現代社会の疎外感を通して読む「赤はなイズム」

僕が赤はな氏の作品を読むようになったのは、タイトルは忘れたが、異世界での孤児院を舞台にした作品からだったような気がする。

その作中舞台で主人公を務めるキャラクターと、今回の作品に出てくる主人公達には共通点がある、と僕は気がついた。

赤はな氏の主人公造形は、はっきり言って異端である。

通常主人公というものは、読者が感情移入しやすいようにするため、健全で健康的な社会生活が送れているキャラが務めることが多い。例を上げれば枚挙にいとまがないが、少なくとも売れているアニメや小説の主人公が「社会」というものを理解しようと奮闘している傾向にあることは、まず疑いようのない事実である。

だが赤はな氏の主人公は違う。彼らは「社会」というものを理解するどころか、むしろその完全な理解からはかけ離れていく方向に思考の歯車を回していくのだ。

ここが彼の作品の面白いところである。彼の作品の主人公は皆、自分が人間社会の輪からはじき出された”アウトサイダー”であることを自覚しながら、進んでその社会を理解しようとせず、社会というものを「自分とは全く別の場所で回っている、作動原理が意味不明な営み」のように捉えている。

昭和には人間の幸福、社会、営みというものをとことん考え詰め、「世間とは個人である」という名言を残し、この世を去った文豪が居た。(誰のことがすぐわかるとは思うが、念の為実名を出すのは避ける)

人間社会に溶け込めない人間は往々にして、自分なりの「社会の本質」とかいうものを作り出しがちである。僕は別にその行為自体は否定しないし、例の昭和の文豪も、一応人間社会について答え(らしきもの)を出した点については評価されるべきだろう。

だが赤はな氏の主人公はそれすらしない。彼らは社会のことを「自分とは無関係に回る小宇宙で、自分はそれと関わる星のもとには生まれついていない」とでもいいたげな、ある種悲劇のヒロイン的な気分に浸っていたりするパターンも多い。そう考えている自分自身も立派な社会の一員である、ということを失念しているのである。

赤はな氏が自らの作品で何を成し遂げようとしているのか。それは僕が”赤はなイズム”と呼ぶ、部分的にニヒリズムを継承しつつ、しかしそれとは違う独創的な彼の思想によって明らかとなる。

人間の実存、幸福、営み自体を肯定しつつ、しかしそれとは相容れない自分の性格を冷静に見ている。

彼の”赤はなイズム”はきっと、インターネットの発明による「情報のビックバン」によって引き起こされた現代社会の歪に溶け込んで、人々の心のなかに伝播していくであろう。