第八話 あかるくてたのしいぼくのへや

 説明しよう。他人の命が手の中にあると自覚した時、人は誰でも怪物になれる。

「お前が母さんを壊したんだ」

「お前は人の人生を滅茶苦茶にする」

「もうお前は呪いの子なんだ。父さんの言うことをよく聞いて、もう母さんにはかかわらないでくれ」

 母がうつ病と診断された時、父はひどく悲しみ、怒っていた。虐待と言うのだろうか、毒親と言うのだろうか。定義の曖昧さゆえ、どちらもよくわからない。

 幼い頃から、両親はよく自分のことについて言い争っていた。何をさせるべきか、どこへ連れて行くべきか。とにかく意見が割れていたと、いつだったか父方の祖母から聞いた。

 ひとつの結論として、考えうる色々なことを経験させるという点で両親は合意したらしい。そしてその主導権は遠くの職場で働く父ではなく、近所でパート勤務のため時間に余裕のある母親に委ねられた。

 そうして始まったのは、親の色に塗りつぶされた吐き気がするほど色鮮やかな日々だった。手当たり次第に様々な塾に入門し、半年と待たず辞めさせられる。とにかく実績のほしい母は、この時かなり焦っていたのだと今になって思う。こうして、塾に友達を作る時間も学校のクラスメイトと放課後に遊ぶ余裕もなく、人格形成期というものはあっという間に過ぎていった。

 結果は、まあ学んだことは多かったが、それでも両親の望んだものではなかったらしい。テストでは常に平均を大きく上回る点数を出し、スポーツも芸術も、ほとんど基礎は身についた。しかしそれらはできて当然。99点を取れたのなら、なぜ100点を取れなかったか考えなさい。最初からプロになれとは言わないが、最初からプロになるつもりで頑張りなさい。周りなんか見てないで、自分を伸ばすことに時間を使いなさい。時間と共に肥大化していく期待に、先に壊れたのは母の方だった。

 子供の心というのは、親が思うより柔軟にできている。何せまだ決まった形を持っていないのだから。どんな劣悪な環境でも、それが世界のすべてだと信じ、適応してしまう。ゆえに、自分のゆがみに気付くのにはかなりの年数を要した。しかし大人は違う。多くの経験から未来を予測し、その成功や失敗からまた次の未来を予測する計算式を持っている。どうやら自分の残した結果は、両親にとって失敗の連続だったらしい。

 母が壊れたのは誰のせいかと聞かれたら、たぶん全員に責任がある。我が子の教育を丸投げした父、その期待と自らの願望を重ねて押し付けた母自身、それに応えられなかった自分。ついでに言うと、母を支えきれなかった周囲の大人たち。しかし、壊れた人形のようになってしまった母の代弁者を自称する父は、倒錯のあまりかその責任を我が子に押し付けた。

 思い返せば、父は昔から不器用な性格だった。家族に対して言葉選びを間違えることもよくあった。だから、人の発言から真意をくみ取る技術は父のおかげで伸びたと感謝している。それでも、その言葉だけは、まっすぐ心の奥底に突き刺さった。

 呪いの子、人を壊す人。それが自分。

 だから自分が本当に呪われたと気づいた時、最初に父を壊した。そこから先のことはあまり憶えていない。ただ優しい家族を求めて、楽しい友達を探して、なんとなくそれができた気がして、心が満たされていく感覚だけが自分を動かしていた。


 マンション1階、中庭に面したパーティールーム。那珂畑はゼツボーグの右手部分をドリル状に変形させ、ネガリアンの群衆を突破した。彼が当初想定していた長い得物ではなかったが、相手が密集しているこの状況に限っては、小さい武器の方が取り回しやすく、また実際にその効果はてきめんだった。

 そして群衆の向こう側、ひとりだけ様子の違う者がいる。

「子供……?」

 全身が白く変色しているため詳しくはわからないが、それは体の大きさからして小学校高学年、あるいは中学に入るかどうかといった年頃の男児だった。しかしそれでもおそらく彼がマンション本体。その証拠に、彼の下半身は欠陥や筋肉のようなものが粘土のように固まり、床に張り付くように固定されている。

