第四話 三尺三寸の箸で突け! 目だ。目を狙え!
さて。今日はバレンタインデーです。
でも私には全く関係がないので、今日は元気に人間の良くない面の話をします。
まずは
自分の書いた文章を確実にカクヨムのトップページに載せる方法があるのです。
その方法とは。
レビューを書くことです!
はい、がっかりです。
すみません。普通の話して。
でもレビューを書いたら、時間によっては十分以上もトップページに載っています。
なのになぜみんな、こぞってレビューを書かないのでしょうか?
世の中、自己顕示欲がダダ漏れしている人が多いのに。
レビューというものは、カクヨムで執筆する人にとっては自作をもっと評価してくれる反応ですよね。
なのにお礼をちゃんと言う返信機能がレビューにはないのか?
『👍️』を押すだけなのか?
私は、ふしぎに思っていたのです。
カクヨム界隈でコメントのあるレビューというものは〝読者が自分の作品にたどり着く導線の起点となる〟とか言われているらしいです。
レビューを書かれたら、閲覧数が増える。
すると、なにか知らないポイントがアップするらしいのです。
大変ありがたい事です。
なのになぜ、作品を評価してもらった作者は、その場でお礼も言えないのでしょうか?
その答えがすぐに出なかったのは、私の視点が物語を〝書く人の側〟に固定されていたからでしょう。
固定観念が、この理由をわかり難くさせていたのです。
レビューというものは〝読む人の側〟から見るならば、作者に向けて描かれたものではないのです。
本義としてのレビューはレビュワーが、まだ見ない読者に向けて書くものです。
〝自分は、これを読んでこう思った。あなたはどうか?〟
そんな〝娯楽の分かち合い〟へ誘うものなのです。
作者なんか関係ありません。
作者は作品を書いた後、それを評価された事について肯定しても否定しても意味がないのです。
評価する人に論戦を仕掛けたとしても、作品は良くならないのですから。
せいぜい、レビュワーへレビュー内容の訂正のお願いをするか、削除するかです。
レビューは書く側の者たちの
世間を
本来、読み手が読んで得た感想は読み手のものです。作者が出る幕はありません。
書き手は直接、作品に関わります。
作品は直接、読者に関わります。
作者と読者は、関わりません。
作者と読者が関わるとすれば作品を介して間接的に関わる程度です。
それは、わかります。
わかりますけど。わかるわけにはいかないのです!
レビューのお礼を、言いたいのです。
感謝と称賛の
べったり
ウソです。
それは、ウソなのですが。
私は
お礼は、したいのです。
なんとかならないものでしょうか。
でもまー。コレばっかりはなんともなりませんよね。
それで、また考えてしまいました。
落ち着いて考えたときに〝良いことに礼はしない〟そんな行為は他にもあると思い至りました。
〝
坊主に金品を渡す、あれです。
喜捨をした人に対して坊主は礼を言いいません。
なぜなら、差し出された
財物という
〝坊主は縁あってそこにいた
とかなんとか聞いたことがあります。
私は坊主ではないので、本当のことは知りませんけれど。
そんなわけで。
〝レビューの礼は、作者がするものではない。お礼があるとすれば、レビュワーが書いたレビューという作品を読んだ者から受けるべきもの。評した作品はその機会となっただけ〟
と
そんな気がします。
ただの誤解でなければ、巧みな感情の交差を設けたシステムだと思います。
同時に思うのは、レビューを欲するのに他人にレビューを書かない人の状況です。
たいていの場合は、レビューを書くのが苦手な人なのでしょう。
それは仕方がないです。無理してまで書く性質の文章でもないし。
しかしそうではなく、他人様にポイントを与えるのが嫌だと思う方がいるらしいのです。ごく一部の人でしょうけれども。
なんでもそういう人の投稿の動機と目的はランキング上位となることらしいです。
投稿作品とは獲得ポイント、ランキングを取るための道具みたいです。
十話ほど書いて予想した数までポイントが取れない場合は、その不出来な道具は放置または削除するのです。
そして別のウケる可能性のある作品を書く。そういうこともあると聞きます。
そんな状況で、他人にレビューを書くなんてありえないです。
完全に時間の無駄です。
レビューというのは、自作への閲覧者を呼び込む入り口になるそうです。
作品まで誘導するための導線の起点になるそうです。
その道筋を他人のために通すのは、潜在的な敵に対して☆を得る機会を作るようなものです。損です。
じゃあ、書くはずがないです。バカも休み休み言えです。馴れ合いなんて、いらないのです。
その人にとってカクヨムの評価とは、優勝劣敗のゼロサムゲームなのでしょう。
理想の形は他の誰にも星を与えずに、すべての星を自分だけに集めることとなります。そんな面白い事態、見てみたいです。
現実的な方法論としては、星の交換比率を常に自分優位に保つことなのだと思います。
これはゲーム理論でいう〝囚人のジレンマ〟でしょうね。
試行回数の少ないゼロサムゲームにおいて協力して得られる得点よりも、協力しないで得る点が高い時に、まま起こります。
もっとも。作品評価はゲームではないのですけど。
そうも
さて話はまた変わりまして。
〝三尺三寸の
地獄と天国の食卓は同じように
そこには、同じごちそうがあり、その前には一メートルくらいの長い箸が置いてある、のだそうです。
地獄にいる者は、その長い箸で自分の口に食べ物を運ぶのですが、やはり箸が長すぎて、何も口に入りません。
地獄にジャグラーや
天国は地獄と同じ状況ですけど、こちらは、みんなご飯を食べられています。
地獄との違いは、まず他人にご飯を食べさせるからだそうです。そして自分も食べさせてもらいます。
天国と地獄の食卓は同じ。ただその場にいる人が違うのです。
私は、たぶん「ジャータカ物語」という仏教説話集で知ったような気がします。
うろ覚えですけれど。
大元となる出典は不明らしいです。
似た話がユダヤの説話にもあるらしく。
ヨーロッパでは長いスプーンの話として流布しているそうです。
かくのごとくに。
幸せとは、いくら人に分けても減らない宝、なのだそうです。分けるべきだと教えています。
だからカクヨムは各人の他者に与える☆の数を制限してないのだと思います……なんてこと、実際には無くて。
カクヨムで一定時間に連続して大量の☆を与える行為はアカウントの削除の対象になるそうです。
私がフォローしていた方が、その件でアカウントを作り直していました。
恐ろしいのは一定時間数あたりの☆の付加数の限度数や、評価して次にまた評価するまでに経過させるべき時間間隔を運営が明示していないことです。
明確にすると、ギリギリを狙うリアルフェイスな人が出てくるからですね。たぶん。
だから☆の大量付加をする人は常にチキンゲームです。
そして、さらに人間としてギリギリな行為があります。
〝スパイト行動〟というものです。
囚人のジレンマより、ひとつ進んでいます。
もう
〝他人が得をするくらいなら自分が損をしても構わない〟
という信念で他者に対して❤️も☆も絶対に与えない存在です。
自他ともに苦しまなければ気がすまないのです。地獄は一定すみぞかし、です。
さて、ここまでこの空言を読んでくださった皆さんのアカウントが居るのは、
天国のカクヨムですか?
それとも────
地獄のカクヨムですか?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます