第17話 オスクネスケイブ夜想曲
ベル歴995年、水の月9日。王族配信14日前、早朝。
ホテル「デア・モントシャイン」の一室。
レオはベッドに腰掛け、静かにノワルからの念話を待っていた。ノワルはすでに夜明け前に、聖域の入り口へ向かっている。
聖域とは、各属性を司る八大聖霊の各々が、自身の特色を反映させて創り上げた独自の空間である。
ここ、アイゼン王国に存在する聖域は、闇の大聖霊オスクネスが創り出した「オスクネスケイブ」だ。
更に、この闇属性の聖域「オスクネスケイブ」を護るのは、聖霊王ベル・ラシルが手掛けた厳重な複合結界砦、即ち〝
上空から見下ろした姿を例えるなら「
最も外側は
その構造は、統一された設計を持ちながらも各聖域の特色を反映させており、この闇の聖域では深遠な暗闇の防御特性を持つ。
中心の聖域に辿り着くには、位置をずらして設置された五つの門を通過する必要がある。さらに、ノワルが向かった第五門の先にある聖域そのものも、幻影を付与した結界に包まれており、〝持たざる者〟は容易に足を踏み入れることができない。
だがレオは、ノワルの聖猫としての資格と、レオと聖猫との間でのみ使用可能となった新しい能力。そして箱庭を使った移動能力によって、この複雑な門や結界を無視し、直接目的の場所に移動する手筈になっている。
やがて、陽が世界に夜明けを告げようかという、その時だった。
レオの頭の中に、ノワルの声が直接響く。
〘レオ様、準備が整いました。聖域の入り口に到着いたしましたので、いつでもご案内できます〙
ノワルの声は、いつもと変わらぬ落ち着きを保っていた。レオは軽く、よし、と頷くと、静かにベッドから立ち上がる。動きやすい服に着替え、腰の剣を確認した。
レオは時空属性の収納魔法である≪クロノボックス≫から【ベルコネクト】を取り出すと、目の前の空間に翳した。
すると、薄い光の膜が広がり、やがて目の前にみすぼらしくはない程度の、質素なドアが顕現する。
ドアを開け、一歩足を踏み入れると、そこは、静寂に包まれた箱庭の屋敷の地下室。地下特有の湿気はあるものの、ひんやりとした印象はない。壁際には、かつてショウが使っていたものや、数は少ないがレオが新たに作った魔道具、あるいはその試作品が整然と並べられた棚が置かれていた。
「さて、と」
レオは周囲を見渡すことなく、目の前のドアノブに手をかけた。ノワルとの視覚共有を指定し、聖域の入り口の情報をマナにのせて、ドアノブをゆっくりと回す。すると、周囲の空間が歪み始めたような感覚に襲われた。まるで水中にいるかのように、意識が揺らぐ。
ドアを再び開けた次の瞬間、視界が晴れると、レオの目の前に広がっていたのは、先ほどまでいたホテルの部屋とは全く異なる光景だった。
そこは、息をのむような荘厳な空間だった。巨大な石柱が天高くそびえ立ち、その表面には古びた文字や紋様が刻まれている。足元はひんやりとした石畳で、わずかに湿った空気が漂っていた。頭上には、遠く、ぼんやりとした光が差し込んでおり、それがこの広大な空間をわずかに照らしている。
「ここが……聖域の入り口か」
レオは思わず呟いた。その声は、静謐な空間に吸い込まれるように響いた。隣には、猫の姿のままのノワルが立っている。ノワルの瞳は、この場所の全てを知っているかのように落ち着いていた。
「はい、レオ様。ここは闇の大聖霊オスクネス様の聖域、〝オスクネスケイブ〟の入り口でございます」
ノワルは静かに答えた。彼の瞳は、この場所の全てを知っているかのように落ち着いていた。
「ちなみに、許可を持たぬ者には、この入り口はただの洞窟に見えるかと存じます。黒曜石のような岩肌が垂直に切り立つ断崖にぽっかりと開いた、何の変哲もない洞窟に」
ノワルの言葉に、レオは改めて周囲を見渡した。彼には今、この場所がただの洞窟ではないと、はっきりと理解できていた。
「なるほ――」
その言葉が終わるか終わらないかの瞬間だった。
空間にひびが入るように、あるいは空気そのものが凝縮するように、音もなく巨大な存在が姿を現した。
漆黒の体躯を持つ巨大な蜘蛛。八つの宝石のような瞳が、昏い光を湛えてレオたちを見下ろしている。
大聖獣アラウネ・ソンブルが、そこにいた。
威圧感とも形容しがたい、強大な存在感がレオの全身を押し潰す。予期せぬ出現に、レオは反射的に腰の剣に手をかけた。
「カドリー様でいらっしゃいますね?」
