祈る男と渇いた女

あきちか

第1話

第一章 祈る男


 海の近くのある小さな町に三十代の半ばを過ぎた、彫りの深い顔立ちで棒のような背の高い男が住んでいました。 

 男の仕事は八百屋の店番でしたが、いつも黒くて長いエプロンをして、お客様のどんなにつまらない世間話や身の上相談にも熱心に聞き入るので、八百屋の神父さん、と町の人たちは親しみを込めて彼を呼びました。 

 

 そんな男にも、暗い過去がありました。

 

 男が幼いころ、父親が女に狂って家族を捨てたので、家計は行き詰まって満足に食べるものもなくなりました。そんな家族を支えていたのが田舎の祖母でした。ところがその祖母も男が十歳のころ死んだのです。

「もう社会の底辺で、ウジ虫のように生きるしかないのか」

 男は未来を悲嘆し投げやりになると、近所の悪い仲間と夜更けまで遊び回りました。

(神さま、どうか息子を赦して下さい)

 病がちな母親でしたが息子を不憫に思うあまり無理をしながら働いたので、とうとうある日、無理がたたって仕事中に倒れこの世を去りました。

「母が死んだ」

 真夜中の病院の待合室から、男は恋人に電話をしました。

「残念ね。でも介護の手間が省けたし肩の荷がおりたんじゃない」

 恋人はとても冷ややかでした。

「そんな……」

「なによ」

「……」

「葬儀を手伝ってほしい」

「嫌よ」

「え、どうして」

「煩わしいわ」

 女は冷淡に言って電話を切りました。

「何てやつだ」

 男は深夜の病院の待合室で、怒る気力もなくがっかり肩を落としました。

「一人で母の葬儀をするしかないか」

 男は独り母を見送りました。

 喪が明けると、男には膨大な借金が残されました。

「もう破産するしかない」

 男は彼女のアパートに行きました。

 借金返済の相談をするためです。

 すると女は彼をさげすむように見つめ、

「あたしパトロンができたの」

 と平然と言ってのけたのでした。

「金にしか目がないのか!」

「貧乏は嫌なの。彼はとってもお金持ち毎月お小遣いをくれるわ」

 女はテラスに腰掛け、涼しい顔でタバコを吸いました。

「このくそ女が!」

「あんたこそ、くそ野郎だわ。出て行って!」

 女は煙草を咥えたまま、吐き捨てるように言うと、男を足蹴にしました。

 その後、男は破産したのでした。


 母親を失って十八年が経ちました。

 朝から男は目に涙を浮かべ、祖母や母と一緒に撮った写真をじっと眺めていました。

 窓から外に目をやると、道端に赤や白の花が咲いていました。

「桜の花だ」

 荒みきった男の心が、珍しく、花で満たされました。

 そのとき不思議な事が起きました。

 閉め切った部屋の中に、春の温かな風が男を包み込むように吹き抜けたのです。

「お母さん……」

 男が思わず窓越しに空を見上げると、抜けるような青空が広がっていました。

「お母さん、晴れ女だったな」

 母の愛にようやく気づいた男は、胸の奥がとても熱くなり、

「ありがとうございます」

 と言って、むせび泣きました。

 男は無償の〝愛〟を教えてくれた母に感謝しました。

 男は〝赦す〟ことを学ばせてくれた、逃げた父親に感謝しました。

 男は憎しみを〝手放す〟きっかけを与えてくれた別れた恋人に感謝しました。

 過去の不幸な出来事を赦し、自分をも赦した男は、自分を少し好きになると、自然に手を合わせ祈りました。

「神様、お父さん、お母さん、お婆ちゃん、ありがとう。こんなにも僕を愛してくれて幸せです。これからは自分を大切にしながら、出会った全ての人に感謝の心を忘れないように生きてまいります」

 心をこめた祈りは男の日課となり、生まれ変わった男は〝祈る男〟となったのです。


  第二章 渇いた女


 祈る男と同じ町に女が住んでいました。

 二十代半ばの、長い黒髪に丸顔のえくぼが可愛いい女でした。

 女は仕事が早く終わる日や、休みの日には、ボランティアをしていました。病院や教会の施設に介護の手伝いをしに行くことを、クリスチャンである自分の使命と考えていたからです。

