第36話 理香の断片




         ***




 彼を初めて見たとき、そこまで目立って見えたわけじゃない。私が勤めてきたパン屋の昼下がり、その瞬間が訪れた。パンをなんとなくで選びそうな眼、それに反するようにキッチリとした服装。無造作にセットされた髪。大人びた顔。学生割引を使うまで歳上だと思っていた。そんな彼との初めての会話を、今でも覚えている。


彼は言った。初めて来たのに懐かしい雰囲気がする、と。私はその一言で、なんだか彼に共感してしまった。私も、大学進学のためにここに来たときこのパン屋に入って同じことを思った。ということはきっと、この青森のどこかに想うものがあるのだろう。私は彼が気になった。


…………


 彼はやがて、パン屋の常連になった。大学の講義終わりや休日の朝によくやってきた。私のことは従業員の1人としか認識していないだろうけれど、私は彼の言動、目線に心を揺さぶられた。


ずっと前から書き続けている小説でも彼の影響が顕著に出ていた。イメージが脳裏にこびり付いているのだ。ここまで自身の心がグラつくのは初めてだった。どうしてここまで……と考えてはいたが、答えなど出るはずもない。


 しかしある日、パンの受け渡しの時に手が触れ合った時――私は気づいてしまったのだ。自身の惹かれ具合に。触れ合った時、私は平然としていただろうが、心臓はドクンドクンと、まるで漫画やアニメみたいに脈打っていた。彼はなんでもなさそうにしていた。それもそうだろう、ただのパンの受け渡しだ。


でも私はそれから、自身の気持ちを言語化してしまっていた。どうにかして話しかけたい、関係を築きたいと思ってみても、なかなか行動には移せなかった。なにせ私は歳上の、パン屋に勤めて夢を追い続ける、側から見ればイタい大人なのだ。


どうにかして話しかけよう。名前を覚えてもらおう。そう考えるだけで、日々は過ぎ去っていった。


…………


 私は運命だと思った。


 想い出の地であり、私の心の拠り所である蓬田村や外ヶ浜町に存在する駅に、彼が居たのだ。雨宿りで入った瀬辺地駅の小さな駅舎に座っていたときに彼が入ってきたのだ。心臓が止まるかと思った。しかしそれより、なぜ彼がここに居るのか気になった。


彼ははぐらかし誤魔化したが、私の目に狂いはない。だてに小説を書いていない。心情理解は現実でも得意なのだ。きっと彼には何かある、そう思いつつ、とりあえず名前を聞いた。彼は黒田 智樹くんと言った。私も名前を告げた。青野 理香、と。


 しかし私はそれが限界だった。慣れない煙草をあたかも吸えるように吸ったのも、連絡先を聞かずにお別れをしてしまったのも、全ては私が弱いからだ。


…………


 また彼がいた。私は智樹くん、と呼んだ。一緒に海を見たり、蟹田駅まで散歩にいったりした。そこで私たちは互いに、この場所がどんなものであるかを話した。私は初めて、自分の父親や祖父のことを話したと思う。智樹くんが話したのは、ある女の子との想い出だった。あれも、初めて話してくれたのかな?


緊張は一回目の時よりも薄れていたが、それでも連絡先を交換はできなかった。心臓が持たなかった。それに、散歩をしているとき、それとなく身元を聞かれた。私も聞いたのだから聞かれるのは当然だが……小説を書いていると言って、ずっとパン屋にいると言って、私はどう思われるだろう。


そんな、どうしようもないことを考えてしまう自分が嫌いだった。


…………


 智樹くんがバイトとして、私が勤めているパン屋に来た。当初彼には驚かれたが、私からすれば当たり前のことだ。むしろ、ここで働いていることに気づかれなかったことが、少し辛かった。もちろん、覚えている方が特殊だとは分かっている。だから何も、言わなかった。


 帰り道、彼に小説を書いていることを告げた。私は彼のことが好き、と言う気持ちより、どう思われるかの方が気が気でならなかった。しかし、彼はこれまで会ってきた人々と違った。それが、嬉しかった。舞い上がった勢いで原稿も渡してしまった。


どんな感想が来るか……。ずっと興奮して、悶えていた。しかし返ってきたのはかなり辛辣なもので、心をバキバキに折られた。しかしそこで決心が出来た。




 ――彼に、小説を見てもらいたい。そうして、関係も――。




…………


 彼と、恋人になった。小説も順調。私は人生で初めて、生きていて良かったのだと思った。これを幸せと呼ぶにはきっと足りない。そう思えることに、少し酔っているのかとも思ったが……とにかく、幸福と呼べた。彼もそれを思ってくれたら、とも思っていたがきっと難しい。


彼は時折、瀬辺地の方角を向きながら私では理解することすら出来ない孤独を瞳に宿していた。それはどんな時も、彼のそばにいた。つけ入る隙なんて、なかった。


…………


 今までの想い出が、流れる。


私の愛しさも。


彼の寂しさも。




「まだっ……まだなのっ……わたしは……」




 もう戻れはしない。だから……だから、少しでも彼といた物語を綴るの。やる気なんてない、書く気なんて起きやしない。それでも……綴るの、紡ぐの。それが証明してくれる。私たちの軌跡を。とにかく残すの。


 ……ひたすらに画面に向かう。煌々と付くパコソンにずっとずっと、喰らいつく。そうすることでしか、私は生きられないから。




「智樹くん……っ」




 その一言だけ。ずっと握りしめて私は、夜を越えた。

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