二古光治シリーズ
尾乃扉
彼方の小説 1
書店『集蘭堂(しゅうらんどう)』に一冊の小説が並んでいた。
オレンジ色のカバー表紙の中心に、水色の線が描かれたシンプルな装丁の本だった。
絵柄でも文字でもない、ただ一筆で色を付けただけの一閃だ。
その斜め上に書名が控えめに載っている。
まるで、書名なんて大事じゃないですよ、とでも言わんばかりのバランスだった。
水色の一閃だって同じだ。
まるで、カバー装丁からは何も伝えませんよ、という意志が感じられるかのように。
しかしそんなデザインが何故か人の興味をそそった。
一人の客がまたそれを手に取った。
彼の名は二古光治(にふるこうじ)。
近所に住む、二十代半ばの青年だ。
これといって特筆すべき特徴を持たない平凡な男である。
風貌は穏やか。
彼を見かける人はおそらく全ての人間が、おとなしそうという印象を抱くだろう。
ところが二古の内面はそれほど静かなものではない。
彼は今もその小説を見下ろし、著者名の菊見里子という字面を見つめ考えている。
何を考えているのかは、周りの人間にはもちろんわかることではない。
***
およそ文学という世界における注目新人作家の存在は、所詮小さな鉢に咲く花に似たようなものである。
外の世界の多くの人間からは、その存在すら知られていない。
菊見里子だってその例外ではなかった。
二古が今日購入したその小説『アナタのその輪郭』という作品は、とある新人賞を受賞して売上げも相対的に見れば悪くない本だった。
それでも小さな鉢の花である。
二古はまず立読みで数行読んでみた。
文章の流れに目が滑る。
大した文章ではないと感じた。
それでも購入をした理由は、彼自身が小説家志望だからである。
そう、二古光治は作家を目指している。
年齢は二十五歳。
K県にある石円町(いしまるちょう)に一人暮らし。アルバイトをしながら、日夜、自らが目指すべき小説像の完成に向け執筆を続けている。
この時、ふと二古はその本に得体の知れない嫌悪感を抱いた。
何かがざわめいている。本の内容うんぬんではなく、本そのものから発せられる得体の知れないもの。
それが一体何なのか。二古にもわからない。
ただひとつだけ、この本を手にしてはいけない、という内なる感覚による声だけは感じ取ることができた。
それはまるで何かのサインのようだった。
本質としては、もしかしたら単なる嫉妬なのかもしれないが。
ストレスが掛かる。そのせいか歯が痛んだ。
二古には虫歯がある。彼は歯科医院に近頃通っている。
二古の頭にある女の姿が浮かび上がる。
彼が恋する歯科衛生士だ。
早くまた会いたい。二古は本を見下ろしながら思う。
結局のところ、本を読む人間にとっては、それがたとえどんなに小物な小説だと感じようとも、一度興味を持ってしまえばもう負けである。
読まずにはいられない。
二古にとってそれは、一読書好きとしての側面と、自分の知らぬ注目作家だとするならば目を通しておかなければならないという作家志望としての側面、二つの意味合いがある。
二古自身も当然小説を執筆している。ただそれは習作と呼ばれる段階のものだ。
幾度か新人賞へ投稿したことはあるものの、受賞歴は無い。それどころか一次選考を通過したことすら実のところ無い。
本当はこの時間も書いているべきなのかもしれない。
だがまだ焦る必要はない。
少なくとも彼の意識はそう判断している。
一方、二古光治がこうしてレジで会計を済ませているまさにこの瞬間、彼の住むアパートの自宅ポストに一通の封筒が投函されていた。
そこに綴じられている一通の報せ。
それが二古の生活をガラリと変えることになる。もちろん彼自身はそのことを知る由もない。
だが、いつまでもこのままではいられないのだ。
誰しもがそうであるように。
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