 そんな天使のような女にも辛い過去がありました。

 女は幼い頃、父親と母親を貧しさと働き過ぎで亡くしたのです。

 親戚はいましたが、彼らは孤児になった少女を邪魔者扱いして、お互いに押しつけ合いました。

 こうして幼かった女は親戚の家をたらい回しにされ、しかも、性的な虐待や酷い暴力を受け続けていました。

 虐待はエスカレートし、堪りかねた少女は十二歳になると、親戚の家を逃げ出し、住んでいた町から遠く離れた、祈る男が住む町にやって来たのです。

 行く当ても無かった少女は、町の小さな教会に助けを求めました。

 少女が教会に保護された時、全身に殴られた青アザやタバコの痕があり、左の足にはひどい火傷の痕がありました。

 少女は教会附属の病院に入院させられ、およそ半年間、治療と心身のリハビリを受けた後、同じ教会の身寄りの無い孤児のための施設に保護されました。

 それから少女は暫く、その施設で過ごす事になったのです。

 それまで人を憎むことしか知らなかった少女でしたが、教会の神父さんやシスターの細やかな心配りで、荒みきった彼女の心と魂はほんの少し癒やされました。

 虐待の傷跡も施設に入っていた期間に、奇跡が起きたように治りました。

 ですが、酷く悲しい経験から、少女は親戚を憎み、人間にも社会にも、激しい怒りや憎しみを抱いていました。しかも暴行や性的な虐待が心の傷となって、自分の身も心も魂でさえも、穢れていると思い込んでしまったのです。

 少女は自分を否定し、自分を愛することも、自分の存在を認めることも出来ず、他人から愛される資格すらないと信じていました。少女は愛に飢えながら育ったので、心と魂は、いつも渇ききっていました。こうして少女は〝渇いた女〟になったのです。


生きがい


 女が十四歳の時でした。

 教会の礼拝に来ていたパン屋の奥さんに気に入られ、そこで住み込みで働くことになったのです。パン屋の夫婦には子供がいなかったので、渇いた女は娘のように可愛がられました。渇いた女は仕事の呑み込みが早く、機転も利き、記憶力もよかったので、すぐに仕事を覚えました。女はパンを仕込んだり焼いたりする仕事から、陳列や販売、会計の仕事まで任されました。教会やパン屋との出会いで人の愛に触れた渇いた女は、感謝してもしきれないと、人の親切のありがたみを肌で感じ、心から噛み締めたのでした。

 こうして始まった、渇いた女の穏やかで平和な日々は十年ほど続きました。傷ついた心と魂が癒えるには短すぎる時間でしたが、それでも渇いた女にとって夢のように幸せな毎日でした。


 渇いた女は思いました。

(身も心も穢れたこんな私でさえ、生きる価値があることを神父様やシスター、そして、お店の主人と奥様、沢山のお客様が教えて下さった。わたしはこれから一人でも多くの人に、この感謝の恩返しをしたい)

 渇いた女の強い思いは、日増しに激しくなりました。ところが渇いた女はどうやって感謝の恩返しをすべきなのか、さっぱり思いつきません。

 そんなある日のこと、お店によく来る御近所の奥様が渇いた女に思わず悩みを打ち明けたのです。

「母の世話が大変でね」

 認知症を患った夫の母親の介護が大変だというのです。

 お客さんは自宅での介護にとても疲れていて、目の前の優しそうな彼女をみるとつい弱音をはいてしまったのでした。

「ごめんね、つい愚痴ってしまって」

 お客さんがそう謝ると渇いた女は、

「お母様の介護をわたしにもお手伝いさせてください」

 と目を輝かせて言いました。

 渇いた女の口から無意識に出た言葉でした。

 お客さんはびっくりして、渇いた女を見つめると、

「あなたは本当に優しいのね。お気持ちだけ有り難く頂くわ」

 パンの代金を彼女の白くて華奢な手に握らせ、お店を出て行きました。

 渇いた女は自分の申し出を断られがっかりしましたが、彼女の目は活き活きと輝きました。


「わたしはついに人生の使命を見つけた」

 

 渇いた女は多くの人に支え助けていただいた、この感謝しきれない気持ちを、病気や障害を持つ人の介護や看護助手をボランテイアですることで、恩返ししていこうと決意したのでした。


心の闇

 

