天色の花咲く夜明けにいつか届く音
美澄雪音
第1話 寂寞の日々
あの日見た人は誰だったのだろうか。凛とした鈴の音。カランコロンと鳴る下駄の音。澄みきった空気の中、薄明の空に広がる天色の花畑はどこまでも美しく、まるで夢の中の光景だった。
雨粒が窓を濡らす冷たい午後、僕はいつものように部屋に籠り外をぼんやりと眺めていた。今日も天気は酷く悪い。モノクロで統一された無機質な部屋は、最低限の家具が配置されているだけでまるでモデルルームのようだ。けれどその冷たい空気は、僕の心までも凍えさせていた。
僕は
幼い頃父を病でなくし、その後を追う様に母も他界。母は僕を育てるために朝から晩まで働き続け、ついには自らの命を削ることになった。そんな母の献身に支えられた日々を思い出すと、心の奥がちくりと痛む。一人で子供を育てるのはどれほど大変だっただろう。そんな母を気遣い、手を差し伸べてくれる隣人たちがいた。彼らの優しさに支えられた日々は、確かに幸せだった。だが、両親を相次いで失い身寄りのない僕は行き場をなくし、半ば押し込まれるような形で今の家に引き取られることになった。
養い親たちは、一見するとどこにでもいる優しい夫婦のように見える。兄がいる前では僕にも笑顔を向け、親らしい態度を取ってくれる。けれど、それは兄という観客のいる舞台での演技に過ぎなかった。観客のいない舞台では演技をする必要もないのだろう。僕一人になると態度は一変し、冷たい言葉や無関心な仕草に置き換わる。
そんな日々が続く中、兄は大学進学を機に家を離れ、一人暮らしを始めた。兄がいなくなったことで、僕への扱いはさらに冷酷なものへと変わった。必要最低限の食事だけ与えられ、存在を無視されるような日々が当たり前になっていった。それでも、この家を出るために僕は耐え続けるしかなかった。食事は一日一回。硬くなった賞味期限切れのパンや、冷めきったスープなどを貰って毎日を過ごす。まだ食事を与えられているだけマシかもしれない。ご飯を食べてもどうしてもお腹が空いてしまったときは、外に生えている食べれる草を千切り生き永らえてきた。主に公園や空き地に生えていたカラスノエンドウや、タンポポ、湿地に生えるギシギシなどを食べている。筑紫が生える季節には、沢山収穫できるので袋一杯に詰め込んで持って帰ったものだ。こういった食べ物が無いときは、どうしようもない空腹を抱えながら時が過ぎるのをただひたすらに待つ。ほんの少しの時間でも永遠のように感じた。
何度も生きるのをやめたいと思った。それでも生き続けることをえらんだのは、あの日の記憶が僕を支えているからだ。夢の中で繰り返し現れる天色の花畑と、その朧げな人影。顔は見えないけれど、不思議とその存在だけで心が落ち着く。「生きろ」と言われているような気がして、僕は今日もこうして息をする。
けれど、現実は冷酷だ。誰も僕の言うことに耳を傾けない。僕を愛してくれる人もいない。そんな日々に僕の心は耐え切れず、ピシリと罅が入るように軋むばかりだ。いつからか誰にも本心を告げず、心の奥底に固く閉じ込めるようになった。その上から幾重にも鎖を巻き付け、もう誰にも触れられないようにした。人を信じては裏切られ、自分が辛くなるだけだと分かっている。それでも、心の何処かで人を信じることをやめられない。いつかこの音が誰かに届くように――僕はその願いを胸に秘めながら生きている。
「母さん、父さんおはよう。」
この挨拶は僕の日課だ。毎朝、両親の遺影に向かって挨拶することから一日が始まる。今の家族――僕を引き取った養い親達とは、全くと言っていいほど言葉を交わさない。物音を立てないように素早く一階へ降り、家を出ることが習慣になった。それが波風を立てずに日々をやり過ごす唯一の方法だからだ。けれど、そんな日も今日で終わる。
今年の春から僕は高校生になる。今まで正直生きた心地がしない日々を送っていたが、高校は自宅から離れた場所の進学校に通えることになった。この学校の偏差値は当時の自分の偏差値よりも高く、一人での受験勉強は大変だった。中学の担任にも「お前には無理だ。もっと偏差値の低い家から近い学校にした方が良い。」。だが、どんなに反対されようとも第一志望の学校を変えるつもりは無かった。受験勉強をする上で、大抵の人は塾に通わせてもらい受験対策をするだろう。だが、両親は自身のために塾に通わせてくれる訳でもない。そんな僕は一日でも早く家から離れるために、毎と冷たく諭されたが、それでも目指す学校を変えなかった。その努力が実ってか、第一志望の学校に通えることになる。合格発表の際、掲示板に自分の番号を見つけ、胸が高鳴った。嬉しかった。ただそれ以上に安堵の方が上回る。これでこの家を離れることが出来るんだ。新しい環境でやり直せる。そう思うと涙が出そうになった。
僕が行く学校には、遠い場所から通う者のために寮がある。家から学校は遠く離れているため、寮で新生活を始めることになった。そのため、今は荷造りをしている。もっとも、僕の荷物は殆ど無い。数枚の服と、一着の上着。使い古された靴は雨の日になると水が染み込むほど擦り切れているが、新しい靴を買う余裕はない。数少ない衣類や小物などを詰めると、ダンボール二つほどで片付いてしまった。少ない荷物で済むのは楽と言えば楽だが、何とも言えない気持ちが胸をよぎる。最後に両親の遺影をそっと鞄に入れる。他の荷物と一緒に詰めるのは嫌だったので、遺影だけは丁寧に別の袋に包む。これだけは、僕がこの家を出ていくうえで手放したくない大切なものだった。
春から始まる高校生活。期待と不安が綯い交ぜになった気持ちを抱えながら、僕は荷造りを終えた部屋で深く息をついた。今までの日々を振り返りながら、心の中でそっと呟く。
「ありがとう。そして、さようなら。」
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