第8話 回り道


 翌朝、二人は買い出しをして街を経つ。

 旅をするにあたって街道をいくなら馬だが、それ以外を行くなら別の乗り物が必要だ。


「テペマに乗るのは初めてだわ。見るのも。名前をつけていい?」

「やめた方がいい。テペマは寿命が短い。情が移ると後が辛い」


 二人が乗っているのがテペマという四足歩行の動物だ。体は大きく、茶色の毛は薄く、草食で穏やかな性格だ。子供の頃、ディノは「平たい牛に似ている」と言って皆に笑われた記憶があるが、今でも目はそっくりだと思う。

 テペマは深い森や険しい山肌など道なき場所の移動に強い。ディノはこれで、街道西に広がる広大な森を調査してしまおうと考えていた。二人分の座席をつけたテペマは、森の中、生い茂る低木を厚い皮で押しのけて進んでいた。


「寿命が短いっていっても大体二年でしょう? 充分だわ」

「君がいいならいいが」

「いいわ。名前はルウにする」


 リュミエレは精一杯手を伸ばすと、「ルウ」と名を読んでテペマの頭を撫でる。だがテペマの皮膚は分厚いので、きっと何も感じていないだろう。ディノが手綱を取る横で、彼女は膝に広げた地図を見ながら、時々笛を鳴らして地図に描き入れていた。

 この森は、真っ直ぐに進めれば海にも見まがう大河へ突き当たる。


「その探索は水底が深かった場合、底まで届くのか?」

「高低差は関係ないわ。水のあるなしも。神獣も《神遺領域》も、地表の上に面として存在しているわけではないの。もしそうだったら、見えない領域にぶつかって通れなくなってしまうことが出てくるでしょう?」

「そう……なるのか?」

「なるの。でも領域はそうじゃないから。この笛の探知はそこを通っていく感じ。あ、だから、もし崖上と崖下の両方に反応がある場合、それは二つあるんじゃなくて一つがそこに在る可能性の方が高いわ」

「なるほど。本当に平面上なのか」

「だから水底も範囲内に入れられるなら心配することはないの。ただ見つけられはするけど、実際行きにくい場所だったら大変ね。私たちは地表を移動しないといけないわけだから」

「それは確かに」


 今の森くらいなら何とか入っていけるが、世界には突き抜けるような標高の山や、底が見えない大きな亀裂の崖も存在する。空気が有毒で入れない一帯なども存在するのだ。


「《神遺城》が移動するというのはどういう感じなんだ?」

「そのままの意味ね。城自体が移動可能で常に動いているの。経路選びに意図があるのかないのかは分からないわ。領域の管理者に聞ければ分かるかもしれないけど」


 テペマの歩みが止まる。木々の間隔が狭く通り抜けられないのだ。テペマは左に迂回して進み始めた。

 森の中は暗くて時間も分かりにくいが、どの道しばらく野営だ。必要な荷物はまとめて座席の後ろにくくってある。テペマがよく訓練されているのもあって、ディノは傍の袋から拾っておいた細木を出すと、薪用に短剣で薄く表面を削り始めた。


「この大森林を調査したら、次の街に出よう」


 大森林は面積こそかなりのものだが、笛の届く三万ハドルはかなりの広さだ。川岸までいけば大河も七割ほど覆える。


「ちなみに《神遺城》は水上を動くことはあるのか」

「あると思う。外海には出ないけど」

「そうか……気をつけよう」


 水場の調査は外周を回らねばならない以上、どうしても時間がかかりやすい。その間に移動されては元も子もない。南方には海の名を冠する巨大な湖もあるのだ。

 隣を見るとリュミエレは楽しそうにテペマが動くのに合わせて揺れている。


「あ、そういえば。水は関係ないけど《神遺領域》同士は接触しちゃうから避けて動くと思う。ぶつかると双方に被害が出るわ」

「なら、場所が分かってる他の《神遺領域》周辺は避けてもいいのか」


 リュミエレが広げている世界地図には、場所が分かっている《神遺領域》も描き入れられている。中にはかなりの広範囲にわたる領域もあるのだ。避けて通るなら大分探索経路も変わるし、行かなくて済む場所も出る。

 リュミエレは「うーん」と首を傾げた。


「できれば、《神遺領域》は訪ねた方がいいと思うわ。何か変わったことが起きていないか調査しておけば、未然に防げることもあるかも。領域が綻んでいれば、また同じことが起こる」


