聖女クローディアの覚悟―どうやら、私は記憶を失った聖女のようです―

巴 雪夜

自ら記憶を封じた聖女は愛を知れるのか

第一章:どうやら、記憶を失ったようです

第1話 目が覚めたら、全ての記憶を失っていた


 もう何もかも嫌になってしまった。


 私のことなど聖女としてしか見てくれない。


 もっと私を愛してほしかった。こんな自分勝手な心を持った私は聖女でいいのだろうか。


 もう嫌だ、死にたい。


 でも、聖女として、神龍セイントレア様に選ばれたのだから、その期待を裏切るわけにはいかない。


 全ての記憶を閉じ込めてしまおう。何もかも忘れて、一からやり直そう。


 申し訳ございません、神龍セイントレア様。私は心の弱い人間でした。どうか、どうか、許してください。


 ゆっくりと瞼を閉じて、自らに呪いをかけて――



   ***


 ふっと浮上する意識に目を覚ます。重たい瞼を持ち上げれば、真っ白な天井がそこにあった。此処は何処だろうか。そんなことをぼんやりとする頭で思っていれば、桃色の明るい髪が視界に入る。



「クローディア様! あぁ、よかった目を覚ました!」



 愛らしい顔には似合わない涙を溜めた眼に見つめられる。安堵したように深い息を吐いて、若く見える女性はベッドに乗り出していた身体を上げて、傍に置かれた椅子にすとんと腰を下ろした。


 桃色の髪を一つに結っている彼女は緑色の瞳を濡らしながら「よかった、よかった」と、涙を拭っている。


 白い騎士の鎧を身に纏う彼女から視線を移して周囲を見渡してみる。ベッドを仕切るカーテンがあって、その反対側には身支度を整えるために置かれただろう姿見があった。そこに映るはベッドに寝そべる自分の姿。


 色白の肌によく映える銀の長い髪が緩く巻かれて、深い紫の瞳に光が静かに灯っていく。自分の顔だと理解できても、見覚えがなかった。



「あの」


「どうしましたか? 体調が悪いのですか?」


「貴女は誰? 私は何?」



 ゆっくりとベッドから身体を起こして聞くと、桃色の髪の女性は眼をこれでもかと見開いてから、「何も覚えていないのですか!」と肩を掴んできた。



「貴女はクローディア。このセイントレア国を統べる神龍セイントレアに選ばれた聖女様ですよ!」


「え?」


「わたしは貴女の護衛騎士、モモ・ヒイラギです……。クローディア様、友達だって言ってくださったじゃないですか……」



 ぼろぼろと涙を流すモモと名乗った彼女をクローディアは見つめるしかない。自分は何も、そう何も覚えていないのだ。そんな表情を見てか、モモはますます泣き出して、縋るように抱き着いてきた。


(わたしはクローディア。このセイントレア国を統べる神龍セイントレアに選ばれた……聖女。駄目だわ、覚えていない)


 思い出そうとするも何も浮かんでこない。それどころか、頭が痛くなって胸が苦しい。それでも、泣き縋るモモを放っておくことができず、彼女の背を擦ってやる。



「どうしたのかしら?」



 ベッドを仕切っていたカーテンが引かれる。顔を覗かせたのは綺麗に整った容姿の女性だった。深い緑の長い髪をお団子に纏め、兎の耳のように二つに結っている彼女は赤い華人服を身に纏っている。


 紅玉のような赤い眼を猫のように丸くしながらモモを見つめていた。彼女の声を聴いてモモは飛び退くと、「メイリン殿! クローディア様が!」と泣きながら状況を語り始める。クローディアはその様子をただ眺めていた。


 だいだいの状況を理解したようで、メイリンと呼ばれた華人服の彼女は「少し失礼」と断りを入れて、クローディアの額に触れる。


 ふわりと浮いたような感覚を抱いたクローディアが首を傾げれば、メイリンは「なるほど」と呟いて離れた。



「これは記憶を封じる呪いです」


「な! 誰がそんなことを!」


「聖女様ご自身ですよ」



 モモの疑問に答えるようにメイリンは言った。それにはモモも、クローディアも目を瞬かせる。そんな驚いた様子にメイリンは「これは聖女様ご自身でかけた呪いです」とはっきりと言い切った。


 呪術師であるメイリンは呪いの診断と解呪の後遺症の治療を主に扱っている、呪い専門の医師といった役割を担っていた。そんな彼女がクローディアに下した診断は、「無理をして解呪する必要はない」だった。


 クローディア自身でかけた呪い。それも記憶を封じるということは、思い出したくもない出来事があったということだ。心の負担を減らすために自ら選んだ行為であり、解呪して再び思い出した時に心が耐えられるかは判断できないと。



