第6話 すべての鍵


「それが…全ての鍵だ。」


イワンの言葉は、洞窟の中に重く響いた。誠司と咲子は顔を見合わせる。ブレスレットが鍵?ただの護身用のスタンガン付きブレスレットに、そんな力があるのだろうか。


「どういう意味ですか、イワンさん?」


咲子が恐る恐る尋ねた。イワンは燃え盛る炎を見つめながら、ゆっくりと語り始めた。


「お前たちが運び屋として扱っていた品物…あれは単なる牛肉や豚肉ではなかった。共産国の奥深くから持ち出された、極めて重要な“何か”だったんだ。」


「重要な何か…?」


誠司は眉をひそめた。彼らが運んでいたのは、確かに上質な食料品だったはずだ。しかし、あの機密文書の存在を考えると、イワンの言葉もあながち嘘ではないのかもしれない。


「ああ。そして、その“何か”を守るための仕掛けが、あのブレスレットに施されている。」


イワンはそう言うと、咲子の腕に巻かれたブレスレットを指差した。


「あれは、ただのスタンガンではない。高度な暗号化技術が用いられた、一種の通信機であり、起動キーでもある。」


「通信機…起動キー…?」


咲子は自分の腕輪をまじまじと見つめた。まさか、こんなものがそんな重要な役割を担っているとは、想像もしていなかった。


「誰が、何のために、そんなものを…」


誠司の疑問に、イワンは静かに答えた。


「お前たちの依頼主…表向きは貿易会社を装っているが、実際は共産国内の反体制派組織だ。彼らは長年、秘密裏に体制転覆の機会を窺っていた。そして、そのために必要な情報と資金を、国外の協力者とやり取りするために、あのブレスレットを利用していた。」


「反体制派…」


誠司は息を呑んだ。もしそれが本当なら、彼らはとんでもない陰謀に巻き込まれてしまったことになる。


「あの機密文書は、その反体制派組織の活動を示す証拠の一部だった。おそらく、依頼主はそれを国外に持ち出すために、お前たちを利用したのだろう。」


「それで、秘密警察は私たちを執拗に追いかけているんですね。」


咲子の言葉に、イワンは頷いた。


「ヴィクトルは、あのブレスレットの重要性に気づいている。何としてもそれを取り戻し、反体制派の動きを阻止しようとしているんだ。」


「でも、私たちはただの運び屋です。そんなこと、何も知りませんでした。」


誠司は必死に訴えた。しかし、イワンの表情は険しいままだった。


「知らなかったでは済まされない。お前たちは、すでにこの国の深い闇に足を踏み入れてしまった。そして、その中心にあるのが、あのブレスレットだ。」


イワンは立ち上がり、洞窟の入り口へと歩み寄った。外はまだ深い霧に包まれている。


「これからどうするんですか?」


誠司が尋ねた。イワンは振り返らずに答えた。


「あのブレスレットを、しかるべき場所に届けなければならない。」


「しかるべき場所…?」


「ああ。国外にいる、反体制派の協力者の元へな。それが、お前たちが生き残る唯一の道だ。」


イワンの言葉に、誠司と咲子は顔を見合わせた。彼らはただの密輸屋だった。政治的な陰謀など、無縁の世界に生きてきたはずだった。しかし、今や否応なしに、その渦中に巻き込まれてしまった。


「私たちに、そんなことができるんでしょうか…?」


咲子の不安げな声に、イワンは力強く答えた。


「お前たちならできる。ここまで生き延びてきたんだ。それに、俺も力を貸そう。」


イワンはそう言うと、洞窟の外へと足を踏み出した。誠司と咲子も、覚悟を決めて彼の後に続いた。彼らを待ち受けるのは、さらなる危険と困難だろう。しかし、もはや後戻りはできない。ブレスレットに隠された秘密を解き明かし、この終わりの見えない逃走劇に終止符を打つために、彼らは前進するしかなかった。


