第5話 図書館の底で



 水の中から下へ。

 抜けた、と思った瞬間感じたのは落下する感覚だ。


「っ、」


 そう距離は落ちなかった。一階分ほどだ。水没していた階の更に下には水のない階があったのだろう。不思議な話だ。

 落ちた場所は平らではなかった。咄嗟に自ら転がって衝撃を逃したディノは、自分が何かの上を転がったという自覚があった。

 転がり、床と思しきところに手をついて上体を起こす。

 青い光のある方を彼は見て――そこにいた相手と目が合う。


 彼女は一面に散らばった本の中、床の上に座りこんでいた。

 淡い夕焼け色の双眸。広がる長い髪も同じ色だ。

 二十歳に少し足らないであろうくらいの若い女は、神話を思わせる完璧な美しさの顔立ちだ。

 だが完璧なのは顔立ちだけで、それ以外はずぶ濡れのディノと大差ない有様だ。長い髪はぼさぼさで、服も白いだぼつくローブをずるずると肩を落として着ている。目の下には隈がうっすらと浮かんでおり、それは彼女が床に広げた本を読んでいるがためのようだ。


 彼女は、浅く床を満たしている水の只中に座って、水の中に広げた本を読んでいる。

 上から青く見えた光は、彼女が手元に置いている青いランタンのものらしい。それは煌々と広い円形の部屋を照らし出していた。

 すぐには理解しがたい眺めに、ディノの口をついたのは心配の言葉だ。


「本が傷まないのか……?」


 言ってしまってから、ディノは失言してしまったかもしれないと気づく。水は彼が落ちて来た時に一緒に零れたのかもしれない。だとしたらとんだ無礼者だ。

 けれど彼女は、呆気に取られた様子のまま返す。


「ここにある本は、水に浸してある方が傷まないから」

「そうなのか」


 世の中には変わった本もあるものだ。ならばここが水浸しなのは彼が落ちてきたせいではなくもともとなのだろう。大陸随一の図書館には不思議が多いらしい。

 それと同じくらい不思議なのは彼女だ。見たところ、この階より下はない。彼が落ちて来た階段以外の出入口が見当たらないのだ。これではこの部屋から出られないのではないのか。

 ただ、神官が言っていたのは彼女のことだろう。ディノはずぶ濡れの体で立ち上がると、来訪者の証である腕輪を見せながら言った。


「神獣について知りたくて上であなたを紹介された。……あなたで合っているだろうか?」


 彼女は軽く目を瞠る。そして頷いた。


「ええ。神獣というなら私ね。何が聞きたいの?」

「五年前、祖国が巨大な蟲の群れに滅ぼされた。それが神獣だったのではないかと思い、行方を追っている」


 そこからディノは、語り慣れた過去を語る。

 慣れは、痛みの輪郭を滑らかにし、じっとりと重みを増す。まるで塞がらない傷跡が水を吸ってぶよぶよと白く膨らむように。

 彼は痛みを感じていないような顔で、何があったかの全てを言い終わる。その間ずっと彼女はまばたきをせずディノを見ていた。

 女は、結論から口にする。


「それは確かに神獣の一種だわ。アメ・リセリ。かつて東の大地を支配していた雑食種ね」


 きっぱりとした答えは、ディノの中に落ちて染みる。疑っていたことを肯定されただけで、少なくない疲労感が心中にのしかかった。

 だが、覚悟はできていた。だから表情には出さない。彼女はそれを了承と取って続ける。


「アメ・リセリがいるのは……確か《神遺城》だったはず」

「その城は、どこに?」


 言ってからディノは、今の言葉には感情が出過ぎていなかったかと気づく。

 人は、復讐心をたぎらせている人間にあまりよい顔をしないことを、彼はこの五年で知った。

 何故かと言われても、自分はもう昔には戻れないので分からないが、察するに燃え滾るそのような心は、きっと毒に似ているのだ。

 人は毒された相手を見て、触れたくないと思ってしまう。そう感じる人間の方が世の中にはずっと多く、だからあまり面に出さない方がいい。得られる協力も得られなくなる。

 彼女はけれど、性急な問いにも嫌な顔をしなかった。最初と同じく答えのみを返す。


「《神遺城》の現在地は私にも分からないわ。あれは《神遺領域》の中でも移動するものなの」


 彼女はそこで初めて彼に質問を返す。


「あなたは《神遺領域》についてどこまで知ってる?」

「《神遺領域》……いや、ほとんど知らない。神獣は突然現れて突然消えるというくらいで」


 女は首を傾げる。その仕草は妙にあどけないものだった。


「《神遺領域》はお互い関わらないようにしているからかしら。なら、先にそれを説明します。――《神遺領域》とは神獣を守るために存在する領域なの」

「守る?」


 あの蟲にそのようなものがはたして必要なのか。話に聞いた他の神獣もどれも「人の力の及ばぬ、恐ろしいもの」だったのだ。

 忌むようなディノの表情に、女は微笑んだ。


「そう、守る。神獣は神々がこの世界に現存していた時代だからこそ種として生きていられたの。神々が去った後の世界では、互いに相争ったり、増えすぎて餌がなくなったりして絶滅してしまう。だからせめて、彼らの形骸だけでも保存しておく場所として作られたのが《神遺領域》。ええと……」


