荒和魂のアリア
ヒノカグツチ
プロローグ
『異世界に行くなら何がほしい?』
それは、あまりに唐突な問いかけだった。
夏の日差しがじりじりと肌を焼く午後。照りつける太陽と蝉の鳴き声が、うるさくもどこか安心感を与えてくれる、そんな日常の一コマだった。
いつも通りの、何の変哲もない交差点。信号待ちをしていた俺の視界の端に、突如として“それ”は現れた。
青い制服を着た少年。中学生くらいだろうか。白い半袖シャツに紺のズボン、肩から小さなリュックを背負っている。手にはA4サイズのボードとシャーペン。ぱっと見れば、どこにでもいるようなアンケート係……のように見えた。
けれど、俺は思わず足を止めてしまった。いや、“止められた”と言った方が正しい。なぜならその登場があまりに“不自然”だったからだ。
音がなかった。
足音も、近づいてくる気配すらもない。ただ、気がついた時にはもう、目の前に立っていた。
「あれ……?」
思わず声が漏れる。
「大丈夫ですか?」
少年の問いかけに、思考がようやく追いつく。そうか、声をかけられたのか。だが——。
何がどう“大丈夫”なのか。
「え? あ、ああ……ごめん、ちょっと驚いて」
「ふふっ、すみません。突然話しかけてしまって」
少年はにこやかに微笑んだ。なんというか……妙に整った顔立ちで、涼しげな笑顔が板についている。けれどその笑顔は、少し作り物めいて見えた。
まるで、喜怒哀楽を“模倣”しているような——そんな違和感。
「それでですね、今、“異世界に行くなら何がほしい?”というアンケートをやってるんです。お答えいただけませんか?」
「……異世界?」
俺は思わず聞き返していた。まるでネットの掲示板のネタスレでも読んでいるかのような突飛な内容だったからだ。
「はい! 異世界。転生とか、転移とか、そういうやつです。よくあるじゃないですか。最近流行りの。」
……ああ、なるほど。そういうコンセプトなのか。
「夏休みの自由研究とか、そういうやつ?」
「まぁ、そんなようなものです!」
少年は元気よく答えたが、その口調もどこか浮いている。妙に芝居がかっているというか、セリフを読んでいるような。
俺は少しだけ笑って、肩をすくめた。
「まさか、そう来るとは思わなかったな……」
もっと、「最近の暑さについてどう思いますか?」とか「推しはいますか?」とか、そういうテンプレな質問を想像していた。だが、異世界転移の願望を尋ねてくるとは。
意表を突かれて、逆に興味が湧いてくる。
「ん〜……俺なら、そうだな……“オリキャラになれるスキル”が欲しいかな」
「オリキャラ? え、それって……もっとこう、“最強の剣”とか“チートスキル”とか、そういうのじゃなくていいんですか?」
少年の言葉は、まるで“予定されたツッコミ”のようだった。
俺は苦笑しつつ、首を横に振る。
「いやいや。“なりたい自分”になれるって、最高じゃないか」
そう、俺は昔から“そういう遊び”が好きだった。
オープンワールドのRPGでも、MMOでも、TRPGでも——俺はいつだって“自分で作ったキャラ”を演じるのが楽しかった。
名前、出身、武器、価値観、クセ、過去のトラウマ、口癖、好きな色まで。細かく設定を練って、まるで一人の人間として“そのキャラ”を生きる。
現実の自分が苦手だったぶん、俺はそうやって、理想や想像の中に生きるのが得意だった。
「……あいつら、今も俺の中にいる気がするよ」
俺はポツリと呟いた。半ば冗談のつもりだったが、少年は目を丸くして、それからにっこりと笑った。
「やっぱり……!」
「え?」
その瞬間——少年が手元のボールペンを「カチリ」と鳴らした。
そこで、世界が、音もなく崩れ始めた。
世界が——崩れていく。
足元から、じわじわと色が抜けていった。まるで古い紙が日に焼けて白んでいくように、視界の端から“現実”が色褪せていく。
音が消えた。風の音、蝉の声、車のエンジン音、全部。
重力までも薄くなっていく感覚。浮遊感……いや、ちがう。これは、落下だ。
「おーちーるーよー」
あの少年の、どこか緩んだ声が遠ざかっていった。
視界はただの光に包まれ、まぶしさも痛みもなかった。ただ、そこに“いる”という感覚だけがあった。
「やあ、目が覚めた?」
軽やかな声が、どこか懐かしい響きで俺の耳に届いた。
その声の主は、俺の前に立つ純白な服を纏った色白な少年──いや、神だった。
目の前の神は、確かに見覚えがある。
駅前で話しかけてきた、あの「アンケートの少年」だ。
「気づいた? ふふ、あの時はちょっと遊び心でやってみたんだ。あれ、僕。アルって呼ばれてる神様だよ。よろしくね!」
そう言って、彼──アル神は、ニカッと屈託なく笑った。
そしてその隣には、無言のまま立つもう一柱の存在がいた。
漆黒の祭服に包まれた褐色の青年のような姿。透き通るように冷たい目で、こちらをじっと見下ろしている。
「俺はナイ。この場では“理”を司る存在とでも思っておけ」
その口調は平坦で、どこにも感情の波がない。
「さて、説明しようかなー! 君、ちょっと珍しい存在なんだよ。君の世界基準だと、かなり“イレギュラー”」
アル神が指を立て、ぴょんと跳ねるように一歩前へ。
「君の中、見せてもらったよ。たくさんの魂が、綺麗に住んでる。誰かが創ったキャラクター? それとも……憧れた自分? でも、それが現実の人格と結びついて、ちゃんと動いてるのがすごい」
「通常、そのような構造は不安定になり、自己崩壊を起こす。お前は“安定している”がゆえに、危険だ。こちらの世界においては特異点になり得る」
ナイがそう言うと、アルが小さく舌を出す。
「うわ、ナイったら脅かしすぎ。要するに――君、こっちの世界じゃ放っておけない存在ってこと」
俺は言葉が出なかった。
魂の構造? 複数の人格? 自分の中に、そんなものがあったのか……?