 ネガテリウムは、感染者の肉体そのものをエネルギー源としているため、時間が経てばエネルギー切れで本体ごと消滅する。彼を救うには、まずあの床から彼の体を切除し、建物の外に連れ出さなければならない。

 那珂畑は本体への道がふさがる前に、そこへ走った。そして右手のドリルを本体足元に突き刺そうとした時、彼の体が止まった。

 無数の人々を一撃で吹き飛ばしたほどの威力、鋭く尖った形状。加山のナイフとは違う、合金の塊。これを人に突き刺せば、急所でなくとも重傷は免れない。そう考えると、那珂畑は相手を攻撃できなくなってしまった。ネガリアンに侵されているとは言え、本体は幼い人間。それを傷つけるのがヒーローなのか。彼はこの期に及んで、またしてもジュニアの言葉を思い出す。

「家族も友達もたくさんいる三森沙紗を、ヒーローは殺すのかい?」

 そう。生死はともかく、彼にも傷ついたら悲しむ者がいる。那珂畑は、すでに建物全体を支配した強大な敵の本体、事態の解決を目の前にして、どうすればいいかわからなくなっていた。

 そして、その一瞬の迷いが戦況を大きく変える。先ほどドリルの衝撃で吹き飛ばされた者たちを含め、パーティールーム内ほとんどのネガリアンが一斉に那珂畑に襲い掛かった。

 他の人々であれば、突き刺す必要はない。ドリルを回転させて側面を叩きつけるだけで退けることができる。なによりネガテリウムからの感染であるため、エネルギー源である本体をどうにかすれば全員無力化できるのだから、本体とそれ以外では優先度が明らかに違う。

「……痛っ」

 何度か攻撃を続けるうち、那珂畑の右腕に軋むような痛みが走った。手首が、肘が思うように曲がらない。それは次第に右腕がばらばらに砕けそうなほどの激痛に変わっていった。

 それも当然。那珂畑のドリルは掘削や日曜大工などに使うそれとは違い、本体と回転部分が離れていない。つまり、回転させるほどにゼツボーグはねじれを生じ、それは次第に本体にも及ぶということだ。ドリルの回転数は、すでに人体の可動限界域を超えていた。

 これ以上のドリル攻撃はできない。那珂畑はマンション本体を目の前にして、切り札すら使い切ってしまった。迷った結果、無理をした結果、それ以前に突破を加山に任せた無責任の結果がこれた。このまま負けるとしたら、敗因は間違いなくこの部屋に入ってからの自分の行動にある。那珂畑の絶望がゼツボーグに作用し、ドリルを回転させようとする力をいっそう強めた。

『那珂畑さん』

 インカムから、それまで聞かなかった声がする。司令本部からであれば、鳴島解析官だろうか。

『ドローンの映像からでもわかります。ドリルを回しすぎて腕がねじ切れそうなんですよね』

 鳴島の声は状況に反して冷静、むしろ冷酷ともとれるものだった。まるで那珂畑の腕がどうなってもいいかのような、そうなって当たり前かのような口調だった。

『だったら、逆回転させればいいじゃないですか。どうしてずっと同じ方向に回してるんですか?』

 冷たく見下すような声で鳴島は言った。いや、考えてみれば当然のことだ。今那珂畑の右腕は絞り切った雑巾のような状態になっている。それを解消するには逆回転させればいい。子供でもわかるようなことを、まるで那珂畑が戦うことに必死で忘れているかのように、もはや彼女の態度は那珂畑を馬鹿にしているようにも感じられた。

 しかし、那珂畑にはそれを躊躇う理由があった。それは、彼だけがこのドリルの性質を体験して理解したからである。このドリルは、自らの絶望を渦の回転によって先端に集めて相手にぶつけるもの。それをここまで酷使した状態で逆回転なんてさせたら、先端に溜まったエネルギーはどこへ行くのだろうか。答えは単純、ねじれが解消されると同時に拡散してしまう。この窮地において、それを攻撃に運用できるほどの自信は今の彼にはなかった。