霧は依然として深く、視界を遮っていた。イワンは慎重に周囲の状況を探りながら、森の中を歩いていく。誠司と咲子は、彼の背中を追うようにして進んだ。


どれくらい歩いただろうか。霧が徐々に晴れ始め、木々の間から微かな光が差し込んできた。


「もう少しで森を抜けられる。」


イワンが低い声で言った。その言葉に、誠司と咲子は僅かな希望を見出した。


しかし、その時だった。背後から、けたたましい銃声が響き渡った。


「伏せろ!」


イワンの叫びと同時に、三人は地面に身を伏せた。銃弾が頭上をかすめ、木の幹に激しく打ち付けられる音が聞こえる。


「やはり、追ってきたか…!」


イワンは歯ぎしりした。


「ヴィクトル…!」


誠司は銃声の方向を睨みつけた。森の木々の間から、黒い制服を着た秘密警察の兵士たちが姿を現した。その先頭には、冷酷な表情を浮かべたヴィクトルの姿があった。


「逃がすものか…!大人しく投降しろ!」


ヴィクトルの声が森に響き渡る。


「まだ諦めないつもりか!」


イワンは叫び返した。


「お前たちを捕まえなければ、私の立場がないんだよ!」


ヴィクトルは狂気じみた表情で叫んだ。


「邪魔をするなら、容赦はしないぞ!」


次の瞬間、ヴィクトルは手に持った拳銃をイワンに向けて発砲した。銃弾はイワンの肩をかすめ、赤い血が滲み出る。


「くそっ…!」


イワンは痛みに顔を歪めた。


「イワンさん!」


咲子は心配そうに駆け寄ろうとしたが、誠司が彼女の腕を掴んで制止した。


「危険だ!動くな!」


秘密警察の兵士たちは、容赦なく銃弾を浴びせてくる。三人は身を隠しながら、反撃の機会を窺った。


「このままでは、ジリ貧だ…!」


誠司は焦りを募らせた。何か打開策を見つけなければ、全滅してしまう。


その時、イワンが低い声で言った。


「お前たち、あの崖まで走れ!」


「崖…?」


誠司は振り返った。彼らが少し前に崖から降りてきたばかりだ。またあそこに戻るというのか?