いや、確かに。自分の中で“声”がすることは、昔からあった。感情や視点が自分のものじゃないように感じることも。
でも、それが“神に干渉されるレベル”だったなんて。
「ね、ここに転移してもらったのは、そういうわけ。世界を救うため、とかじゃないよ。君自身の構造に、僕が興味を持ったから。このままだと君は排除されていたからね。」
アルが優しく言う。
「この世界なら、君が特異点にならないようにちゃんと生きられる。」
「……異常の排除対象ではなく、観測の対象として留保した。それが今回の措置の本質だ」
ナイが補足するように言葉を続けた。
「だから、お前に力を与える。“変身”という形で。元々ある“憑依”というスキル。これは精霊や妖精を身に宿す身体強化系のスキルだが、これを“顕現”というスキルに昇華させて魂をこのスキルに統合させる。」
その言葉に呼応するように、アルが指を鳴らす。
目の前に、淡い光をまとった魔法陣がゆっくりと展開されていく。幾重にも重なる円と線が組み合わさり、俺を中心に浮かび上がった。
すると、俺の体から複数の光の玉がすぅっと抜け出してきた。赤、青、緑、紫——どれも違った色合いで、生命のように脈動している。それぞれが魔法陣の中に静かに収まっていく。
ナイが指をゆっくりと動かす。何かを操作しているようだった。すると魔法陣がふっと音もなく起動し、玉たちが回転を始めた。
回転とともに強い光を放ち、色は次第に混ざり合っていく。そしてついに、すべてが一つに融合し、眩い黄金の玉となった。
それがふわりと浮かび上がり、すぅっと俺の胸元へと戻っていく。
「……これで、“顕現”...いや“神魂顕現”は君の一部になった」
アルが微笑みながら言った。
「でも、使うのは君自身だからね。僕らはあくまで、君が君でいるための“土台”を整えただけさ」
ナイも静かに頷く。
「……以降の運命は、己で定めろ。干渉は、ここまでだ」
ナイの言葉が静かに空気へ溶けた瞬間、俺の足元に魔法陣が起動して輝き始めた。
「そろそろ時間だね」
アルがそう言った。いたずらっ子のような微笑みはそのままに、どこか名残惜しそうな声音だった。
「転移は一瞬だよ。痛くも苦しくもない。ただ、ちょっと——」
彼が何か言いかけた瞬間、視界の色が反転する。上下の感覚がなくなり、身体がふわりと浮いたような錯覚に囚われた。
「——ちょっと、さみしくなるかもね」
その言葉を最後に、あらゆる音が消えた。
時間も空間も、ただ光に溶けていく。思考だけが浮かんでいて、身体があるのかもわからない。
やがて光が収束し、風の感触が戻ってきた。
目を開けると——そこは、見たこともない空の下だった。
深い青の空に、銀色の雲がたなびいている。澄んだ空気には、どこか甘い花のような香りが混じっていた。気づけば俺は草むらに寝転がっていて、身体を起こすと——中世ヨーロッパを思わせる街並みが目に飛び込んできた。石造りの建物が並び、遠くには山、川、そして尖塔のようなものまで見える。
——ここが、新しい世界。
「……はぁ」
息をついた。胸の奥が、ほんの少しだけ、軽くなった気がした。
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魔法陣が消えると、祭壇の上に残された空気だけが、かすかに揺れた。
しばらく無言のまま、ナイ神はその場を見つめていた。感情があるのか、ないのか。その表情からは読み取れない。
「……終わったな」
ぽつりと呟くと、隣にいたアル神がふっと息をついた。
「うん、なんとか間に合った。あのままだと、ほんとに消されちゃうところだったし」
祭壇の階段に腰を下ろして、アルは指をひょいひょいと振る。どこかのんびりした様子で、少年らしい軽さがその動作に滲んでいた。
「……お前は、なぜあの人間にそこまで肩入れする」
「肩入れってほどじゃないよ。ただ……見たことないタイプだったからさ。あんな風に魂が並列で動いてて、それでいて崩壊してないなんて、普通ありえないでしょ?」
ナイは目を細める。理を司る彼にとって、“普通ではない”という言葉は、即ち危険の兆しだ。
「危うい構造だ。神ならばともかく、人の身で保てるものではない」
「だから移したんじゃん。こっちの世界なら、まだ可能性がある」
アルは小さく笑う。けれどその目は、冗談を言っているときのものではなかった。
「ボクが拾わなかったら、誰か別の神が拾ってたかもしれないし。そっちの方が、たぶん最悪だったよ?」
「お前のしたことも“最善”とは言えん」
ナイは淡々と言い放ったが、それでもアルの言葉を否定するわけではなかった。
二人の間に静かな間が落ちる。
外では、風がステンドグラスを揺らし、青い光が教会の床を染めている。
「でも、少し楽しみだよ。あの子、どうなるのか」
ぽつりと、アルが言った。
ナイは何も言わなかった。ただ、その視線はどこか遠くを見つめていた。
新たな世界に降り立った、あの特異な魂が向かう先を。
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