 だが、ものは試し。再起不能になるくらいなら、できる限りのことをやってみるしかない。那珂畑はドリルを頭上に掲げ、鳴島の提案通りに逆回転させた。先端に溜まっていたエネルギーは周囲に拡散し、彼を取り囲む感染者たちに次々と命中した。回復と攻撃が同時にかなう、なんとも都合のいい展開である。

 しかし、何事も好都合に続くものではない。初めての戦場、初めての形状変化、初めてのドリル、そして初めての逆回転。那珂畑は自分の激痛に気付くまで回転を止められなかったように、今度は逆回転が止められなくなっていた。彼の感覚から言えば、鉄棒の前転は簡単にできるのに、逆上がりにはいつまでも苦戦し続けるような、そんな勝手の違いがこの逆回転には秘められていた。ドリルの回転はやはり彼の限界を超え、激痛が右腕全体に走る。

 すでに溜まったエネルギーは拡散しきったのか、周囲に変わった動きはない。しかしこうなったら、多少本体を傷つけようとも、このドリルをぶつけるしかない。

 那珂畑は歯を食いしばって激痛に耐えながら、それでも慎重に、ドリルの先端を本体下半身の肉塊に当てた。すると、予想外のことが起こった。

 押し出すエネルギーを逆回転によって使い果たし、無力になったドリルがさらに逆回転を続ける時、それは攻撃した相手のエネルギーを拡散させることができたのだ。攻撃と言うより弱体化、デバフ付与と言うべきだろうか。那珂畑はその性質を自らの感覚で理解した。

「っりゃあああああああ!」

 肉塊はドリルの当たった部分から連鎖的に千切れていき、本体の全身が露わになる。那珂畑の激痛を察してか、加山は肉塊が半分ほど切れたところで本体を抱きかかえ、強く引き抜いた。

「よくやった坊主! あとは任せろ!」

 息を切らしながらも、加山はまるで手柄を横取りするように本体を肩に担ぎ、マンションの出口を目指した。

 本体が切除されたからか、先ほどまで暴れていた感染者たちは動きを止め、次々と倒れていく。小堀曰く、免疫系に多少ダメージが残る可能性はあるが、ネガリアン感染としては軽症とのことだった。

 そして那珂畑のドリルは、スパゲティの束を折るような音と共に回転を止めた。彼が憶えているのは、ここまでである。


 那珂畑が目を覚ました時、最初に目に入ったのは知らない天井だった。

 この言葉からも想定できるように、そこは病院のようなベッドの上。周囲はカーテンで覆われ、ベッドとその脇にある小さな棚だけがそこにはあった。

 状況が飲み込めないまま那珂畑がベッドを降りようとした時、右腕の激痛がその動きを止めた。彼が下を見ると、その腕はギプスで固定され、布で首からぶら下げられていた。手を動かそうとすると、同じ痛みが走る。その時ようやく、彼は自分がドリルの回転で自らの腕を破壊したのだと認識した。

 右腕以外はほぼ無傷。とりあえずこのことに安心した那珂畑は、あらためて周囲を確認した。すると、ベッドの枕元、棚とは反対の方に小さなメモと妙に目立つ赤い押しボタンが置いてあるのが目に入った。メモには走り書きで、目が覚めたらボタンを押して、と書いてあった。この筆跡からでは誰のものかわからないが、彼はメモの指示通り、無事な左手でボタンを押した。

 ピンポン、とクイズ番組のような軽快な音がした。形から察しは付いていたが、少なくとも入院患者用の緊急呼び出しボタンではないらしい。しかし、カーテンの外からドタドタと近づいてくる足音は、まるで緊急呼び出しを受けたかのようなそれだった。

 そして足音が止まると、那珂畑の周囲を覆っていたカーテンが勢いよく開けられる。彼は外からの光に一瞬目が眩んだが、カーテンを開けた人物、先ほどの足音、メモとボタンを置いて行った者、それがすべて同一人物であると、その姿を見て確信した。

「右腕各所粉砕骨折! 全治3か月! ただしゼツボーグの合金により仮修復は2週間程度ォ!」

 羽崎京華副司令。彼女は急いでいたのか、那珂畑が何かする前に呪文のように叫んだ。

「あ、あの、羽崎さん……?」

「ここはタチカワショッピングセンターのクリニック! 病院は現在マンション被害者の対応で手いっぱいのため、特別にここを占領させてもらった! 君の任務は成功だ! ありがとう!」