 渇いた女は家の近くの教会で、介護や看護助手の応援をさせて貰うことになりました。

 教会の施設にいる多くの人は、身寄りのない病人や家人に見捨てられた障害をもつ子供たちでした。初めは何をどうしたらよいのか全く分かりませんでしたが、同じボランティアの人達から仕事の要領を貪欲に学ぶと、次々と仕事をまかされるようになったのです。

 ボランティアは、お店が休みの日に行くことがほとんどでしたが、沢山の人の嘆き悲しむ声を聞くうちに、渇いた女の心は激しく痛み次第にお店が終わってからでも手伝いをしに行くようになりました。

 渇いた女は家族や社会に見捨てられた人、暴力や性的な虐待を受けた幼い子供たちの痛々しい姿をみると、自分の小さなころの苦しみと重なり、ますますその人たちに感情が入りこんでいきました。

 施設や病院では毎日のように沢山の人が病で死にました。誰からも見取られず涙も流されずあの世へ旅立つ人々。

 そんな孤独に死に逝く人たちを、

(せめて死ぬときだけは寄り添い、手を握り、涙を流し、人間の尊厳を保てるような最期を迎えさせ、送りたい)

 と渇いた女はいつもそう思い、懸命にボランティアをしたのです。 

 渇いた女の使命感は崇高なものでした。

 渇いた女の理想は高く美しいものでした。

 渇いた女の愛は大河のように広く深いものでした。

 ところが渇いた女の心の闇はとても深かったのです。

 渇いた女の心には、他者や親戚への激しい怒りと復讐心が渦巻いていて、そんな屑のような人間を造りだした、社会への憎悪は膨らむばかりでした。

 渇いた女は、一人でいることや仕事が無いことを酷く恐れました。 

 一人になると忌まわしい過去を思い出し、

(わたしは絶対に、親戚のような、心も魂も腐りきった人間にはならない! 人間は醜く、社会は腐敗しきっている)

 と心は怒りと憎しみで際限なく暴れるからでした。


命を削る


 渇いた女は仕事に慣れてくると出来ることの限界を感じ、介護の資格をとりました。こうして女のボランティア活動は、日増しにエスカレートしていったのです。

 渇いた女は施設で苦しむ孤独な人達ばかりか、介護する家族の苦しみや悲しみでさえも、まるで自分のことのように一緒に悩み、苦しみ、悲しみでさえも背負おうとしたのです。 

 渇いた女は、他人のために命と魂を削りつづけたのでした。

 渇いた女は、パン屋の仕事の合間にも施設の人達のことを考えました。

 渇いた女は、夜、寝る時でさえ、どうしたらもっと多くの人が幸せに暮らせるのか、と明け方まで考えました。

 渇いた女は深夜に施設から急な助けを求められることもありました。そんな時でさえも、喜んで駆けつけ、寝ないで介護をし、翌朝には時間どおりパン屋の仕事をしたのです。

 パン屋の夫婦は渇いた女の命がけのボランテイアを誇りに思っていましたが、その反面、酷く無理を重ねているようなので、とても心配していました。

 そんな親代わりの夫婦の心配をよそに、渇いた女は介護のボランティアにのめりこんでいったのです。

 

 ある日、パン屋の夫婦は心配のあまり、渇いた女に言いました。

「わたしたち夫婦は、おまえを我が子のように思っている。おまえのしていることはとても崇高で素晴らしいことだし誇りにも思っている。だが寝る時間も削り、食べる時間も惜しんでボランティアをしているおまえは、自分の命を削っているようにしか思えない。このままだと過労で倒れてしまう。他にも多くの人がボランティアに来ているのだから、少しは周囲にまかせてはどうだい」

 渇いた女は、黙って夫婦の言葉を聞いていましたが、話が終わるとすぐに返事をしました。

「ご心配をおかけしてすみません。でも毎日、目の前で多くの人が苦しみ、孤独に死んでいくのです。わたしはその死になにもできなくて悔しい。願わくば、もし切り離すことができるのならば、わたしは自分の目も口も手も足も、いや、体の全てを、命でさえも、苦しんでいる人達に分けてあげたい。目の前で苦しむ人、死に逝く人を、一人でも多く助けてあげたいのです。それがわたしの人生の使命だと思うのです」