レオが最大限の敬意を込めて問いかけると、巨大な蜘蛛の体から、見た目に反して、幼い少女のような声が、まるで周囲の空気を震わせるように響いた。
「ヒサシブりだね、ショウ。イマはレオ君、って呼ぶべきカナ?」
カドリーの声には、深い知識と長い時を生きてきた存在の重みが感じられる。その言葉は、レオがショウの記憶を持つことを完全に理解していることを示していた。
「レオ、で結構です、カドリー様」
レオは再び、畏敬の念を込めてカドリーを呼ぶ。カドリーの巨大な体がわずかに揺れたように見えた。
「ヤメテヨネ、レオ。キミはショウの生まれ変ワリだろ。以前ノようにカドリーと呼びナヨ」
その言葉は、見た目に反して親しみを込めて響く。レオは苦笑しながら、しかしその言葉を受け入れた。
「……分かったよ、カドリー」
レオは、自身の内に宿るショウの記憶が、この場所でどのように作用するのかを改めて実感する。形式的な挨拶や説明は不要。カドリーは、レオの全てを理解している。だからこそ、レオは本題に入った。
「実はお願いがあるんだ」
「お願イ?」
「君の分身を貸してくれないか?」
レオの突然の願いに、カドリーの巨大な頭部がわずかに傾げられたように見えた。
しかし、ショウの記憶を宿すレオの真剣な瞳を見つめると、すぐにその意図を察したようだ。
「分身カイ?フフフ、面白いコトを言うね、レオ」
カドリーの体から一筋の輝く光が放たれた。
光が収まると、そこには元のカドリーよりはるかに小さく、両手に乗せられる程度の縫いぐるみのようなアラウネ・ソンブルの姿をした分身が浮かび上がっていた。
「この子はワタシの分身、キュート。ワタシの意識のイチブが宿っているから、レオの求める〝ナニカ〟に役立つだろう。聖域の外でも、ワタシの目となり耳となるハズだしネ」
カドリーはそう言って、キュートをレオの前に差し出した。
キュートは、レオの問いに答えを求めるかのように静かに佇んでいる。レオはカドリーの信頼と協力に感謝し、その小さな分身をそっと受け取った。
「よろしくな、キュート」
レオが優しく声をかけると、ぬいぐるみの様な小さな蜘蛛、キュートは「よろしくッチュ」とかわいらしく身振り脚ぶりをしながら返事をし、レオの頭に飛び乗った。
レオが改めてカドリーに視線を向ける。
「カドリー、訊きたいことがあるんだが」
「ナンだイ?」
「虚飾のマタド・ク・シアが収監されていた〝竜の喉〟はまだある?」
レオの言葉に、カドリーの八つの瞳が一瞬、同時に瞬いたように見えた。
「あるヨ。イマは魔獣の住処にナッテるだろうケド」
「ムゲンの牢獄は?」
「楔ヲ壊サレてはイルが、残ってイルヨ。アレを消滅させラレるのは〝オスク〟ダケだからネ。レオも知っテイルダロう?オスクがソレどころではナイって」
カドリーは言葉の端々に、現在の闇の大聖霊オスクネスが抱える問題を匂わせた。
「オスクネス様だけね。まあ、そうか、そうだよな」レオが納得したように頷く。
「ソレがドウしたの?」
「いや、まあ、調べたいことがあってね」
カドリーが前脚の一つを顎と思しき付近に当てる仕草をした。八つの瞳がレオの顔を興味深げに見つめている。
「ウーン。まあ、他でもないレオだカラ、イイカ」
まるで子供が秘密を打ち明けるように、カドリーは小さく頷いた。
「ん?」
「ウン。竜の喉まで送ッテアゲルよ」
レオは目を見開いた。ここから〝竜の喉〟までは、通常の手段では数日を要する距離だ。
「いいのか?」
「ウン。
カドリーの瞳が、いたずらっぽく細められた。
「接続紋か。だとしたらマタド・ク・シアが逃げたときに駆けつけることができなかったのはなぜ?」
レオの鋭い問いに、カドリーは少し気まずそうに前脚を動かした。
「痛イことを云うネエ。コレがワタシたちにも解らなカッタんだヨ。あの時は、接続紋が一時的に途切れてしまってネ。まさか〝虚飾〟がアソコから脱走するとは、夢にも思わなかったカラさ」
その言葉からは、カドリーですら理解しえなかった異常事態であったことがうかがえた。
「そっかあ。わかった。3年も経ってるけど、それも踏まえて調べてみたいから、送ってもらえる?」
「ウン、モチロンだよ。ワタシはコノ場を大きく離れられナイから、キュート、ヨロシクね」
「まかせろッチュ!」
キュートがレオの頭の上から敬礼するようにカドリーに応える。その小さな体が、ぴょこぴょこと動いた。
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