 那珂畑と目を合わせることもなく、羽崎は勢い任せに、まるで九九を暗唱する小学生のように半ば棒読みで言い放つ。先ほどの足音と彼女の顔に浮かぶ汗を見るに、状況はかなり忙しいようだ。

「わ、わかったので、羽崎さんは病院の方へ……」

 羽崎に気圧されながらも、那珂畑はおおよその状況を察して彼女を促す。しかし、羽崎の体は一通り言い終えてからしばらく石像になったように動かなかった。

 那珂畑が外よりも羽崎の方を心配になってから数秒後。羽崎は大きなため息とともにベッドにへたり込んだ。

「あ~疲れたー!」

 張り詰めた緊張の糸が切れたのか、彼女はベッドに顔をうずめたまま普段の口調に戻った。

「とりあえず、事態は解決したよ。建物はだいぶ壊されたけど、住民はほとんど軽症。あれだけの規模に初心者が右手一本で渡り合ったんだ。もう大金星だよ逸ちゃん」

 羽崎はうつ伏せのまま、しかし褒めるように那珂畑の膝に手を置いた。

「詳しい話は局に戻ってからしよう。君も大悟ちゃんも相当疲れただろうしね。私はまだ病院でやることがあるから、たぶん君たちより後に戻ることになると思う」

 すでにその病院と被害現場を一周してきたのだろう。羽崎は「もううんざり、帰りたい」とでも言いたげな様子で、まだベッドに突っ伏していた。

 羽崎がそのまま寝落ちしそうになる一方で、那珂畑はマンション本体のことを考える。羽崎は住民はほとんど軽症と言ったが、それは逆に言えば軽症で済まなかった人がいたということ。そのうちのひとりが、おそらくネガテリウムとなったあの子供。彼がどのような思いであのパーティールームに籠城したのか、ネガテリウムになるほどの何を持っていたのか。もし彼が無事だとしたら、まずそれが聞きたい。

 ドリル逆回転でマンションのエネルギーを拡散させた時、実はその一部が那珂畑にも逆流していた。ネガテリウムを構成するエネルギーの性質は、本体となった人間の負の感情。彼はあの時、一瞬だけその断片を感じていた。それは、認められないという恐怖だった。

 これをきっかけに、何か彼のために聞けることが、言えることがあるかもしれない。那珂畑はそう考え、羽崎を残したままベッドから立ち上がった。

 羽崎は動かない。どうやら本当に寝落ちしてしまったようだ。


 那珂畑が宇宙開発局まで戻った時、加山はすでに司令本部にいた。局員たちは様々な書類や端末を抱えて奔走しているが、出動前や戦闘中ほどの慌ただしさは感じられない。状況はどちらかと言うと、結果報告の段階まで進んでいたようだ。

「お疲れ様、那珂畑君」

 エレベーターから降りた那珂畑に、まず小堀が振り向いて労った。続いて加山やすれ違う局員たちが彼を笑顔で迎える。

「とにかく疲れただろう。羽崎君がまだ戻ってないから、彼女の席に座っていいよ」

 小堀が那珂畑の右腕を心配そうに見るが、那珂畑からすればそれ以上に小堀の方が顔色を悪くしていることが気になった。

「ああ私? 私は大丈夫だよ。羽崎君も同じだろうけど、とにかく忙しくてね。みんな同じくらい疲れてる。まあ一番疲れたのは君だろうけどね。本当によく頑張ってくれた」

 疲れからか、小堀の口調はそれまでよりかなりゆっくりと喋っているように聞こえた。そして那珂畑が羽崎の椅子に腰かけた時、鳴島が書類を抱えて戻って来た。彼女は那珂畑の存在に気付いた直後、驚いたように体を跳ねさせてから目を逸らす。