 パン屋の夫婦は渇いた女の決意があまりにも固かったので、それ以上言葉が続きませんでした。

 その日から、ますます渇いた女は、火が付いたようにボランティアにのめりこんでいったのです。


血まみれの天使


 渇いた女が、長年ボランティアを続けるうちに、いつのまにか女の周囲に、彼女を女神のように思う人々が集まり、女を支えるようになりました。

 渇いた女は夜が明ける前から動き出し、深夜まで介護の現場とパン屋を行き来しました。

 女が施設に泊まり込めば仲間も一緒に泊まりました。女が行くところに仲間もいつも一緒でした。渇いた女は休むことなくボランティアを精力的に続けました。仲間も彼女の崇高な使命と理想を実現するために、彼女を支え続けようとしたのです。渇いた女は仲間の好意にとても感謝していたので、自分のことなど後回しにして仲間の面倒もよくみました。

 ところがある日のこと、仲間の一人が、

「家族が心配するので、ボランティアを辞めさせていただきます」

 と言って渇いた女から離れていきました。

 またある日、一人の仲間が、

「結婚するので、ボランティアを辞めます」

 と言って渇いた女から離れていきました。

 さらにまた一人、

「身も心も疲れ果てました」

 と言い残して去ったのです。

 こうして次々と、渇いた女の周囲から、仲間が去っていきました。

 それでもなお、渇いた女は、

(わたしには使命がある)

 と拘り続けたのでした。

 女の心を占めていたのは、不安と恐れでした。

 自分を愛せない渇いた女は、幼いころに受けた虐待が元で、自分の身も心も汚れきった存在としてしか思えず、ボランティアをすれば、心も魂も、肉体でさえも、清められるような錯覚に囚われていたのです。

 愛されて育てられなかった渇いた女は、愛することも愛されることもわからなかったので、愛さなければ愛されないという、強い思い込みに囚われていました。しかも渇いた女自身が、一番愛に飢えていることに、気づいていなかったのです。

(いったいこの不安や恐れはどこから来るのかしら)

 渇いた女は何かに追われる様にひた走りました。

 狂ったような自己の犠牲は病的な彼女の精神状態が作り出したものだったのです。

 当然そのしわ寄せは、周囲の仲間にいきました。彼らは渇いた女が自己犠牲して頑張れば頑張るほど自己犠牲を強いられる結果となったのです。

 ボランティアの仲間は渇いた女の使命感や高い理想を理解し、そこに惚れ込んで一緒に活動を続けたのですが、それも何年も続くと、身も心も磨り減り、後ろめたさを感じながらも、心が離れていくのでした。 

 渇いた女は、いつも自分を支えてくれる周囲の人達に、感謝することを忘れませんでした。しかし彼女は周囲の人達の好意に感謝しながらも、自分と同じことを、決し彼らにさせてはならなかったのです。もし彼女に自分を愛する心があったなら、仲間の幸せのことも考え、突き放すべきだったのです。ところが彼女は自分を愛せず、自己犠牲を当たり前のようにしていたので、仲間が無理をしていることに気づく感覚が欠如していたのでした。

 彼女を天使だの、愛の女神だのと、持ち上げていた周囲の仲間にも責任はありました。女は期待に応えようと、必要以上に無理をして、自己犠牲に拍車が掛かったからです。


もう一人の自分

 

 渇いた女には自分がありませんでした。幼い頃の暴力や虐待で、女は自分を守る為に、心とは相反する行為や思いを取らざるをえなかったのです。恐怖や辱めから一時的にでも逃れようと、自分の心を偽り、従順さを装ったり、性的に陵辱され、傷つけられた心や体の現実から目を背け、抑圧したりすることで、自分の中にもう一人の自分が出来上がってしまったのです。

 こうして渇いた女は、本当の自分の気持ちを心の奥にしまい込むことで、自分を守ってきた反面、自分の心を見失い、自分を無くしてしまったのでした。その喪失感を渇いた女は、無意識に外に求めようとしました。女の感謝から出た使命感、他人の為に役立ちたいという彼女の崇高な理想と情熱は、そこから出ていたのです。

 もちろん渇いた女は多くの人に助けられたこと、支えてもらったことに対し、心から感謝し、何か恩返しがしたいと思いました。渇いた女のボランティアが本心から湧き出たのは事実でした。その反面、苦しむ人を支え助けることで、無意識のうちに自分の存在を確かめようとしたことも事実でした。他人の為に何かをすることで、失った自分を取り戻そうとあがいていたのです。ですが、どんなに渇いた女が頑張っても、他人を通じて自分の心の土台を築くことは出来ません。自分の心の土台は、自分自身の心に向き合うことでしか確かなものとすることが出来ないからです。