 彼女は床に積まれた本をひっくり返す。ぱらりと表紙のすぐ内側を捲っては別の本に移ることを何度か繰り返し、ようやく目的の一冊を見つけ出す。


「ほら、これ」


 表紙を開いたそこに描かれているのは世界地図だ。書かれている文字はディノには読めない。だが絵だけで充分だ。地図のところどころに描かれている円。その中には一つの円に一つずつ生物の絵が描かれていた。

 魚であったり、四つ足ののっぺりとした獣であったり、黒い粒の集まりであったり、大樹であったり、大きな目玉に蛇の尾がついたものであったり、鈴なりの花であったり、愛らしい鼠に似た生き物であったり。


「……これが神獣か」

「ええ。彼らが存在し続けるのに適している領域が、この世界には作られた。その総数は諸説あるけれど……十一が通説ね」

「ここに描かれているのは八しかないが」


 そして、あの蟲もいない。女は首肯する。


「《神遺城》は移動するから描かれなかったんだと思うわ。他にも場所が判明していないものは、ここにはないの」


 彼女はぽつぽつと地図上の円を指差しながら教えてくれる。


「《神遺領域》はその規模と様相によって、違う名称がつけられているわ。《神遺湖》や《神遺林》《神遺都市》とか」

「……ここは俺も通ったことがあるが、そんなものはなかった気がする」


 ディノは大陸神殿から南西にほど近い円を指す。そこには蝶とも鳥ともつかぬ翼のあるものが描かれているが、ちょうど街道にかかる場所だ。不思議な生物がいるならもっと騒ぎになっているのではないか。


「《神遺領域》は隔離と保存のための場所だから。他の領域とは接触しないようになっているの。ここにあるけれど、門が開かない限り、人間には見えないし触れない。入ることはできないわ」

「なら、何故」


 何故あの蟲たちは故国を蹂躙したのか。

 こちらから触れることはできないのに、向こうは人間を好きにできるのか。

 やるせない感情に、女は初めて悼む目を向けた。

 彼女はその目を閉じるとかぶりを振る。


「おそらく、領域からはみ出た神獣でしょうね。それが領域に戻ったから消えたように見えた……だと思うわ」


 まるで事故であったかのような物言いだ。

 ディノの感情はそれに「納得できない」と思い、けれど思考は回り続ける。


「では、神獣があの夜持ち去ったものを取り返したいと思った場合……それは俺には叶わないのか」


 この五年間、うっすらと思考の片隅にあったこと。

 マイアスティの遺体を取り戻すことは、もう叶わないのかもしれないと。

 この望みを口にした時、聞いた相手は皆、彼を憐れむ目か、正気を疑う目で見てきた。

 それはそうだろう。あの蟲は人を食うのだ。持ち去られた人間の体がどうなるか、子供であっても想像がつく。

 だが、領域の話が本当なら、彼女の遺体がもうないということを確かめることさえできない。

 永遠に、彼が生きている限り後悔の一粒として残り続ける。毒として内腑を焼く。

 視線が落ちてしまう。彼は青い光を反射する水を見下ろした。

 女の声が水の上を滑る。


「あなたの目的が復讐ではないのなら」


 彼は、図書館の底にいる女を見る。


「《神遺領域》の門なら、私が開くことができるわ」

「……それは」


 期待をしてもいい申し出なのか。

 相手は、人を容易くばらばらにできる蟲なのだ。領域を訪ねるためには彼女を連れて行かねばならない。自分の、とうに止まってしまった過去に見知らぬ人間を伴うことが許されるとは、ディノにはとても思えない。

 彼の逡巡を読み取ったのか、女は微笑む。


「復讐目的じゃないなら、と断るのは、《神遺領域》内において神獣は不死だから。どうにもできないの。だから領域に入って神獣と戦うのは自殺行為でしかない」


 ああ、そうなのかと、残念に思う。

 そんな自分にディノは気づく。やはり自分は、あの蟲を殺してしまいたかったのだ。

 でもそれは、のみこんでしまうべき感情だ。


「……主君の遺体が残っているか、確かめられればそれでいい。そちらも無茶なことだろうが」

「領域内を探索することはできるわ。あなたの危険度は変わらないでしょうけど」

「構わない。門さえ開けてもらえるなら、一人で入って一人で探す。それが可能であるなら、だが」

「できるわ。ただ神獣を外に逃がしてしまうことはできないから、門はあまり長い間開けておけないの」

「俺が入ったら閉じてくれて構わない」


 死にたいわけではない。だが、それでいい。

 女は物言いたげに彼を見る。その顔も、やはり幼げだ。

 ディノはその時になってようやく、まだ自分が名乗っておらず、彼女の名前も聞いていないことに気づいた。姿勢を正すと頭を下げる。


「名乗り遅れてすまない。俺は、ディノ・ハルトと言う。叶うなら手を貸してくれないだろうか」


 人に請う。

 もう何度目のことか。一度たりとも自分がしてきた請願を無駄だと思ったことはない。

 今もきっとそうだ。

 彼女は答えない。

 やはり難しい願いかとディノは思い、それでも重ねて願おうと顔を上げる。

 彼女は、彼が落ちてきた時よりもずっと驚愕の顔でディノを見ていた。

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