「……最後、変なこと言って、ごめんなさい」

 おそらくドリルの逆回転を提案した時のことだろう。確かにあの時の鳴島の態度は悪かったし、骨折の原因も逆回転だ。しかしそれらがなければきっとそれ以上の大災害になっていた。彼女の判断はあくまでも正しかった。

 だが、妙に必要以上の距離を感じる鳴島に、那珂畑は何も言えなかった。

「さて。とりあえずふたりが帰って来たところで、結果の報告だ」

 膠着した状況を打開するように小堀が手を叩き、話を始める。


 救急隊と科学衛生局によって集められた情報によると、今回ネガテリウムになった感染者は、望月将太(モチヅキ ショウタ)、小学6年生。個人調査では、有名私立中学の入試対策中だったらしい。

 家は一軒家で両親との3人暮らし。あの布状のネガテリウムが最初に発生したのも、彼の自宅だった。両親は彼からのネガリアン感染症により死亡。特に母親はうつ病を患っていたためか、脳の損傷が激しかったとのことだ。

 周辺調査からは、彼が学校でトップクラスの優等生だったことも明らかになっている。さらに多くの塾に通っては好成績を残し、まるでそのすべてをなぎ倒して経験値に変えてきたかのような経歴だった。

 ここで鳴島から、それこそがネガテリウム発生の原因だったのではと意見が出る。那珂畑はそれを聞いて、何かがつながったような感覚がした。

 望月少年は学力を優先するあまり、他の子供たちが当たり前に経験する少年時代をスルーさせられ続けてきた。そして那珂畑が感じた、認められないいという恐怖。それは望月少年にそのような成長過程を強いた誰か、おそらく両親へのものだったのではないだろうか。那珂畑はドリルの性質について説明しながら、その仮説を話した。そして、それが望月少年の治療に繋がると、小堀と加山を含む4人の意見が一致した。

 しかし小堀はここで、それができるのは望月少年が生きていることが前提だと釘を刺した。いや、もうすでに結果は出ていた。

 結論から言えば、望月将太は死亡した。マンションから切除された後、病院で衰弱死が確認されたそうだ。マンションが集合住宅に取りついて多くの住民を巻き込んだのは望月少年の意思も反映されていたが、ネガリアンが彼の衰弱を察知し、新たに本体となる者を探した結果とも推測できる。小堀はこう説明した。

 しかし、一度人間に感染したネガリアンが本体を乗り換えることは極めて難しい。特に本体と同調するネガテリウムには不可能に等しいことだ。つまり、パーティールームでふたりが望月少年を見つけた時点で、すでに彼は手遅れの状態にあったと言える。

 一番救いたかった命を救えなかった。一番話したい相手を失ってしまった。初戦、初めてのネガテリウム、本体を見つけた功績。慰めの言葉はいくらでも出てくるが、それでも人の命に代えられるものではない。那珂畑は結局最後まで、この初勝利を認められずにいた。

 再び凍り付く空気を打開したのは、加山の携帯の通知音だった。

 加山は通知の内容を見ると、携帯をズボンのポケットに戻して踵を返す。

「悪い、向こうからお呼び出しだ。もういっぺんタチカワ行ってくる」

 それを皮切りに、残された3人も解散ムードへと切り替わっていく。

「では、私もマンションの解析に戻ります」

 場を離れるタイミングを待っていたのか、鳴島が我先にと自分のデスクに戻る。もともと小堀の周りに集まっていたので、那珂畑だけが動けずにいた。

 小堀は立ち上がる体力がないのか、椅子に座ったまま背伸びをして那珂畑の肩を優しく撫でる。

「悲しいことだが、これがヒーローの戦いだ。犠牲者は出たけど、君はより多くの人を救ったんだ。今は、そっちの方を考えよう」

「……はい」

 那珂畑はあふれ出そうになる涙を隠すように小堀から顔を逸らし、そのまま別れも言えず地上階へのエレベーターに向かった。


 シロヤマ地区、いつものバス停からの帰り道。時刻は間もなく日の入りといったところ。那珂畑は骨折と疲労のこともあってか、その足取りは普段より格段に重くなっていた。

 そしてやはり、彼女はそこに待ち構えていた。

「やっほー、逸君。いやあ大活躍だったみたいだねえ」

 那珂畑の行く手をふさぐように、どこからかジュニアが現れた。彼女は挨拶を飛ばして自らのスマホの画面を見せる。そこには『ヒーロー大失態! タチカワ市で甚大被害!』と大きな見出しのネットニュースが映し出されていた。これが、メディアの性悪な表現を初めて那珂畑に向けられた事件となった。

