贄月と桜の契り~稀血の彼女は神使の旦那に溺愛される~
嘉神かろ
第1話 月夜に桜舞う
月明りの静けさを荒れた息遣いと地面を蹴る音が乱す。住宅街を駆け抜ける影は二つ。その一方、前を走る
「はぁっ、はぁっ、何なの、あれっ……!」
美乃梨は勢いを殺さず角を曲がる。ついでに後ろを確認すると、暗やみに赤く輝く禍々しい双眸と、黒いヘドロの塊のような悍ましい体躯が見えた。ヘドロは後ろ足の無い蜥蜴のような形をとっていて、それの動くたびに飛び散る肉片が草木を枯らしている。
(もう少し、あの角を曲がれば……!)
よく知った町の地図を思い浮かべて、目的地を確認する。向かう先は、時の神を祀る神社だ。
彼女は
「まぁ゛れ、ぢぃ……!」
追いかけてくる怪物の叫びに、美乃梨はまたかと毒づく。幼い頃より彼女を襲う存在は、皆揃ってそう言うのだ。その度に、彼女は神社へ逃げ込んで事なきを得ていた。
だから今度も、と美乃梨は必死に逃げる。後ろが気になるが、振り返ればそれだけ距離を詰められると知っていた。
この五十メートルを駆け抜ければ、あとは少し長い階段だけ。頂上の鳥居さえ潜ってしまえば、死から逃れられるはずだった。
(あと、ちょっと!)
徐々に近づいてくる呻り声。今にも怪物の息遣いが聞こえてきそうな距離。幾度となく経験した窮地とはいえ、平和な日本に生きる大学生に慣れることのできるものではない。
死の恐怖が身を強張らせ、僅かに動きを狂わせる。その小さな狂いが、さらに大きな狂いを生んだ。
「あっ……」
美乃梨の足が縺れる。その身体が一瞬宙に舞う。
彼女の身体は暗い地面を転がって、数瞬の
痛む体に鞭を打ち、急いで上体を起こせば、もう、すぐそこに神社の石段があった。けれど、そのあと少しが、遠すぎた。
「よごぜ、まれぢぃ……」
振り向けば怪物は、十メートルも離れていない。
それでもどうにか逃げようとして、美乃梨は足に力を込めようとする。しかし震えるばかりで、一向に立ち上がれない。立ち上がることができない。
「いや……」
柄にもなく、美乃梨の目尻に涙が滲む。
怪物の口がにやりと歪んだ。勝利を確信したような、しかし歪な笑みに、上手く呼吸ができない。
美乃梨の脳裏を駆け巡ったのは、たった二十年の日々だ。幸も不幸も全てが思い起こされて、最後に浮かんだのは、彼女に生き方を教えた祖母の顔だった。
(お祖母ちゃん、ごめん……)
後ろ足の無いヘドロ蜥蜴は、美乃梨を丸のみできるほどに大きく口を開けて、彼女へと覆いかぶさる。
どう足掻こうと、生きる道はないように思われた。瞳に溢れる恐怖はそのままに、全てを諦め、死を受け入れる。只人に過ぎない彼女にできるのはそれだけだ。月明かりを映していた
暗く染まった眼前に、薄紅色がひらりと舞い落ちた。美乃梨がそれを桜の花びらだと理解するよりも早く、真っ白な光が化物と彼女を別つ。
「良かった。今度は、間に合った」
知らない男の声だった。光に眩んだ目は、その正体を彼女に教えようとしない。
ようやく彼女の視力が戻った時、そこには真っ白な
ヘドロ蜥蜴から彼女を庇うように立つ男。その周囲には桜が舞っており、薄紅が青の月明かりによく映える。夜闇に淡く光るそれが先程見たものだと、美乃梨はようやく理解した。
まるで自ら光を放っているようなその姿を見ても、彼女には誰か分からない。表情すらも窺えない。ただ、彼が美乃梨を守ろうとしているということと、人間ではないということだけは分かった。その首元に蛇の様な鱗があるのが見えたのだ。
「ぞの気配ぃ、時神のづがい、か……」
「堕ちても元は神か。ならば、この場で争うことの意味が分からないはずもあるまい」
化物の目が憎々し気に細められる。鮮血のような色も相まって、憎悪の炎が燃えているふうにも見えた。
それでも化物はゆっくりと後ずさりして、踵を返していった。
狩衣の男は化物の消えた方角を暫く睨みつけていたが、戻ってくる気配がないと知ると、一つ息を吐いて振り返る。首元に蛇の鱗を持つその男の顔には、狼を象った木面が被せられていた。
「……綺麗」
漏れ出た美乃梨の呟きには、思わずといった色があった。その見つめる先は、赤の濃い桜色の瞳。紅よりは薄く、桜よりは濃い色だ。淡く光るその瞳はつい先ほどの化物と同じような色であるのに、酷く美しく見えた。
狼面の男は戸惑ったような様子を見せたあと、美乃梨に片手を差し出す。見た目だけで言えば人と変わらない、美しい手だ。
「怪我は、ないだろうか」
心の底から案ずるような声だった。しかし相手は、狼の木面を被った、明らかに人ならざる存在だ。美乃梨は少し躊躇してしまって、すぐにはその手を取れない。
そんな彼女を見て、木面の男は仮面を取って見せた。美乃梨の予想に反して人間と同じような顔が現れる。いや、ある意味では人外じみているといって良い。男の素顔は、あまりに整っていた。白魚と評してなんら偽りない、きめ細かい肌。艶めく白髪。桜色の唇は薄く、美乃梨の美しいと言った紅桜の瞳は切れ長の優しげな目に収まっている。名のある人形師がその生涯をかけて作り上げたと言われても疑わないほどに完成されていた。
しかしその端正な顔に浮かぶのは、困ったような、どこか悲しむような笑みだ。それ自身の行いによるものだと知って、美乃梨は慌てて差し出された手を掴む。その感触も、彼女のよく知る、人間の手のものであった。
「えっと、ありがとう、ございます。大丈夫です」
緊張を隠しきれない声だったが、男が気にした様子はない。美乃梨はなんだか申し訳なくなって、眉根を下げる。
「そうか、なら良かっ――」
男は不意に言葉を止めたかと思うと、眉間に皺を寄せる。彼が睨むように見ている位置に気が付いて、美乃梨は自身の右手へ目をやった。
「……すまない。少し、遅かったようだ」
その手の甲には、目のような痣が浮かんでいた。
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