第2話

ブルース川上 ―最期の試合


その日、会場はいつもより熱気を帯びていた。

川上健司――通称「ブルース川上」。

派手なファイトスタイルでも、圧倒的なタイトルホルダーでもない。

ただ、どんなに打たれても前に出るその姿勢と、観客を楽しませようとする“サービス精神”で、地元では根強い人気を誇っていた。


「今日の相手は勢いがある新人ですよ。」

控え室でセコンドにつく後輩が言う。

健司は肩を回しながら笑った。


「強い後輩は歓迎だよ。俺もそろそろベテラン扱いだしな。」


それを聞いてトレーナーは苦笑する。

「でも、無茶はするなよ。」

「無茶?俺が?」

と、健司が笑って見せたその目の奥に、どこか決意のような光が宿っていた。


あと少しで父親になるんだ。

負けられない。けれど、勝ち負けよりも、今日も最後まで立って観客を沸かせたい。


ゴングが鳴った。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


序盤、試合は健司のペースだった。

距離を詰め、独特のインファイトでショートアッパーを打ち込み、後輩の選手は何度もバランスを崩す。


実況も盛り上がる。


「ブルース川上、今日はキレが違います!」

「ショートでこれだけ重いのは天性ですね!」


相手の若い選手も食い下がるが、プロの経験値が違った。


二ラウンド終了時には、完全に健司の流れだった。


しかし、相手のセコンドの声が聞こえてくる。


「このままだと判定負けだぞ!お前はやれる!前に出ろ!」


若い選手の目に火がついた。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


運命の四ラウンド目。

健司は勝負を決めにいくように前に出た。


――そこに。


相手選手が、後ろに体重を残したまま、半ばやけくそで振り抜いた右ストレート。

体重移動もフォームもめちゃくちゃだ。

しかし、その“めちゃくちゃ”が逆に読めず、予想外の角度で健司の顎を捉えた。


「ッ……!」


健司の身体が大きくのけぞり、ロープに叩きつけられる。


観客の歓声は、一瞬の静寂に変わった。


相手も驚いていた。

当たるつもりじゃなかった。

ただ、負けたくなくて、全力で手を伸ばしただけだった――


健司は立ち上がろうとした。

立とうと――した。

しかし足が言うことをきかない。


レフェリーがカウントを続ける中、健司の意識はゆっくりと薄れていった。



まだ、お腹の中の子に、会えてないのになぁ……。

あぁ……やっちゃったな……。ごめん


思い浮かんだのは、妻の笑顔だった。


テンカウントが鳴った。



会場は騒然とし、担架が運ばれた。

相手選手は泣きながら健司の前に膝をつき、


「ごめんなさい……ごめんなさい……」

と震える声で繰り返した。


誰も責めはしなかった。

事故だった。

それが全員に分かっていた。


だが、そこにいた誰よりも、相手の選手がもっとも深く自分を責めていた。


救急車が走る中、トレーナーは健司の手を握りしめ、


「おい、健司!おい……!」


と呼び続けた。


健司の目が再び開くことはなかった。


しかし、彼の目には成長した娘が子供を庇って刺され、母親や夫らしき男性に手当てを受けている場面が浮かんでいた。


彼が頭の中で自分と同じような境遇を娘に与える運命に文句を言うと、


「君の願いは叶えるよ。但し・・・、」


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


後日、相手選手はボクシング協会に申し出た。


「僕はもう、選手としてリングに立つことはできないと思います。でも、選手の安全のためにボクシングに携わる事を許して下さい。お願いします!」


そう言って、会長に頭を下げて願いでた。


それが、後に“育成指導の改革者”と呼ばれることになる男の始まりだった。


そして――

その日からずっと、彼は命日に川上家の仏壇に頭を下げ続けることになる。


「あなたの旦那さんを守れなかった。でも、あなたの娘さんは必ず守る」

という、誰にも言わない誓いを胸に抱えながら。

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