「だいたい見させてもらったよ。ネットじゃさんざんな言われようだけど、僕は君が正しいことをしたって信じてる。そんなに怪我するほど頑張って、たくさんの人を助けたのに、おかしいよねえ? 君はもっと積極的に人に認められるべきなんだ。まったくこの記者も、僕という大量殺人鬼がいながらよくこんな記事書いたものだよ。あ、でも僕のは同一犯ってわからないから仕方ないか。あははっ」

 那珂畑を慰めたいのか、はたまた自慢したいのか。ジュニアは殺人鬼という言葉を使っておきながら無邪気に笑って見せた。

 しかし、心身ともに疲弊しきっていた那珂畑にとって、もはやそのどちらにも興味はない。彼は彼の望むことを、正直にジュニアにぶつけた。

「で、俺も殺すんだろ。今がチャンスだぜ」

 那珂畑は俯いたまま、変身の素振りすら見せない。失ってばかりの人生を再認識できた。最悪の気分だ。そこにちょうどよくネガトロンが現れた。殺してもらうのにこれほど好都合なことはない。任務も責務も放棄して、ようやく解放される時が来たのだ。この機を逃して被殺願望が成立するものか。

「そうだね。僕もあれから少しは強くなったと思うから、遠慮なくっ!」

 ジュニアはパーカーの袖に隠していたナイフを出し、那珂畑の包帯、その向こうの心臓目がけて突き立てる。

 しかし、いややはりと言うべきか。那珂畑のゼツボーグがその侵入を許さなかった。漆黒の壁が刃を阻み、ジュニアが渾身の力をかけてもなお、包帯の糸一本すら切れなかった。

 ゼツボーグは本人の絶望を原動力とするため、絶望している時ほど力を増し、時に本人にすら制御できなくなる。この観点から言えば、今の那珂畑は絶好調だった。たとえ相手がジュニア以上の力を持っていたとしても、彼を倒すのは不可能だっただろう。殺されることすら叶わない落胆に彼のゼツボーグはさらに反応し、彼が意識せずとも勝手に形を変えてジュニアのナイフをへし折った。

「……悪い。やっぱ無理だったな」

 折れたナイフの先端が落ちる音で、那珂畑はようやく次の一歩を踏み出した。そしてそのひと言をあいさつ代わりに、ジュニアの横を通り過ぎて家路に戻る。

「……約束するよ」

 ジュニアが那珂畑を呼び止める。その声はそれまでのようなからかうものではなく、彼が聞いたことのない真剣さを帯びていた。

「約束だ。僕が絶対に君を殺してあげる。殺人鬼として、ネガトロンとしてじゃない。僕が君のためにしたいんだ。したくなった。おかしいよね、普段なら殺せないから諦めるところなのに、僕だけが君のためになれるって気がしたんだ。沙紗に擬態しすぎたせいかな」

 普通の人間は他人のために殺してあげるなんて言わない。しかしその言葉に、那珂畑は思わず振り返る。その先では夕日の影響か、ジュニアの瞳がそれまで以上に潤んでいるように見えた。ネガトロンに同情されるのも不本意だが、それでも彼にとっては他の誰からも言われることのない、有り難い言葉だった。

「そっか、まあ頑張れよ」

 那珂畑は彼女の思いにどう返せばいいかわからなかったが、彼の嬉しい気持ちが伝わったのか、短く冷たいそのひと言に、ジュニアはにっこりと笑って返した。


 時は少し戻り、加山が宇宙開発局を出た後。彼はタチカワ市の病院からふた駅ほど離れた居酒屋に呼び出された。店員に案内された先では彼を呼び出した本人、羽崎がすでに個室で酒と料理を広げていた。

