7 武者小路理子
顔合わせが終わり二人が去ったところで、沢渡が尋ねてくる。
「タケルくん、今日は少し残っていただきたいとお話ししましたが、予定は大丈夫かな?」
「あ、はい。問題ありません」
ヴィランチームの紅一点をやれと言われたら、普通の男だったら断る案件だろう。だが、タケルには『雷神』の正体を掴み復讐するという目的がある。感情任せに無下に断り、絶好の機会をむざむざ逃す訳にはいかなかった。
正直全くひと言も聞いていない女装は十分パワハラに相当すると思ったが、上司の沢渡以外に訴える先をタケルは知らない。本来新入社員が受けるべきオリエンテーションも、準備があるからと後回しにされている状態だ。
沢渡の言う準備とは、勿論脱毛のことだった。滅茶苦茶にもほどがある。だからといってヴィラン課の存在自体が最高機密とされている以上、一構成員が下手に騒ぐ訳にもいかない。
パワハラの内容を訴えたところで、君の部署は一体何の営業をしているのかと信じてもらえず笑われるだけな気しかしなかった。
ならば、腹を括るしか道は残されていない。もうこうなったら、とことん美女を目指してやろうじゃないか。
タケルの覚悟を感じたのか、沢渡は満足そうに頷く。
「実は、社内の者に協力を求めました。名目は、次回のワークショップで行うコスプレ要員です。丁度女性用カミソリの新商品が発売になるので、いい口実があってよかった」
沢渡が一体何を言っているのか相変わらずさっぱり分からなかったが、もうなるようになれだ。小事に気を取られてはならない。無言で頷くと、沢渡の次の言葉を待った。
「くれぐれも、ヴィラン課に関わることは口外しないように」
「分かりました!」
「では内線で呼びますので、待っていて下さい」
沢渡の敬語混じりの不思議な喋り方にも、大分慣れた。沢渡は満足げに頷くと、自分の個室へと向かう。どこかに内線電話を掛けている様子が硝子窓越しに見えた。沢渡はピシッと姿勢を伸ばし一度も崩さないまま電話を切る。
なるほど、別に会釈は必ずしも必要な訳ではないらしい。
「お待たせ致しました。すぐにいらっしゃるそうですから」
「はあ」
一体誰がとか、これから何をするのかとかいう説明が相変わらず一切ない。この人は、これまでもずっとこのように仕事をしてきたのか。
石橋を叩いて渡る気遣いの人であった父とは正反対だった。
新規事業開発統括本部は、両極端な二人がいて上手く回っていたのかもな、とふと思った。それはまるで光と影のように。ヒーローとヴィランの存在のように。
つらつらとそんな抽象的なことを考えていると、来客を知らせるチャイムが鳴った。沢渡が入口に向かい応対する。誰かなと思って沢渡の後ろから歩いてくる人物を見たタケルは、飛び上がりそうになった。
「え!? なんで!?」
沢渡の後ろから大きな箱をぶら下げ歩いてきたのは、受付の真ん中の正統派美人だったのだ。
◇
「では、あとは若い二人で」
絶対このタイミングで出すべきではないであろう台詞を残し、仕事があるからと沢渡は自分の個室に戻って行った。
タケルと正統派美人は向かい合わせにソファーに座ると、暫し無言になる。一体何をどう切り出せばいいのか、そもそも何をするのかも聞いていない。
致し方ない。素直に尋ねることにした。
「あ、あの! 今から一体何をするんでしょう!?」
すると、一瞬目が点になった正統派美人が、可笑しそうに手を口に添えながら吹き出す。
「ぶ……ふふふふっ」
「え、えへへ」
どうもこの人は、タケルの一挙手一投足が面白く感じるらしい。この場合明らかに笑われているのはタケルの言動に対してなので、本来であればあまり嬉しいものではない。
だが、それでも別にいいかと思わせてしまう威力のある笑顔だった。
やはりこの人は――いい。沢渡がどういった目的でこの人を選んだかは知らないが、折角お近づきになる機会を与えられたのだ。ここは是非とも好印象を持ってもらいたかった。
「す、すみません! 沢渡さん、いつも説明してくれないから」
「そうみたいね。ああおかしい、うふふふ」
正統派美人は実に美しく笑った。笑いの波が暫くして引いた後、正統派美人は名刺をくれた。
総務部の武者小路理子と書いてある。
「ムシャ……?」
「ムシャノコウジリコです。強そうでしょ? でもちょっと武者小路さんって呼ばれるのは抵抗あるから、理子って呼んで下さい」
「あ、はい、理子さん。よろしくお願いします」
いきなりの名前呼びに、胸が高鳴る。これは初っ端からかなりの急接近だ。ここは是非、タケルの名前も呼んでもらいたい。
「あ、僕、まだ名刺がないんですけど、田中武です! 沢渡さんはタケルくんと呼んでいるので、それでお願いします!」
沢渡を思い切り口実にしてしまったが、これまで散々振り回されたのだ。これくらいは許してもらいたい。
「タケルくんね、よろしく」
理子は楽しそうに笑いながら、大きな取っ手付きの黒い革製の箱を華奢な膝の上に乗せる。何だろうと見守っていると、箱を開けて中身をテーブルの上に並べ出した。
「あの……?」
何か分からないチューブに、色とりどりの粉っぽい何かがずらりと並ぶ。これはもしや、……化粧品か。
理子は立ち上がると、タケルの隣に来て座った。ふわりと甘い香りがして、思わず鼻孔が広がる。いや、広がっている場合ではない。
考えてみれば女装にコスプレときたら、当然のことだった。だが、これまでそんな機会など一度もなかったタケルは、間抜けにもこの瞬間まで気付かなかったのだ。
暑くもないのに、汗が背筋を伝う。
「お肌綺麗ねえ。羨ましい。これならファンデーションはBBクリームをさっと塗ればいいかな。簡単な方が自分でもやりやすいでしょ?」
「え、あ、あの……」
「私に任せて! タケルくんに似合う完璧且つ時短メイクを伝授してあげるから!」
素直にお願いしますと言えばいいのか。だが、いいなと思っていた女性にメイクを教わるなど、男としてどうだろう。
タケルが心の中で葛藤を繰り返していると、理子が安心させるような柔らかい笑みを浮かべた。
「大丈夫。私、美容部員をやっていたこともあるから。その経歴を沢渡さんに買われたから、大船に乗ったつもりでどんと構えていて」
「……はい……よろしくお願いします……」
嬉々として言われてしまい、もう理子に身を委ねるしかなくなってしまった。
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