 権衡都市アランディーナは多数の神獣に襲われたのだ。他の領域で同じことが起こるのを防ぎたい、というリュミエレの意見はまっとうだ。

 まっとうで……だがディノの目的とは違う。彼の国はもう終わってしまった。彼の全ても。

 何も言わないディノに気づいてリュミエレが顔を上げる。


「あなたは嫌? 余計な寄り道はしたくない?」

「俺は……」


 言葉を探すのは、自分の中にある感情に輪郭を与える行為だ。

 嘘をつくことは、もちろんできる。

 だが、彼女相手にそれをしてしまうのは、きっと違う。

 ディノは、自分でも一つにまとまらない感情をぽつぽつと口にする。


「たとえば別の神獣がいつか誰かを襲うのだとしても、それは俺が止めなければならないものではないんじゃないか、と、思う」


 かつての自分だったらどうだったか。ただ今のディノはどうしてもそう思うことを止められない。アランディーナが滅んだ後、各地で散々言われたのだ。「天災だったと思って諦めるしかない」と。今のディノも、あの日の残り火を追っているだけだ。それはなんら未来に寄与するものではなく、生産性もない。


「ただ、そんな風に思う自分が嫌だという気持ちもあるんだ。全部奪われてなお他人のために動くべきか、知らぬふりをしたいのか、どちらの気持ちもある」


 愛したいと言ってくれた彼女を幻滅させてしまうかもしれないが、正直に言えばそうだ。

 自分の中は空っぽで、その場その場で何となく動いている気さえする。

 彼は息を全て吐き出してしまうと空を見上げる。と言っても森の中から空は見えない。天を衝く木々を見上げる形になっただけだ。

 揺れる座席の上で、ぼんやりと空っぽの中身を転がす。

 そうしているディノに、隣から女の優しい声が言う。


「どちらもあなたの気持ちなら、そのままでいいんじゃないかしら」

「行く先選びに影響が出る。だから、君の言うことの方がもっともだ。それに合わせよう」

 最初からそのつもりではあった。ただ彼女に対して善人を装うことが憚られただけだ。

 リュミエレは、白い聖衣の膝を抱える。


「あなたが大陸神殿に来られたのは、神殿のために何かをしたからでしょう? それは誰かのために尽力できる人ということじゃないの?」

「自分のためだ」

「じゃあそれ以外に、この五年間他に何もしなかった? 誰を助けることもしなかった?」


 リュミエレの問いは、既に答えを知っているかのようだ。

 そしてディノも当然自分がしてきたことを知っている。すぐには答えられないのが答えだ。


「あなたは、困っている人を助けられる。ただ自分がそのことを割り切れていないだけじゃない? じゃあ何が引っかかっているのかしら。あなたは人が不幸になっても、それで溜飲が下がるわけではないでしょう? 回り道することへの焦り?」


 彼の蟠りを分解しようとする試みは、無遠慮なものなのだろうが、そう感じさせない丸みを持っていた。

 上を見ていると景色はほぼ変わらない。テペマが時々方向転換するくらいだ。


「焦り……というのとは違うんだろうな。時は戻らない」


 それは誰よりもよく彼が分かっている。もう何をしても変わらないのだと。零れた砂を一つ一つ拾おうとしているだけなのだと。

 だから、何年、何十年かかってもいいとは思っている。焦りなどない。

 だから――


 その時、見上げていた木々の合間から、ふわりと黒い大きな布が落ちてきた。


「な……」


 呆気に取られたのはほんの一瞬だ。彼はすぐにそれが何であるか察する。


「伏せろ!」


 ディノは言いながら、荷物に丸めて刺していた毛布を引き出す。広げてリュミエレの上へとかぶせた。


「なになに⁉」


 毛布の下から動転した声が聞こえてくるが、それより逃げる方が先だ。

 ディノはテペマの横腹を軽く蹴る。


「走れ!」


 速度が上がり、座席が大きく揺れる。テペマは低木を押しのけ木々の間を抜けた。だがそれで逃げられる相手ではない。

 黒布は、耳障りな音を立てて逃げるディノたちに追いすがる。耳に、首元に、ぶるぶると震えて触れる。それと同時に、肉の弾けるような痛みが走った。

 絶叫したくなるような痛みに、ディノは歯を食いしばりながら手元で火を起こす。

 着火石をぶつけるも、黒い布が上半身に覆い被さっているので視界もない。ちょうど作っていた枝に火を移した時には、意識が遠のきかけていた。


「ディノ! ディノ⁉ どうなってるの⁉」


 叫ぶ毛布の上に覆いかぶさり、彼は振り落とされないように左手で手綱を握りしめる。

 右手に持った枝で、自分の周りを焼いていく。熱に、煙に、まとわりついていたものが少しずつ剥がれ落ちていく。自分の髪や肉の焼ける臭いが鼻をつき、激しい痛みが続く。

 それでも彼は手綱と火のついた枝を手放さない。

 テペマが走って走って、ようやく周囲の景色が変わり大岩と石礫が目立ち出した頃、彼は持っている枝の火が消えていることを確認して意識を手放した。

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