月照らす戦場/赤き戦王
地鳴りに近い音が響いてくる。
通路を照らす松明の炎が凪いで、砂埃が天井から降り注ぐ。
『急げ』と隊長格の男が手で煽り、戦士たちは『彼』を急がせるよう槍でせっつく。
「急いても変わらんぞ」、と言うが当然通じない。『彼』は溜息を飲み込み早く歩き出す。
螺旋階段を昇る。上がるたびに揺れと音が強くなる。
微かに漂ってくる、ある匂いも。
(これは────)
気付くのと同時に、扉が開かれた。狭く堅牢な通路から外へ出る一枚扉。
光が差し込む。『彼』は再び顔を上へ上げる。
雲一つない夜空。海のように青い夜。遮るものがない空には、陽の代わりに座する満月が地上を観していた。
夜の女主人の元に流れ出すのは、轟音と蛮声。
『彼』は視線を下に動かした。自分が立つのが高所……時代外れの砦の上だと気付く。城壁の上に作られた回廊に『彼』らはいる。
では、その下は?
『彼』の眼下には、懐かしい光景が広がっていた。
死。多数の死。剣がかち合う音と、己が恐怖を殺し突貫する戦士の雄叫び。馬の嘶き。戦場を総嘗めする
斬られ、貫かれ、撃たれる者たち。天に命を乞う人々の悲鳴。血と硝煙が混ぜ合った魔境。
戦場。
小さな地獄。血生臭い命のやり取りが、『彼』の前に再び現れる。
見慣れた凄惨。嗅ぎ慣れた血の匂い。『彼』がかつていた居場所。
違うのは。
戦装束と全く異とする衣を纏った数人が、杖を構え何かを唱えていることだった。
杖先が輝く。雷と共に生じるのは、浮遊する岩石の砲丸。
振り下ろされる杖。呼応するかのように、岩の塊が城砦に放たれた。
『身を低くしろ、巻き添えを喰らうな!』
轟音と共に震動する回廊。誰もが身近なものに縋りつき、身を低くする。
中腰で事態を見渡す『彼』は、眼下ではなく頭上に視線を移した。
「莫迦な……」
瞳で視た瞬間、言葉を失う。
そこには。
夜を飛ぶ、翼を持った伝説がいた。
二つの足、二つの翼。
硬い鱗に囲われ、何より口から炎を出す黒い生き物。『彼』がよく知る幻想の怪物。
ある騎士団が模った勇敢さと恐怖を表す
竜。
巨大な竜が、月下の戦場を旋回している。
『ドラゴンだと!? 砲兵は何をしている!』
『砲兵隊、敵方の攻撃により潰滅! 火砲も使い物になりません!』
『おのれ公国め、涜神の徒めが!』
悪罵……きっとそうなのだろう……を吐く合間にも攻勢は止まらない。
『通せ、道を開けろ! 急ぎ皇帝陛下へ────』
言葉が最後まで放たれることはなかった。
突如として目の前が爆ぜ、悲鳴が奏でられる。石の砲丸が間近で着弾したのだ。回廊の側面が爆ぜ、土埃が舞う。
戦士たちが声を上げる。悲痛と痛罵を喉が裂く勢いで叫ぶ。
先導していた男は、運悪く直撃し絶命していた。
石の破片が横腹に刺さった戦士が、赤子のように喚く。
血を吐き出す今際の際の男が、どこかに手を伸ばす。
「ああ」
そして。
「全く、勿体ないことをする」
それらを収める『彼』は、笑みを浮かべ、卑しく喉を掻き鳴らす。
刹那。
『鎮まれ』
混乱極まる場を収めたのは、一つの声だった。
土煙の中から、雄大な影が現れる。
巨大。そう思わざるを得ないほどの巨躯の影が、煙の中から来る。
ざわめきが止んだ。海の小波が無くなったに
『陛下』
『キュルシャト、様』
『皇帝陛下』
『偉大なる王。我らの羊飼い』
生き残った戦士が、片膝を折る。左の掌に右拳を合わせ深々と頭を下げる。
平伏するように。畏怖し、信仰するように。
いや、まさしく信仰なのだろう。
煙を踏み潰し、『彼』の前に佇むのは、一人の王なのだから。
齢五十手前だろうか。濃い赤髭を蓄えた大男。
弱さがない。
まさに立つべくして立った王だと、『彼』は感じ取った。あるはずもない寒気が生じるほどに。
『戦士たちよ』
王は言う。戦場の最中で静かに、けれどどの音よりも重く、弔いの言葉を。
『安らかに眠れ。神の下で、再び見える時まで』
静かに目を閉じ、息を吐く。王の背後から戦士たちが死した戦友たちを担いでいく。
戦地から死者が遠ざかる。その最中で。
王と、『彼』は対峙する。
「おまえの」
瞬間、『彼』は「なに」と口にしていた。耳を尖らせ、用心深く彼を見据える。
純粋な驚愕が警戒を生む。予想もしていないことだった。
言葉が分かる。自分が慣れ親しんだ言語で、王は話す。
「おまえの言葉は、理解できる。学んだのだ。おまえの世界を」
異邦者、と『彼』は繰り返す。
「おまえは異なる世界から来たのだ。こことは違う、けれど確かに存在する場所から」
異なる世界、と『彼』は反芻する。
「そうだ異邦者。おまえを喚んだ。戦わせ、殺し合せ、死なせるために。王朝の礎となるために。おまえを喚んだのはこの
王……キュルシャトは続ける。
「おまえは犬だ異邦者。肉を喰らうために繋がれた卑しい犬だ。後にも先にも道はない。ならば予に従うより道はない」
傲慢、けれど威厳を伴った言葉。