 いつも孤独で自分の無い渇いた女にとって、仲間や患者さんから慕われ、必要とされるという感覚は、とても心地良く、自分が必要とされることで自分の存在を確認でき安心感に繋がりました。同じように周囲の仲間も彼女を支えることで、自分達が果たせない何かを実現できるような錯覚に囚われました。渇いた女と周囲の仲間達は共に依存しあっていたのです。彼女と仲間の間の、熱に浮かされたような自己犠牲の応酬は、依存の関係が生み出した熱狂だったのです。


 気がつくと、渇いた女の周囲には、誰一人仲間がいませんでした。

 女はどうして仲間が次々と離れていくのか理解できなくて、酷く悲しみました。そしてこのようになったのも、全て自分が悪いのだと、ますます自分を痛めつけるように、自己犠牲を自分に強いたのです。ところがどんなに人のために尽くしても、渇いた女の心の渇きが潤うことはありませんでした。

 渇いた女が自分を愛することが出来るようになるまでは。


  恋


 ある日のこと、祈る男のお店に、長い黒髪の華奢な女が来ました。

 渇いた女でした。

 女は三十代半ばになっていました。

 祈る男はその女の瞳がとても澄んで輝いていたので一目で気になりました。

 一方の渇いた女も、優しそうな祈る男の笑顔を見て、すぐに好感を持ったのです。

 渇いた女は、林檎やオレンジをバスケットに入れると、祈る男のところに持ってゆき、

「お願いします」

 と聞き取れないほど小さな声でいいました。

 祈る男はすぐに、

「ありがとうございます」

 と優しい笑顔をかえしました。

「おいくらになりますか?」

 滅多に初対面の人に笑顔を見せない渇いた女が、微笑みながら尋ねました。

 

 二人には不思議なくらい、お互いの声が耳に心地よく響くのです。


「うちのお店、初めてですよね?」

「ええ、こんなところにお店があるなんて、気づきませんでした」

「お近くですか?」

 祈る男が遠慮がちに聞くと、

「近くの教会の施設にボランティアでよく行きます」

 渇いた女はすぐに答えました。

「あの教会ですね」

 祈る男はお店から通りを隔てた、斜め前の教会を指差しました。

「あそこには沢山の苦しみを背負った方々が大勢いるのです。わたしはあの方たちの苦しみを思うと、いてもたってもいられないのです」

 ふだん滅多に心情を吐露しない渇いた女でしたが、なぜか祈る男には、心を許してしまいました。

「この果物は施設の方のために買いにこられたのですね」

 祈る男は微笑みながら果物を丁寧に袋に詰めました。

「はい、みなさん、とても楽しみにしてるのです」

 そう言うと、渇いた女はお金を払って、お店を出て行こうとしました。

 祈る男は慌てて、レジの下から苺を一パック掴むと、

「待ってください!」

 渇いた女を呼び止め、手に持った苺を彼女の買い物袋に入れました。

「困ります」

 渇いた女は、慌てて断ろうとしましたが、

「寄付させてください。施設の方々に食べていただけると、嬉しいのです」

 渇いた女は、みずみずしい苺をちらと見て、

「ありがとうございます」

 輝くような笑顔でお礼をし、教会の建物の方へ駆けて行きました。


女の懺悔


 それから七日後のことでした。

 祈る男がお店を閉めている時に、渇いた女が息せき切って駆け込んで来ました。

「あ、あの……」

 彼女の表情は前に見かけた時とは打って変わって、何か思い詰めたように暗く沈んでいるのです。

「どうなさったのですか?」

 祈る男が遠慮がちに聞きました。

 渇いた女は他に誰もいないのを確認して、一気に話し始めました。

「今日、わたしが介護していた利用者さんが、一度に三人も亡くなったのです。

 苦しみながら旅立っていかれたので、本当に辛かったのです。

 苦しみを代わってあげたかった。自分の命をあげたかった。でも苦しみや死を前にしてわたしは無力でした」

 渇いた女の話を聞いて、祈る男は思わず手を合わせました。

「あなたは無力じゃありません。あなたの愛は、お亡くなりになった方々に届いていますよ。とても感謝されているはずです。自分を責めないで下さい」

 祈る男の優しい言葉に、渇いた女も励まされたのか、少し落ち着いたようでした。

「ごめんなさい。突然でびっくりされたでしょうね」

 祈る男は小さく微笑み、

「そんなことはありません。人の死、それも一度に三人もの方がお亡くなりになれば、誰も気が動転します。しかも、あなたが毎日のように介護されていた患者さんだったなら、なおのことでしょう」

