浮雲朝露《ふうんちょうろ》

 橡は最後の札を取り出した。

「この身は依代、穢れなき水面。」

 昔の記憶が、蘇る。

 橡は空を見上げた。太陽が燦々と輝いている。後ろから草を踏む音がして、橡は振り返った。

「ちちうえ!」

小さい背丈に見合った、舌足らずな口調で雅客を呼ぶ。雅客はただため息をついた。

「ん?なんか用か?」

不機嫌そうながらもきちんと答えを返してくれる雅客に、橡は微笑んだ。そしてやっと間違えずに言えるようになった敬語を駆使する。

「ちちうえ!きょうはなにをするのでしゅ、ですか?」

噛んでしまったのをなんとか言い直し、褒めてくれと言わんばかりに橡はキラキラとした目で雅客を見上げた。雅客は、橡の手を引いて歩き出した。

「今日は特にすることはない。お前は社の近くで勝手にしていろ。」

突き放したような言い方にも、橡は悲しい目をすることはない。微笑んだままで元気よく頷いた。

「はい!あれ?ちちうえ、きもののすそがほつれてます。なおしておきますね!」

小さなほつれに気づき、橡は裁縫道具のありかを思い出した。確か、棚の奥にあったはずだ。針も錆びていない、はずだ。

「いや。お前はまだ下手だからやめておけ。自分の着物の裾でも直していろ。」

一瞬戸惑ったように首を傾げるが、橡は自分の着物の裾を見てなるほど、と納得した。小さいが、いくつかほつれているところがある。これくらい簡単に直せるようにならないと、雅客の着物の裾も直せるようにはならないだろう。

「はい!きょうじゅうになおしておきます!」

愚直なまでに素直な瞳が雅客を貫く。雅客はふん、と鼻を鳴らして歩く速度を速めた。

「勝手にしろ。」

橡は、はい、と笑みを絶やさずに頷いて、雅客に走ってついていった。春の穏やかな日差しが彼らを照らす。橡がその途中何度も話しかける。そして、雅客はそれに必ず言葉を返した。言葉のやり取りが、他に誰もいない山に響く。

 一人で花を探していた橡は、茂みの向こうに人がいるような気がして首を傾げた。特に隠そうともせず、茂みに向かって歩いていく。茂みの向こうにいる人は、初めは静かにしていたが、少しして気付かれたとわかったのか逃げようとした。

「あなた、だぁれ?」

橡は茂みに隠れていた少年の手首を掴んだ。少年は驚いたように橡を見る。初めて見る雅客以外の人に橡はやや緊張しながら答えを待った。

「あーぁ。だれにもばれないようにきたのに。まぁいいや。おれはしおん。おまえは?」

紫苑は諦めたようにヒョイ、と肩をすくめた。橡は名前を聞けた上に聞かれて、にこりと微笑んだ。

「わたしはつるばみ!ねぇ、しおん、あそんでくれますか?」

紫苑も釣られるようにして笑顔になった。自身をつかんでいた手からするりと逃げ、優しく手を握る。

「うん。あそぼうか。なにをする?」

橡は手を握られたことに目を見開いたが、すぐにその手を引いた。いつも遊んで駆け回っている山は、彼女の庭も同然だ。

「こっちにきて!ここはですね…」

紫苑がつまづきそうになっても構わず様々な場所を巡り、そこでできる遊びの説明をしていく橡に、紫苑は苦笑した。それでもその瞳には、楽しげな光が宿っている。

 障子の向こう側から、鳥の鳴き声が聞こえる。橡は今日も雅客の近くにいた。

「きょうはまいのうごきのほんをよんでおくよていなんです!」

橡は今日の予定を宣言した。ニコニコと微笑んでいる彼女に、雅客はそうか、と呟いた。

「山から出ないのなら、勝手にしていろ…そうだ、橡。お前は瑠璃と名乗れ。」

急な言葉に、橡は目を丸くした。雅客はそれに構わずに続ける。

「山の外の連中は悪い奴らばかりだ。お前を攫おうとする奴も出るかもしれない。その時、お前が瑠璃と名乗り、悪い奴らがお前を瑠璃と呼べば、お前の居場所がわかるから助けに行ける。わかったな。」

橡にとってはそのことはまだ早く難しいが、長い時間をかけて理解しようと試みた。雅客はその間ずっと黙っている。

「えっと…わるいひとにさらわれるかもしれないから、おとうさまじゃないひとにるりってなのればいいの?」

雅客は無言で頷いた。橡は相変わらず笑顔のままで元気よく返事をした。

「はい!これからは、だれかとあったらるりってなのります!」

雅客はふん、と鼻を鳴らした。そして大きな手で乱暴に橡の頭を撫でる。橡の瞳を太陽の光がさした。その表情は陰になっていて見えない。

「ほんをよんだら、ちちうえのきものをなおせるようにれんしゅうするんです!」

そうか、と呟いて、雅客は橡の手首を握った。橡は紫苑が握ってくれた手のひらの暖かさを覚えていた。徐に雅客の手を外して、手をつなぐ。

「こうすると、あたたかいです!」

雅客は目を見開いた。彼は一度も彼女と手を繋いだことはない。しかし本にでも書いてあったのだろう、と少しも疑問を覚えなかった。

 七歳になり、橡はやっと舞を教えてもらえる、と意気込んでいた。用意された練習用の服に着替える。少し重いが動きやすく、丈夫な布で作られていた。

「お待たせいたしました。」

今となっては使いこなせるようになった敬語を使いつつ、部屋に入る。そこには扇が一対置かれており、その隣には雅客が立っていた。

「よし。扇を持って、一通り舞ってみろ。」

橡はわずかに緊張しつつ、頷いた。そっととった扇は、とても軽い。舞い始めた瞬間、雅客から罵声が飛んだ。

「そうじゃない!もっと滑らかに!やり直し!」

「はい!」

必死で修正箇所を直そうと気をつける。しかし、いくら書物を読んでいたとしても、舞うのは初めてなのだ。動きもぎこちないし、重心の置き方も実践しないとわからないことが多い。

「何度言ったらわかる!最初からやり直し!」

数回同じところを注意されれば、竹刀で打たれた。血が滲み、足の力が抜けそうになる。それでも、座り込むことは許されない。雅客の瞳が、そう言っている。

「はい!」

だから、何度でも立ち上がる。その瞳が柔らかくなるのが、嬉しいから。何度でも。

 未だ完璧に舞えたことはないのだが、それでも満足したような表情は、好きだった。

 月桂樹の花が、視界いっぱいに咲き誇る。

 「この身に依て、穢れを祓え。」

橡から蛍のような淡い、小さな光が離れていった。ふわふわと漂っていたその光の玉は、しばらくして行方を定めたようにぴたりと止まり、スゥッと吸い込まれるように月へと登っていった。体の力がカクン、と抜け、橡は地面に崩れ落ちた。満月の清らかな光が、その小さな体を包み込んだ。


シャボン玉 消えた

飛ばずに消えた

生まれて すぐに

こわれて消えた

風 風 吹くな

シャボン玉 飛ばそ


シャボン玉は風に吹かれて雫も残さずに、静かに消えた。

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