「そうだ。崖の下には、秘密の抜け道がある。」


イワンはそう言うと、再び銃撃を開始した。その隙に、誠司と咲子は崖へと向かって走り出した。


背後からは、ヴィクトルの怒号と銃声が追いかけてくる。二人は必死の形相で崖へと駆け上がった。


崖の斜面は急で、足元は不安定だった。何度も滑りそうになりながらも、二人はなんとか崖の上にたどり着いた。


「どこに抜け道が…?」


誠司が周囲を見回すと、イワンが崖の端に立って、何かを探しているようだった。


「ここだ!」


イワンはそう言うと、崖の岩陰に隠された小さな洞窟の入り口を見つけた。


「急げ!」


イワンに促され、誠司と咲子は洞窟の中へと滑り込んだ。洞窟の中は真っ暗で、足元も覚束ない。


「大丈夫か?」


誠司は咲子の手を握り、声をかけた。


「ええ、なんとか…」


咲子の声は震えていた。


イワンは懐から小さなライトを取り出し、洞窟の中を照らした。洞窟は思ったよりも広く、奥へと続いているようだった。


「ここを通れば、秘密警察の目を欺けるはずだ。」


イワンはそう言うと、先頭に立って歩き始めた。誠司と咲子は、彼の後を追った。


洞窟の中は静かで、時折、天井から落ちる水滴の音だけが響いていた。三人は無言で歩き続けた。


どれくらい歩いただろうか。突然、前方に微かな光が見えてきた。


「出口だ!」


イワンは声を上げた。三人は急いで光の方向へと進んだ。


洞窟の出口は、鬱蒼とした森の中に続いていた。外の空気はひんやりとしていて、肺に心地よかった。


「やった…!逃げ切れた…!」


咲子は安堵の表情を浮かべた。


しかし、誠司の表情は険しいままだった。


「まだ安心はできない。ヴィクトルは必ず追いかけてくる。」


その言葉通り、森の奥から、再び銃声が聞こえてきた。


「くそっ…!しつこい奴らだ!」


イワンは歯ぎしりした。


「とにかく、ここから離れるしかない。」


三人は再び走り出した。森の中を、ひたすら走り続けた。彼らの逃走劇は、まだ終わらない。


夜が明け、空が白み始めた頃、三人はようやく人気のない山奥にたどり着いた。疲労困憊の三人は、岩陰に腰を下ろし、息を整えた。


「しばらくは、ここで休息しよう。」


イワンが提案した。誠司と咲子も、それに同意した。


イワンは火を起こし、持っていた食料を分け与えた。冷たいパンと乾いた肉だったが、疲れた体には十分なご馳走だった。


食事を終えると、三人は眠りについた。静かな山の中で、ようやく安らかな眠りを得ることができた。


しかし、彼らの休息は長くは続かなかった。


昼過ぎ、遠くからヘリコプターの音が聞こえてきた。


「まずい…!見つかったか…!」


イワンは飛び起き、周囲を警戒した。


「どこへ逃げよう…?」


咲子は不安そうに言った。


「あの山頂を目指すしかない。」


イワンは遠くに見える険しい山頂を指差した。


「あそこまで行けば、ヘリコプターも追ってこられないだろう。」


三人は再び立ち上がり、山頂を目指して歩き始めた。険しい山道は体力を奪い、息も絶え絶えになった。


しかし、背後に迫る危機を思えば、立ち止まるわけにはいかなかった。


山頂に近づくにつれて、道はさらに険しくなった。岩場をよじ登り、木々の間を縫うようにして進む。


そして、ようやく三人は山頂にたどり着いた。山頂からは、見渡す限りの景色が広がっていた。遠くには街の灯りが見え、自分たちがどれほど遠くまで逃げてきたのかを実感した。


「これで、しばらくは大丈夫だろう。」


イワンは安堵の表情を浮かべた。


しかし、誠司の心には、まだ拭いきれない不安が残っていた。ヴィクトルは執念深い男だ。きっと、どんな手を使ってでも彼らを追いかけてくるだろう。


「イワンさん、これから私たちはどうすればいいんでしょうか?」


誠司はイワンに尋ねた。イワンはしばらく考え込んだ後、静かに答えた。


「国境を越えるしかない。」


「国境…?」


「ああ。この国にいれば、いつまでも追われ続けることになる。国外に出て、反体制派の協力者と合流するしかない。」


「でも、どうやって国境を越えれば…?」


咲子の問いに、イワンは険しい表情で答えた。


「簡単なことではない。だが、方法はいくつかある。問題は、どの方法を選ぶかだ。」


イワンはそう言うと、遠くの空を見つめた。彼の瞳には、強い決意の色が宿っていた。


「これから、さらに危険な旅が始まるだろう。だが、生き残るためには、それしかないんだ。」


誠司と咲子は顔を見合わせ、固く頷いた。彼らは、もはやただの密輸屋ではない。国の命運を左右するかもしれない、大きな陰謀の中心に立ってしまったのだ。


ブレスレットに隠された秘密。反体制派組織の目的。そして、執拗に彼らを追いかける秘密警察。数々の謎が絡み合い、彼らの未来は全く予測できないものとなっていた。


しかし、それでも彼らは諦めなかった。イワンという頼れる味方を得て、どんな困難にも立ち向かう覚悟を決めていた。


三人は山頂でしばらく休息した後、再び歩き始めた。目指すは、遥か彼方の国境だった。彼らの長い逃走劇は、まだ始まったばかりだった。


(第六話・続く)

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