 と女を労わりました。

「ありがとう……」

 沈黙の後、渇いた女の顔が少し晴れやかになると、祈る男に会釈をして帰っていきました。

 祈る男は、彼女の悲しみが少しでも癒えるよう、心の中で祈りました。

 その日から、渇いた女は祈る男のお店によく買い物に来るようになりました。決まって果物を買って帰るのですが、渇いた女から話を聞くうちに、パン屋の仕事をしていて、仕事がない日はほとんど一日中施設の中で介護や看護のボランティアをしていることを知りました。

 祈る男は、渇いた女の優しさと、命がけの使命感にとても心を動かされました。

 渇いた女も祈る男の深い優しさが、本物だと直感的に感じていました。

 やがて渇いた女は祈る男に好意をもちました。

 祈る男も渇いた女を好ましいと思うようになりました。

 ところが渇いた女が恋心を持った瞬間、彼女の激しい苦悩がはじまりました。

 性的な虐待を受けた自分の忌まわしい過去の出来事が、渇いた女の心を苦しめたのです。


 もし彼にあたしの醜い過去の出来事をすべて話したら、彼は気味悪がってあたしから去っていくにちがいない。それならばいっそ、このまま気持ちを伝えずにいたほうがいいのかもしれない。でも、彼は本当に愛に満ちている人のようだから、もしかしたら、あたしの忌まわしい過去を全て受け入れてくれるかもしれない。


 そんな渇いた女の苦しみなど知る由もなく、祈る男は彼女と話せることがとても楽しみで、彼女の笑顔を見ただけで、幸せを感じるほど好きになっていました。

 二人が出会って半年もすると、少しの時間を見つけては、浜辺で一緒に散歩をしたり、食事をしたりしてデートを楽しみました。

 そんな幸せな二人でしたが、一年たってもまだお互いの気持ちを打ち明けられずにいました。

 祈る男も自分の過去に後ろめたさを感じ、渇いた女も自分の悲しい過去を引きずって乗り越えきれずにいました。二人は生まれ育った境遇は異なれども、自分を愛せないという点では似たもの同士だったのです。


悲劇


 ある日、祈る男は思いました。

 確かに自分の過去は親不孝な情けない過去だったけど、今は改心して愛と祈りを心の柱として生きている。もし彼女に過去の全を話して嫌われら、その時は、彼女から身を引こう。酷い生き方をしてきた報いだと思って神さまの罰を受けよう。

 でも……無理に白黒はっきりさせるより、彼女と今のままの関係でいるほうがいいのだろうか……。

 

 祈る男も渇いた女もお互いに愛し合っていたのに、過去にこだわり過ぎて自分を愛し自分を信頼出来ないばかりか、お互いを信じ切ることも出来ないでいたのです。 


 時は無駄に過ぎ、とうとう二人に悲劇が訪れてしまいます。


 心の中では深く愛し合っている二人でしたが、ある日、祈る男が意を決して渇いた女に気持ちを伝えようとすると、渇いた女は祈る男の気持ちを察して恐れをなし、会ってはくれなくなりました。

 渇いた女は過去の自分のことを悲観しすぎて心を閉ざしてしまったのです。

 祈る男は何度も彼女をデートに誘いましたが、家や施設に引きこもったまま会ってくれません。

 とうとうある日のこと、自分の忌まわしい過去の重圧に耐えかねた渇いた女は、町から姿を消してしまったのです。

 

 祈る男は悲しみにくれました。

 渇いた女がなぜ姿を消したのか理由は分かりませんでしたが、自分が彼女を追い詰めたのだと思い、自分を酷く責め、来る日も来る日も悲しみました。

 

 姿を消した渇いた女は、遠い南の町に移り住み、その町の教会の施設で、介護の仕事についていました。

 女は過去に怯え逃げ回り、彼の愛を受け止められなかった自分を情けなく思いました。しかも自分は愛される価値のない女だと激しく自分を責め、穢れた女だと嫌う気持ちは、ますます大きくなりました。

