇ ◇   ◇ ◇ ◇





「伊織はどうした?」


 その日、将臣のもとに来たのは伊織ではなく、初対面の若い女中だった。


「い、伊織さんならもう辞めました」


 女中は将臣から露骨に視線を外しつつ、怯えながら答えた。


「…何だ、と」


 その言葉に将臣は愕然がくぜんとした。


「なぜだ?なぜ急に……!」


 将臣は女中の両肩を掴んで問いただした。


「さ、さるお方の…め、めかけになるそうで…それで辞めたと聞きました」


 将臣は言葉を失った。


「ここに来る前からあったお話だったようですが…伊織さんがその前に、どうしてもここで働きたいとお願いしたそうで…」


 以前聞いた時には働きたいとは言っていたが、妾になる話は聞いていない。

妾とはあまり表立って言えることではない。

伊織が言えなかったのは無理からぬことではあるが、将臣は大きなショックを受けた。

女中の肩から力なく手を放して、将臣は自身の顔を覆った。


(妾…?伊織が…?)


 伊織はとても美しい女だ。盲目でなければ何処ぞの良家に嫁いでもおかしくない。

例え妻にできずとも、妾として手元に置きたいと思う男はいくらでもいるだろう。


(嫌だ…)


 将臣は首を振った。


(伊織が傍からいなくなる…なんて…)


 伊織はずっと自分の側にいると思っていた。

辛く当たることがあっても、伊織は黙って側に寄り添ってくれた。

なのに、自分は何か一つでも伊織の支えになったことがあっただろうか。


(いや…伊織に何もしてやれなかった…いつも自分の事ばかりで…)




ーーこんな別れは…あんまりだ!






「伊織は今どこにいる?」





 

  ◇ ◇ ◇   ◇ ◇ ◇






  伊織は白い着物を着て、椅子に座っていた。


 伊織を妾にすると言った男は、伊織より一周り以上も年上だ。

実はそれなりに名の知れた良家の娘であった伊織だが、盲目というハンデで嫁に貰いたいと言う男はこれまで一人も現れなかった。

 良家の娘は同じ良家の子息や地位のある男の元に嫁ぎ、家同士の繋がりを強くし、後世まで家名を残す務めがある。


鏑木かぶらぎの家のために、誠心誠意尽くせ』


 伊織は両親からそう教え込まれて、物心つく頃から厳しく育てられた。

しかし8歳の時、高熱を出したことが原因で伊織は視力をほぼ失ってしまった。

体裁にこだわる両親は娘がハンデを持ってしまったことを、自分の事のように恥じた。

将来、娘を良家の男に嫁がせるはずだった思惑がもろく崩れ去り、両親は伊織にひどい仕打ちをした。

『役立たず』と何度も、何度も、伊織は両親から強く罵られてきた。

しかしある日、伊織になんと良縁が舞い込んで来たのだ。 


『妾でも、今のお前には贅沢すぎる程の幸せだろう』

『お前もこれでやっと鏑木家の役に立つわね』


 縁談の話の折、両親からそう吐き捨てられた。

『お荷物』でしかない伊織が家を出ていく。

両親にとって、手放しで喜ばしいことだった。


「将臣様」


 伊織は俯きながら、ポツリと彼の名を呼んだ。






『どうした?そこに居ると路面電車が来て危ないぞ』


『す、すみません!人とはぐれてしまって…目が悪いもので…教えていただきありがとうございました』


『…そうか』


 不意に手を引かれて、伊織はとても驚いた。


『俺も、人を探すのを手伝ってやる』


 ぶっきらぼうでも優しい彼の言葉に、その時の伊織は救われる思いだった。

無事に人を見つけることができて男が去る間際、伊織は思い切って彼に名を尋ねた。


土岐とき将臣まさおみだ』


 彼はそう名乗って、去って行った。



 

 数年後、伊織は将臣の事を人伝で聞いた。

記者をしていたが、誰かに逆恨みされて、顔に大きな火傷を負ってしまったこと。

今は地元に帰っていること。


 伊織は自分が他の男の妾になる前にもう一度、どうしても将臣に会いたかった。

将臣は今辛い思いをしているのではないだろうか。


ーー…あの時の恩返しがしたい


ーー…もう一度、せめて一目だけでも会いたい


 伊織は一大決心して両親に頼み込んで、将臣の家で働けるように懇願した。

何不自由ない暮らしを約束されていた伊織だが、『相手の家で暮らす前に少しでも世間を知って素養を身につけておきたい』と最もなことを言うと、両親は思いの外あっさりと聞き入れてくれた。