「もし、記憶を取り戻して苦しみ、生きるのが辛いと感じては、身体にどのような影響があるかこちらも判断できない。今、解呪するのは危険だわ」


「そんな……」


「モモ・ヒイラギ。貴女が聖女様を想うならば、辛い出来事を思い出させることが、どれほど苦しいものなのかは理解しなさい」



 メイリンに諭されてモモは目を伏せた。記憶を消すほどの辛い出来事を思い出させていいものか、彼女はそれがどれほど苦しいのかを理解したようだ。わかったと頷いてからクローディアへと目を向ける。



「聖女様。記憶を自ら封じた以上、あたしは今、解呪するのは危険だと診断します」


「私はまだ記憶を戻さないほうがいいってこと?」


「えぇ。暫くは様子を見たほうがいい。何がきっかけでそういった行動をとったかは分かりかねますが、辛い出来事があったのは確かでしょうから」



 今の気持ちが固まっていない状況で解呪を行えば、身体にどのような影響が出るかは予想ができない。メイリンはもう一度、そう言ってから「でも」と言葉を続けた。



「もし、記憶を取り戻しても良いと覚悟が決まったらあたしに相談してください。解呪をしても問題ないと判断できれば、許可しましょう」



 今は心を休め、癒すところから始めた方がいいと診察するメイリンに、クローディアはそうと返事を返して視線を落とす。


 真っ白なシーツを見つめながらクローディアは、自分にどれほど辛い出来事が襲ったのだろうかと考える。記憶を封じるほどなのだから、きっと思い出したくもないはずだ。メイリンの言う通り、今は心を休めるべきなのかもしれない。


 クローディアはそうしようと頷いてからメイリンに「これからどうしたらいいかしら」と質問した。彼女は少し考えてから「いくつかありますが」と答える。



「まず、聖女様ご自身で記憶を封じる呪いをかけたことは秘密にしておきます」


「それは何故ですか、メイリン殿」


「聖女様を守るためです」



 モモの問いにメイリンは答える。聖女様が自分の意思で記憶を封じたとなれば、詮索する輩が出ると。役目を果たせなかった者など聖女に相応しくないと主張する輩も現れるだろう。


 民たちも不安をいだくかもしれない。そうなってはクローディアに負担をかけてしまい、心を休めることができなくなってしまう。メイリンは「こうなっては聖女様の心の治療ができなくなってしまう」と説明した。



「解呪するもしないも、まずは聖女様の心の治療が第一だ。だから、余計な不安を抱かせないためにもあたしたちだけの秘密にしておく」


「で、でも、記憶を封じたことの説明は……」


「聖女様は魔物の呪いで記憶を封じられたことにする」



 昨日は丁度、聖女様は魔物と戦闘中の一部の聖騎士たちが被った呪いを解くために、戦地に赴いている。その時に戦闘があったというのも聞いているので、遅延性の呪いにかかったことにすればいいとメイリンは話す。



「聖女であっても呪いにはかかる。解呪の後遺症で記憶を封じられて、今は取り戻すための治療をしていることにするんだ」



 治療にはまずその原因となった呪いについて調べる必要があるため、暫く時間がかかることにすればある程度の人間ならば騙すことができる。それを聞いてモモは「神龍セイントレア様とガラシヤ女王陛下には……」と、不安げに問う。


 神龍セイントレアは神であり、御前で嘘をつくわけにはいかない。ガラシヤ女王陛下はこの国の王であり、神龍セイントレアの妻として見初められた存在だ。彼女にもまた、嘘をつくことは許されない。


 メイリンは「あたし自ら説明をしよう」と答えた。聖女が謁見を望めば、神と女王陛下の二人だけと話ができる。誰も盗み見ることも話を聞くこともできないので、訳を話すことはできるだろうと。



「聖女様にもご協力をしてもらう」


「私の事ですから協力しますわ」


「次に聖女としてのお役目はやってもらわなきゃならない。怪しまれないようにも。詳しいことは護衛騎士であるモモ・ヒイラギに聞きてください」



 彼女は貴女の世話係でもある。覚えていない知識も丁寧に教えてくれるだろうと言われて、クローディアがモモを見遣れば、彼女は「任せてください!」と胸を張った。


 仕事やこの国のことまで何でも教えますよと言う彼女に、クローディアは「ありがとう」とお礼を言ってから視線を逸らす。何でもないように。


(わたしはどうして記憶を封じたのだろうか……)


 辛い出来事とはなんだろうか。気にならないわけでも、不安がないわけでもない。けれど、思い出そうとすると頭が痛くなって、胸が苦しくなる。これは心の治療が必要なのだと伝えてくれているようで。


 クローディアはメイリンの指示に従うことにした。今は身体を休めようと。



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