「おまえは武器だ。敵を殺せ。戦地を駆く鬼となれ」
沈黙が、流れる。
キュルシャトは答えを待ち、戦士たちは唾を静かに嚥下する。重圧な空気が彼らを包み込む。
唯一、『彼』だけは重苦しさの埒外にいた。
何せ『彼』は、キュルシャトの言葉なぞ聞いていないのだから。
彼が聞いていたのは、記憶の中の
頭の中で楽しげに話す彼女が言っていた絵本の物語。
少女が穴の中に入ると、そこには自分のいる国とは全く違う不思議の国が広がっていた、と。
不思議の国。異なる世界。
異世界。
「ふ、ははは」
『彼』以外の全員が、顔を顰めた。
嗄れた笑い声が、喉の奥から漏れ出す。
可笑しくて可笑しくてたまらない。全く自分は何をしているんだ。
戦い、奪い、死んだ怪物。それが穴に落ちて違う世界に来たという。
これを笑わずしてなんだ。喜劇に立たされた自分はなんだ。とんだ三流の筋書きだ。
背後で槍を構える戦士たちの顔が恐怖に歪む。
胸を抑え、笑いを堪えるように背中を曲げ影に跪く『彼』。
笑わずにはいられない。
再び舞台に上がれたことを喜ばない、役者がいるだろうか。
「気でも触れたか」
王の問いに『彼』は笑うのを止め、首を振るう。
「違う違う。ようやく口をきけると思えば誰だって嬉しくなる」
立ち上がり、再び王と対峙する『彼』。
「素晴らしいほど正気だ。狂おしいほどに」
「──ならばこれ以上は無用だ。為すべきことを為せ、異邦者」
「為すべきこと? それは
喉を鳴らす音が、沈黙の夜に流れる。
「お断りだ」
刹那、鳴り響いた音と共に『彼』は身動きが取れなくなった。
重厚な切先が目の前に静止する。斧槍を構えたキュルシャトが即座に『彼』へと突きつけたのだ。同時に戦士たちもまた、『彼』に矛槍を向けた。
幾多もの槍が『彼』を反射させる。正面、背後から突きつけられる死の矛。
『彼』の表情は変わらない。笑みを浮かべたまま、眉根を寄せるキュルシャトを見つめ続ける。
「選ぶ由は無い、と言ったぞ」
「お互いにだろう皇帝。行けども引けども道がないのはおまえもだ」
視線をキュルシャトから端へと下ろす。城壁の下から広がる、壮大な戦禍に。
「兵を率いた身だ。戦いの行く末はよく分かる。負けだ。このままでは負け戦だ。遮二無二に突撃しようと籠城しようとこの砦は落ちる」
だから私を喚んだのだろう、と彼は付け足す。
乱れた魔法陣。『彼』と牢屋で対した戦士たちの反応。
それを視認すれば大方『彼』の召喚が本来想定していなかったものと推測できる。
不測によって引き起こされた、苦肉の策。
「行く末は地の獄。しかし私が手を貸す理由にはならない」
広がる惨状を目したら、思案から確信へと変わる。
「ここがどうなろうと関係ない。打開に一手投じるのは良いが、相手を定めねばな。特にこのような局面では」
「与するつもりは無いと?」
「狼に噛まれる羊飼いを誰が好む。覚えておくがいい。勝負とは、切札に嫌われたものから敗北するのだ」
「……そうか」
静かに重い口を開き、短く言った。
「ならば無用。異郷の地で屍を晒せ」
異国の言葉が聞こえ、背後で雄叫びが迫る。
男たちの蛮声と共に、煌めく穂先が『彼』の肉を抉ろうと放たれる。
「言ったぞ」
『彼』は後ろを振り向かず、哀れな戦士たちへと答えた。
「二度目は許さない」
刹那。
戦士たちの声が、雄叫びから悲鳴へと変わった。
彼らは何が起こったか、そして今、自分に何が起きているのか分からないだろう。
襲来する死のほかに、彼らが理解できるものはない。
キュルシャトが初めて表情を崩す。目を見開き、
黒い森が広がる。
地面から生える、無数の槍。
空を劈かんと聳える槍の先端から、落ちる。
呻きが、ずるずると落ちる。
痛苦の叫びを上げる戦士たちが、自分を貫く槍の柄を血染める。
鮮血が降る。赤黒い飛沫が、絶叫と共に槍を濡らす。
哀れな獣が鳴く、串刺しの森。
キュルシャトの目には、それが墓標のようにも見えた。
「──何故だ、これはあれと同じ──」
「どれを言っているかは分からぬが」
老いた手が、落ちた戦士の槍を掴む。中途半端な柄を握り、片手で構えをとった。
研ぎれの悪い矛先が、今度は皇帝へと向けられる。
遠くで戦争の音がする。炙られた人の臭いが漂う。
ここに音はない。先程まで聞こえていた多くの声も、何一つ。
「
腕を引く。弓の弦を絞るかのように限界まで後ろに振り絞る。
それにキュルシャトは眼を細め、斧槍を両手で握り低く構える。
「愚昧──王の道に、敗北は無し」
キュルシャトは咆哮し、狼狽えを消し去った。下から潜り抜けるように刺撃を放つ。
『彼』の絞った腕が放たれたのも、同時だった。
二つの矛が交錯する。一方は戦士の王の顳顬に、一方は歓喜する翁の胸元へ迫った。
刹那。
『お父様!』
たった一つの、震える少女の声がした。
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