第32話 隣人という名の小さな灯り

浩太は仕事から帰宅した。いつも通りの疲れが体に染みていたが、部屋のドアを開けた瞬間、いつもの独特な空気が流れ込む。


「浩太さん、おかえり!」元気いっぱいの声が響き渡る。自分の部屋なのに、繭がまるで当たり前のように座っている。その姿に、浩太は思わず苦笑を浮かべた。


「お前、また勝手に入ってるのか。」ぼそっと呟きながら靴を脱ぎ、部屋の奥へと進む。


「だって、浩太さんの部屋の方が落ち着くんだもん。」繭は全く悪びれる様子もなく答える。その笑顔を見ると、浩太はそれ以上怒る気にもなれない自分がいる。


疲れた体を椅子に預けると、ふと部屋の中に漂う温かさに気づく。繭が淹れたらしい紅茶の香り、テーブルには簡単な夕食が並べられていた。


「お前、本当に手がかかるな。」そう言いながらも、どこか心の奥に小さな灯りがともるのを感じた。


確かに彼女は勝手気ままな女子高生だ。でもその無邪気な明るさが、浩太の疲れた心に不思議な癒しを与えていることに、最近気づいていた。


仕事で張り詰めていた神経や、日々の些細なストレス。繭の明るい声や無防備な振る舞いは、それをふっと軽くしてくれる。まるで暗い道に置かれた小さな灯りのようだと、浩太は密かに思う。


「ねぇ、浩太さん?」紅茶を差し出しながら、繭が不意に話しかけてきた。「今日も大変だったでしょ?私が癒してあげるからね!」


その言葉に、浩太は小さく笑った。「癒してるつもりかもしれないけど、お前が一番疲れさせるんじゃないか?」


「えー、そんなことないよ!浩太さんが元気でいてくれるのが、私の隣人としての使命なんだから!」繭は無邪気に笑う。


浩太は紅茶を一口飲みながら、そのやり取りの中に確かな温もりを感じていた。「本当に手のかかる奴だな。」と呟きつつも、どこか安堵感に包まれる自分がそこにいた。


繭の存在は、ただの隣人以上の何かに思えた。彼女の笑顔や声が、この部屋に新たな意味を与えていることを浩太は少しずつ理解し始めていた。


浩太は紅茶を飲みながら、繭をちらりと見やった。彼女はテーブルの上に肘をついて、何やら嬉しそうにスマホをいじっている。こうして見ると、ただの手のかかる女子高生に思える。でも、それだけじゃない。


繭がいるこの空間には、何とも言えない安らぎがあった。いつも自由奔放で明るい彼女の言動が、仕事で疲れた心を知らず知らずのうちに癒してくれている気がする。浩太はそれを口にすることはないが、心の中で自分がどれだけ彼女の存在に救われているかを、少しずつ感じ始めていた。


「ねぇ浩太さん、私って最近もっと頼れる存在になってきたと思わない?」と、繭が突然顔を上げて言った。


「頼れるかどうかはともかく…まあ、にぎやかではあるな。」浩太はぼそっと答える。その言葉の端々に照れが混じっていることに、繭は気づかない。


「えー、それ褒めてるの?」と繭が満面の笑みで尋ねる。


「どうだろうな。」浩太はわざと曖昧な答えを返す。けれど、その曖昧さの奥には、彼女を気遣う思いが隠されている。


繭は椅子をくるりと回しながら、「でも浩太さん、私がいないとちょっと寂しいでしょ?」と大胆に尋ねる。


「そんなことない。お前がいると面倒が増えるだけだ。」浩太はあえてぶっきらぼうに返したが、心の中ではその言葉が偽りであることを認めていた。


「ふーん、でもね、浩太さんの部屋にいると、私もなんだか安心するんだよね。」繭がぽつりと言ったその言葉に、浩太の胸は少しだけ暖かくなった。


「そうか。まあ、隣人としてはそれでいいんじゃないか。」と浩太は努めて冷静に答えたが、その背中はどこか柔らかい雰囲気をまとっていた。


二人のやりとりは、どこかぎくしゃくしつつも、そこには確かな温もりが宿っている。繭の存在が、浩太の疲れた心を包み込み、二人だけの小さな世界を静かに形作っていくのであった。


仕事から帰宅した浩太は、部屋に入った瞬間、繭の姿を見つけた。いつものことだが、彼女はリビングのソファに寝転び、スマホをいじりながら何かを口ずさんでいる。まるで自分の部屋のようにリラックスしているその姿に、浩太は苦笑いを浮かべた。


「お前、また勝手に入ってるのかよ。」と口を開くと、繭はいつものように元気に答えた。「だって隣なんだから別にいいでしょ?浩太さんも、私がここにいる方が楽しいはず!」


「楽しいかどうかは別として、勝手に人の部屋に来るなって言ってるだろ。」浩太は少しぶっきらぼうに言いながらも、彼女の笑顔を見るとそれ以上突っ込む気にはなれなかった。


それどころか、ふと自分が繭に対してどんな感情を抱いているのかを考え始めた。彼女の明るさが、どれだけ自分を救っているのか。彼女の無邪気な言葉が、どれだけ疲れた心を癒してくれているのか。


「浩太さん、なんで黙ってるの?疲れてる?」と繭が顔を覗き込むように近づいてきた。その距離感に、浩太は一瞬たじろいだが、すぐに平静を装った。


「いや、何でもない。ただ、お前は本当に手のかかる奴だなと思ってただけだ。」と呟くように言った。


繭はケラケラと笑いながら、「手のかかる女子高生がいる方が、浩太さんも充実した毎日になるでしょ?」と返す。その無邪気な言葉に、浩太は胸の中で何かが揺れた。


「…俺、どうかしてるのかもしれないな。」浩太は内心、自分自身に呆れながらも、その感情から目をそらすことができなかった。繭をただ手のかかる隣人として見ていたはずなのに、いつの間にかその存在が自分にとって特別なものになっているような気がしていた。


「浩太さん?どうかした?」繭が首をかしげる。その仕草すら愛おしいと思ってしまう自分に気づき、浩太はそっと目をそらした。


「いや、なんでもない。お前は気にしなくていい。」とぶっきらぼうに答える。それでも、心の中ではもやもやとした感情が渦巻いていた。


もしかして俺って、繭のことを――。


浩太はその考えを追い払うように、頭を軽く振った。「よし、飯でも作るか。お前、手伝えよ。」と話題を変える。


「はーい!浩太さんと一緒に作るご飯、楽しみ!」と無邪気に笑う繭。その笑顔に、浩太はまた胸の奥が暖かくなるのを感じながら、二人でキッチンに向かった。

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