 両親のなかではあと少しで出ていく伊織のことなど、もうどうでもよかったのかもしれない。


(この日が来ることは、わかっていたのに……)


「将臣様…」


 伊織は、はらはらと泣き出した。

あの出会いから、伊織はずっと将臣のことを忘れずにいた。

再会してひどい言葉を投げかけられたが、将臣の事を全く嫌いになれなかった。

短い時間だったが一緒に過ごすうちに、将臣への想いだけが強くなった。


「貴方に会いたい…」


 別れの挨拶さえ、言えなかった。

他の男の妾になるなんて、将臣には知られたくなかったのだ。


 伊織はむせび泣く。

将臣の事を思うと、彼が恋しくて、涙が止まらなかった。






『ーーまれ!』


 その時ドア越しから男の怒号が聞こえ、伊織は我に返った。

椅子から腰を浮かしながら、そっと耳を澄ませる。


『貴様、ここを誰の屋敷だと思ってる!止まれ!!』


 気になった伊織は椅子から離れて、覚束おぼつかない足取りで、声がする扉の方へ向かった。

扉を薄く開けて、隙間から少し顔を覗かせる。


「伊織、何処に居る!?」


 将臣の声だった。


(嘘…幻聴…?)


 伊織は今起きている事が信じられなかった。


「どうして…将臣様がここに?」


 気づけば伊織は廊下に出ていた。

将臣が伊織の姿を見つける。

周りにいた男達の制止を振り切り、将臣は伊織の元に駆け寄ってきた。


「伊織!」


 将臣は伊織の手を強引に掴んで、有無を言わさずに駆け出した。

突然のことで、伊織の足はもつれそうになる。


「走れ!」


「!!」


 将臣に叱咤しったされた伊織は、彼の手をしっかり握り返すと無我夢中で駆け出した。






 ◇ ◇ ◇   ◇ ◇ ◇






「とりあえず…ここまでくれば、大丈夫だろう」


 河原の橋の下、将臣は息を切らしながら言った。


「将臣様…どうして?」


 伊織は息を整えながら、将臣に問いかけた。


「……別れの挨拶もしない薄情者に一言いってやりたくてな」


 将臣はねたように告げた。


「そうですか…言いたい事とは何でしょうか?」


 伊織はおそるおそる尋ねた。


「……俺はこの通り。ああ…お前も知っていると思うが顔にひどい火傷の痕がある。そのせいで俺は…人前に出ることが…何よりも恐い」


「…はい」


「でもお前と一緒に居たら…ほかの奴らがどんな目で俺を見ようとまったく恐ろしくは感じないんだ」


 伊織を一人で迎えに行く時、二人でここまで逃げて来た道すがら、多くの通行人とすれ違った。

だが不思議なことに、将臣は人の視線がまったく気にならなかった。

無我夢中だったから、気に留める余裕がなかっただけかもしれない。

だがしかしーー


「伊織…」


「はい」


 伊織はまっすぐに将臣の顔を見上げた。

相変わらず彼女の瞳は光のない黒色だった。


「お前と居ると自然と勇気が出る、と言うか。…だ、だから、その…これからも、俺の側に居てくれないか?」


 将臣の言葉を聞いた途端、伊織は急に泣き始めた。


「ど、どうした…嫌だったか…?」


 将臣はおろおろし始めた。


「いいえ!…違います」


 伊織は袖で涙を拭うと顔を見上げた。


「私も将臣様が側に居てくださると、自分の目が見えないことに全く引け目を感じないんです」


 伊織は泣きはらした目をしながら、微笑んだ。


「私もずっと将臣様と一緒に居たいです。二人で寄り添い合えば…何も恐くないですよね?」


 伊織の言葉に将臣は一瞬驚いたが、突っ張った頬を緩めるとぎこちない笑みを浮かべる。


「そうだな…むしろ『無敵』じゃないか?」


「はい!そうですね!」


 伊織は実に嬉しそうに笑みを深めた。






           ・

           ・

           ・







「くしゅん!」


 伊織がくしゃみをすると、将臣は慌てて自分が着ていた羽織を脱いで彼女の肩にかけようとした。

すると伊織はそれをやんわりと手で押し返し、将臣の耳元近くで“何か”を囁いた。

それを聞くや否や、将臣は苦笑しながら大きく頷く。



 将臣と伊織は肩を寄せ合い、一つの羽織に包まった。




 【その姿はまるで、雄雌1体の存在『比翼の鳥』そのものだった】

          

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