カンナは図書館の夜の底で
猫村まぬる
第1章 空の名
01-1 目覚めて最初にすることは
目覚めて最初にすることは、毎朝同じだ。眼鏡をかけ、ベッドから腕を伸ばし、窓のカーテンを少し引く。すると隣のマンションの上に、小さな三角形の空が見える。
何本もの電線によって小さく分割された、冬の曇り空。
カンナはその空を、まるでそこに書かれた薄い文字を読みとろうとするみたいに、じっと見つめる。
そして胸の中でつぶやく。
プロイセン。
それが今日の空の名だ。
角度を変えてゆく光、空気の
寒さに震えながらリモコンを取って暖房をつけ、一人暮らしの小さな部屋が暖まるのを待って、ベッドの上でもぞもぞと着替える。誰と会うというわけでもないから、いつもの黒のパンツに、着古したパーカーとダウンジャケットを選び、それでもいちおうは身だしなみは整え、最近短く切った髪にブラシを入れながら、今日こそは授業に出よう、と思う。
でももうカンナ自身もそんな決意なんて信じていない。本当は分かってる。毎日同じだ。キャンパスに行っても、どうせまた図書館で一日を過ごしてしまうだろう。
眼鏡だけでは心細い気がして、出かける前にキャップを深めにかぶる。小柄で痩せたカンナは、こうするともっと年下の少年にも見間違えられそうだけど、むしろそのほうが気が楽だった。
スニーカーを履いて住宅街に一歩踏み出すと、プロイセンな空が、わっと頭上から覆いかぶさってくる。世界の半分を占める圧倒的な存在感で。
空に名があるのは、カンナにとってはいつものことだ。だけど今日一日逃れることができないと思うと、「プロイセン」という名はちょっと重すぎる。
近くの停留所で、大学前行きの赤いバスに乗り、後ろの方に座る。はじめはひとりきりだったけど、銀行やデパートのある大通りに出ると少しずつ乗客が増えてくる。
最初に乗ってきたのは小学生ぐらいの男の子で、とんとんと歩いてきて、通路を挟んでカンナの真横に座った。それからスーツの中年男性と、老人が前の方に座った。
男の人ばかりだな、とカンナは思う。だからって、怖いってわけじゃないけれど。
横に座った男の子がちらちらと見てくるのをカンナは右半身に感じる。子どもだし、不快ということはないけど、気にはなる。カンナの方からそちらに目を向ける気にはなれない。
駅前のバスターミナルで、男の子は席から立った。そして前のドアから降りる前に、カンナの方を振り返った。
前髪の長い、色の白い子だった。紺色のコートを着ていて、子どもには似つかわしくない大きなヘッドフォンが目立った。濃いグリーンのマフラーで、鼻まで隠れている。
目を逸らそうとしたけど、うまくできなかった。
男の子は二、三秒くらい不思議そうにカンナの顔を見てから、降りていった。
胸に溜まった息を、カンナはほっと吐いた。
かわって大学生たちが乗ってくる。カンナは帽子をもっと深くかぶって下を向く。バスは上り坂を少し走って、校門の前で停まった。
プロイセンの空の下、緑の丘を背後にして、斜面を上がる広い石の階段の左右に、古びた鉄筋コンクリート建築が並んでいる。ここが彼女のキャンパスだった。
今日はせめて一つでも、授業に出なきゃ。
カンナは白いため息をついて、バスを降りた他の子たちの後ろを、少し離れて歩きだす。
でも足取りは重い。
彼女はやがて立ち止まり、学生たちでにぎやかな朝の大階段から逃げるように背を向け、横道にそれて、少し奥まった
その道の行き止まりに、キャンパスの他の建物とは違う、ひときわ古い堂々とした建物が待っている。
今日も来てしまった。
プロイセンな空の下で、ルネサンス風の石造りの大学図書館は、いつも以上に聖堂のような威厳をたたえて見えた。
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