 

 生まれてこなければよかった。

 命なんていらない。

 これからは、苦しんでいる人たちに命を捧げよう。 

 

 こうして渇いた女は、さらに激しく自分を追い詰め、痛めつけ、命を削りながら仕事に没頭していったのです。


  祈り


 渇いた女が町を去って、祈る男は仕事に集中できない日が続きました。

 お店では笑顔を欠かさず仕事をしていましたが、心は悲しみと罪悪感でいっぱいでした。

 仕事休みの日曜日、祈る男は渇いた女がいた教会に行ってみました。パン屋の夫婦も行方を捜していたからです。

 教会の建物に入ると、日曜日の礼拝は既に終わっていて、礼拝堂に人一人いません。

 男は祭壇に奉られた聖母マリアの前で跪き祈りました。

 

 マリア様、どうか、彼女をお守り下さい。


 その時、背後に人の気配を感じました。

 祈る男が振り向くと神父様でした。

 神父様は祈る男の透き通るような瞳を見つめ、

「純粋な心をお持ちのようですね」

 と思いがけないことを言ったのです。

「わたしの心が」

 荒れた過去を恥じていた男には、信じられない言葉でした。

「あなたの澄んだ瞳でわかります」

 神父様はにっこり微笑みました。

「わたしは汚れきった人間です。若い頃、人に言えないほどの罪を犯し、母を苦しめました」

「でも、今のあなたの目は、とても澄みきって穏やかです」

「わたしは自分が嫌でなりません」

 祈る男は今の気持ちを正直に伝えました。

「自分を赦しなさい。自分を抱きしめてあげなさい。自分を愛することができれば、人を愛することが出来るようになります」

 神父様はまるで祈る男の心の中を、全て読んでいるかのように語りはじめました。

「人を愛するには、まず自分を愛することです。自分を愛せる人は、自分を愛するように、人を愛せるのです。どんな人でも過ちを犯すものです。どんな人でも愚かしいことや、胸えぐられる悲しい経験をするものです。だからといって、いつまでも過去の自分の姿に囚われてはなりません。悲しみ憎しみの虜になってはいけません。今のあなたは、もうその事に気づき同じ過ちを繰り返してはいないでしょう。自分を責めてもなんの解決にもなりません。自分を責めるという行為は愛から程遠いものです。あなたが今一番にすべきことは、自分を責めることを止め、悲しみも憎しみも過ちでさえも赦し手放すことです。人はそうして毎日多くのことを学び、進化する生き物なのです。あなたの苦しみがどんなものなのか、私にはわかりません。ですがあなたが真実の愛に目覚めるために、自分を赦し自分を愛する勇気を持つことが必要なのです」

 神父様が話し終えると、祈る男はすぐに問いかけました。

「わたしは愛する人を失いました。わたしは愛する彼女の気持ちを察していたのに、逃げ続けていたのです。わたしは過去の自分が赦せません。とても恥ずかしく情けない人間でした。だから嫌われるのではないかと、不安や恐れで、気持ちを伝えることができなくて彼女を失望させてしまったのです。私たちは一年間も心を通わせていたはずなのに」 

 そう言って祈る男が涙を浮かべると、神父様から意外な答えが返ってきました。

「その女性も同じように、辛い思いをしていたのかもしれませんよ」

「彼女が私と同じように辛い思い……」

 祈る男はどういう意味なのかまったく理解できません。

 神父様は続けました。

「人間は心が通い合い、魂が結びつくと、黙っていても自然にお互いのことがわかるようになるものです。あなた方が真に愛し合っていたのなら、あなたが感じていたことは、彼女も感じていたはずです。あなたが愛した女性が、あなたの気持ちを聞かないまま姿を消したのは、彼女もあなたと同じように、心の闇を打ち明けることができなくて、苦しんでいたのかもしれません。彼女も自分を愛せずに苦しんでいたかもしれないのです」 

 祈る男は、神父様の言葉を本当のことのように感じました。

「もしそうなら、わたしはどうすればよいのでしょうか? 実は彼女はこの教会の施設でボランティアをしていました。わたしは彼女の行方を知りたいのです。そして彼女に自分の気持ちを伝えたい」 