「悪いね。こんなところに呼び出して」

「いや構わねえよ。それよりお前こそ大丈夫なのか、もうすぐ時間だろ」

 羽崎はまず謝罪するが、呼び出されるほどの用ができたことに申し訳なさを感じたのか、加山は恥ずかしそうに目を逸らし、頭を搔きながら返す。

「私は大丈夫だよ。さっきしっかり寝落ちしたところだし」

 そして、飲みかけの日本酒をひと口あおってから続ける。

「それに、今日はもう眠れそうにない」

「……どういうことだ」

 ただごとではない。言葉にせずともそれだけは加山にも伝わった。彼は慌てて羽崎の向かいに座る。

「今日、科学衛生局の人と一緒に病院回っててね。マンションの報告ついでに教えてもらったんだ。そのうち君たちにも話が行くと思うけど……」

 羽崎は両肘をテーブルにつき、やるせない顔を目元だけでも隠すように両手で覆う。

「見つかったんだよ、『パイロット候補』」

 その言葉に加山は戦慄し、お通しの塩キャベツを摘まんだまま動けなくなった。

 那珂畑が初めて宇宙開発局に来た時、羽崎が話したことを憶えているだろうか。科学衛生局が進めていたネガリアンへの対処法、餌となる負の感情を持たないこと。感情豊かな人間の中にそのような者がいるはずないと宇宙開発局はゼツボーグの開発に集中していたが、科学衛生局が諦めなかった結果、ついにその人物が現れた。

 その人物は、存在自体がヒーローというくくりの中でゼツボーグと一線を画す。まず、絶望という不安定で非人道的なエネルギーを必要としない。さらに負の感情を持たないことでネガリアンに気付かれにくく、ゼツボーグのように反発も起こさないため、ネガリアンの生け捕り、ゆくゆくは対策研究の大きな進展につながる。

 生身でもネガリアンに対して無敵、というだけでその存在意義はいくらでも考えついてしまう。それが本格始動すれば、ゼツボーグは過去のもの。劣化版という扱いになってしまう。

 実力不足で対処が遅い。昨今のヒーロー批判を羽崎と加山ももちろん知っていた。それらすべての状況が、たったひとりのヒーローの登場で盤面ごとひっくり返されることになる。

「同じひと桁号のよしみ、と言うか君のために言わせてもらう。もう終わりにしてもいいんじゃないか」

 羽崎の声は次第に、涙をこらえるように歯を食いしばりながらのものに変わっていった。

「今日の戦いで確信したよ。私は逸ちゃんより君のデータをずっと見ていた。もう君は戦える体じゃ……」

「いや、まだだ」

 話を遮るように、加山が言い放つ。驚きのあまり羽崎は目元から手を放して彼と目を合わせてしまった。あふれんばかりの涙を溜めた羽崎の目に対して、加山のそれは強い意志に燃えていた。

「坊主もだいぶ悔しがってたけどな、俺からしても正直あんなの勝ちじゃねえ。だいたいそっちの話だって、いつ実戦投入されるかわかんねえんだろ。お前の気持ちもわかる。俺に居場所をくれたことも感謝してる。けどな、俺は俺が信じるようにやりたいんだ。あの時から、それだけは変わらねえ」

「でも、そうしたら大悟ちゃんが……」

「もともと死ぬ身だったんだ。世のため人のためにできることがある。こんなにかっこいいこたぁねえだろ」

 そこまで言うと、加山は話を無理やり区切るように塩キャベツにかじりつき、すでに半分ほど氷の解けたウイスキーを豪快に飲み干した。お酒の一気飲みはやめましょう。

「どこかで間違えたとしたら、俺をヒーローなんかに仕立て上げたお前らの責任だ」

 加山は最後にそれだけ言い残し、席を立った。

 しばらく茫然としていた羽崎がテーブルに目をやると、いくつかの皿が空になっている。彼女が見ないうちに加山がかなり食べたようだ。

「まったく。君のそういうところが私は好きだか嫌いなんだか」

 誰に言うでもなく、ただその言葉が口から漏れた。

 元ゼツボーグ2号、羽崎京華。加山を仲間に引き入れた罪は、当時の彼女が想定していたよりも、今の彼女が想像しているよりも重い。

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