三 竜の声 後編
「イーレン」
笛の音だけが緑の森に響くなか、静かに呼びかける祭主の声がしたが、少年は振り返らなかった。人々の信仰の頂点に立つその人の、たしなめるような声音が、彼に残った最後の理性を消し炭へと変えた。イーレンは人々へ背を向けたまま、この世のものならぬ竜の声で言った。
『音楽を』
大地の神そのもののような声に気圧されたか、あるいは声のもつ力に縛られたか、神官たちが一人、また一人と神喚びの曲を吹き始める。揺らぐ音色が神性を帯びて、群れなす人々をますます沈黙させる。
『――来ませ』
ぞっと背筋の凍る、異形の歌声が朝の空気を震撼させた。先頭に立った神官たちがふらりとよろめいて膝をつき、笛の音が途切れた。虫の声も聞こえぬ静寂のなか、静かすぎる森を見回した誰かが「神の声……?」と呟いた、瞬間。身に覚えのある気配がその場の全員を襲った。
竜が、応えたのだ。
たった一声で神を喚んでみせた若き神官に、里人の尊敬の視線が集まる。しかし、本来舞台の端に立っているべきは花嫁であって、神官ではない。人々は異例の事態にざわめき、ユゥラはそっと一歩進み出て少年と場所を代わろうとした。が、後ろ手に突き出された鈴杖が彼女の行く手を阻む。杖先の鈴が鳴り、イーレンは背後に花嫁を押しとどめたまま、空いた片腕を大地に向けて差し伸べ、声を張った。
暗い地表から、穴を覆い始めていた梢を突き破って竜が現れたのが、イーレンの立つ舞台からはよく見えた。長い体躯をうねらせ、側壁の森を削り取りながらぐんぐん迫ってくる様子を、少年は昏い炎の宿る瞳で見つめた。そして、それが迫り出す舞台を噛み砕こうと口を開けた瞬間、彼は美しい響きの竜語から粗野な現代語に切り替えて怒鳴った。
『――竜よ、聞け!』
「イーレン!」
祭主の叫ぶ声が背後に聞こえたその時、竜が身をよじって舞台を避けた。大穴の反対側の壁を押し潰して、竜はイーレンの目と鼻の先を通り過ぎていった。ぬらぬらとその全身を光らせている黒い泥のようなものが飛び散り、少年の顔にびしゃりとかかった。それを手の甲で拭い、イーレンはふわりと空中で静止した竜を見上げる。目のない顔を舞台へ向けた竜を睨み上げ、もう一度叫ぶ。
『聞け!』
竜は跳躍の頂点で大きく身をくねらせ、巨大な尾で木々を薙ぎ倒しながら対岸の森に着地した。森全体がすさまじい揺れに襲われ、皆が這いつくばって足元の枝や蔓にしがみついた。イーレンは振り返り、よろめいたユゥラを片腕で支えると、舞台の上に座らせた。無数の悲鳴が上がっていたが、何百もの不協和音がひしめき合うような不気味な声で竜が唸ると、全員が息もできなくなったかのように静かになった。
その沈黙を、一人の声が破る。
「イーレン、下がれ!」
『動くな!』
竜の声で命じると、舞台へ駆け上がろうとしていた祭主が崩れるように地面へ倒れた。イーレンは他の誰もが身を震わせて動けないのを確かめ、大穴を挟んでこちらの様子を伺っている竜に向き直った。そして彼は渾身の怒りを込め、喉の潰れる声量で絶叫した。
『竜よ! 俺の命を懸けて、この花嫁は決して喰わせない! そして人類はもう二度と、未来永劫、お前に贄は捧げない!!』
――歴代最高の歌で君を送るから
――祭主の位を継いで、皆の夢を守り続けるから
そんな花嫁の少女との美しく切ない約束が果たされる寸前、彼はそれを考え得る限り最も過激な方法でもって、全部反故にした。里人たちからいくつも呻き声のようなものが上がったが、言葉になっているものはひとつもなかった。皆、先程の竜の声にすっかり威圧されているのだ。
『竜よ、それを覚えて大地へ帰れ! お前はもう、人の神である必要はない。人類の叶わぬ夢なぞに惑わされず、地表で自由に生きるんだ!』
その叫びが通じたのかどうかは、少年にはわからなかった。しかし里の全員がその言葉を聞いていた。竜はじっと見つめるようにイーレンへ鼻先を近づけ、そして草木も枯れるようなおぞましい声でひと鳴きすると、鋭い牙がずらりと並んだ顎を開き、首を巡らせ、そして無駄足を踏まされた報復だと言わんばかりに、周囲を覆うガラの枝を大きく食い千切った。太い幹の裂ける大きな音とともに森が大きく抉れ、再び強い揺れが皆を襲った。
竜は真紅の花枝をゆっくりと幾度か咀嚼し、喉の奥でひと唸りすると、ぬるりと巨体をうねらせて頭を下に向けた。器用に舞台を避け、蛇のように壁をつたってゆっくりと大穴の底へ帰ってゆく大地の神を、群衆が身動きひとつできぬまま目で追い、そして緩慢な動作で踵を返した少年へ、視線を向けた。全てを壊した少年へ、深い、深い憎しみの視線を。
「これでもう、生贄は意味を成さなくなった」
息を荒くしてそう言った彼を、憎悪に満ちた無数の目が見据える。しかしそれを見つめ返したイーレンの瞳は少しも揺らがなかった。皆になぶり殺しにされる覚悟ならば、もう決まっていた。
唇を引き結んで立つ彼のことを、もう誰も「魂が抜け落ちたよう」などとは言えないだろう。凄絶な勇気と信念に燃える顔をした少年の前に、鈍色の衣を纏った長身の男が立つ。ただ一人竜の咆哮が引き起こすめまいから立ち直った彼は皮肉にも、イーレンの才能を見出し昇華させた人物だった。
祭主は、舞台の端に立つイーレンを何の感情も浮かんでいない目で見下ろし――なんの言葉もなく、彼の胸をトン、と押した。力ある竜の声で叫び続け、疲れきっていた少年の体は簡単に傾ぎ、背中から虚空へ投げ出される。実に、簡単な処刑であった。
とその時、諦念の表情で目を閉じようとしていたイーレンが、驚愕に目を見開いた。訝しげに振り返る祭主の脇をすり抜け、ユゥラが長く重い花嫁衣装の裾を翻し、少年を追って宙に身を躍らせた。とっさに伸ばされた父の手が空を掴む。
落ちてゆく二人を見つめる里人たちは――悲壮な顔で這いつくばって手を伸ばすジレンやシエンも含めて――誰一人として声すら出せぬままだった。緊迫した無音のなか、処刑は滞りなく行われ、そして人々は神と夢とを失った。
〈第三章 了〉
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