 神父様は少し沈黙し、祈る男の涙で潤んだ瞳を見つめました。

「彼女が自分を愛することが出来るようになるまで、今はそっとしてあげてはいかがですか。それこそが愛だと思うのですが」 

 祈る男はがっかり肩を落としました。

「神父様、私には彼女を待つことしか出来ないのでしょうか?」 

 神父様は優しい眼差しで、

「彼女を愛しているのなら彼女のために祈るのです。彼女が自分を愛せるまで。祈りは必ず彼女に届きます」

 そういい残して静かに立ち去りました。 

 祈る男はすぐさま振り返り、祭壇の聖母マリア様の像に祈りました。

「マリア様、どうか彼女をお守りください。彼女が幸せでありますように」

 その日から、祈る男は、来る日も、彼女の幸せと幸福を祈りました。

 ただし祈るときは、自分の思いを決して口にしませんでした。

 神父様の言葉から、それが自分のエゴだと気づいたからでした。

 彼女を本当に愛しているのなら、ただひたすら彼女の幸せを祈ることが真実の愛だと気づいたのでした。


  愛に満たされて


 渇いた女が新しい町に来て二年が経ちました。

 命を削りながら介護の仕事を続けていた彼女に、とうとう限界がおとずれたのです。

 ある日、女の体に異変が起きました。

 

 左手が痺れるわ……目の前が白い……。


「だいじょうぶ?」

 シスター達が駆け寄りました。

「え、ええ……」

「顔色が悪いわ。少し休みなさい」

「あ、ありが……」

 渇いた女は言葉が出なくなり、左から崩れるように倒れました。

「急いで救急車を」

 渇いた女を脳内出血が襲ったのです。


 渇いた女は夢を見ていました。

 苦しかった子供の頃の憎しみと悲しみに満ちた思い出。

 その次にでてきたのは優しかったパン屋の夫婦でした。

 

 お父様、お母様、愛をたくさん注いでくださってありがとうございます。

 こんな穢れたわたしでも愛される価値があることを教えてくれて。

  

 渇いた女は涙を流しました。

 

 次に出てきたのは、死出の旅を見送った沢山の人たちの安らかな寝顔でした。


 みんな大変でしたね。安心して眠って下さい。

 

 渇いた女の目が涙で潤みました。

 最後にとても心地よい温かさを感じました。


 愛しくて切なくて幸せな気持ち。

 

 渇いた女は祈る男の愛を感じました。

 

 あの方もわたしを愛してくださっていた。

 

 渇いた女の目から涙が溢れ落ちました。

 遠く離れていても祈る男の祈りは彼女に届いていたのです。 

 生死の境を彷徨いながら女は夢の中で神様に祈りました。

 

 神様どうか彼にもう一度だけ会わせて下さい。

 

 すると、心地よい温かさと安らぎに包まれました。

 微睡みのなかで母親の子守歌が聞こえました。

 母親が優しい眼差しで彼女を見つめているのです。

 渇いた女は、眠りにおちました。

 今度はひまわり畑の中で父親に肩車をしてもらっていました。

 渇いた女はとても大きな安心感に浸りました。


 あたしは愛されている。


 渇いた女は自分を愛し皆の愛を受け取りました。

 その瞬間、

「ここは……」

 渇いた女は目を開けました。

「手術が成功したのよ」

 シスターが目に涙を浮かべていました。


 一年後、渇いた女の健康は殆ど回復し、麻痺していた左足はすり足ですが、何とか支えなしで歩けるようになりました。 

 女は神父様やシスターをはじめ、お世話になった人たちにお礼を言うと、町を去り、祈る男がいる町へ向かったのでした。

 渇いた女の新しい人生が始まったのです。

 町に着いた渇いた女は、真っ先に祈る男の店に向かいました。

 お店が見えてくると、立ち止まり、中の様子を窺いました。

 祈る男の姿がすぐに目に飛び込んできました。

 女の胸はたちまち熱くなり、大粒の涙がこぼれ落ちました。

 涙は渇いた女にとって、初めて自分に流す愛の涙でした。

 長い長い悲しみと苦しみの果てに、渇いた心が愛で一杯に満たされたのです。

 彼が振り向き微笑みました。

 彼女も微笑みました。

 女は左足を少し擦りながら、ゆっくりとお店に向かって歩き出しました。

 

                                      了

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

祈る男と渇いた女 あきちか @akichica

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