2-6 開始

 異形の“それ”まで、あと1km。


 距離を詰めるごとに、目に映る輪郭はますます不明瞭になり、ただ黒と紫の塊のようにうごめいていた。


 大気が濁る。ざわめく地面。足元から立ちのぼる不快な圧力が、皮膚をじわじわと這い上がる。



──本能的な嫌悪感しか感じない。



 そいつの身体からは絶え間なく黒い霧が漏れ、どこからともなく地を這うような呻き声が響いている。濃紫の肌には三つの頭部――仮面をかぶった人間の顔、それに獣のような角を持つ牛と羊の顔が絡みつくように存在していた。



 腕は六本。それぞれに握られた大剣、鎖、鉤爪から、腐臭を放つ体液が滴り、触れた空間を歪ませている。




「…趣味、悪すぎだろうが。」



 レインは思わず吐き捨てた。口調は軽いが、額に浮いた汗が状況の異常性を物語っていた。




「この距離で攻撃してこない…。考えられる可能性は四つあります。」



 アレックスの声は冷たい水のように澄んでいた。乱れはない。けれど、目の奥に宿る強い緋色は確かに、激しく燃えていた。




「一つ、小さな目標には反応できない。二つ、我々を正確に捕捉できていない。三つ、攻撃するに値しない存在と判断している。四つ…狙いは、あくまでこの国の“中枢”だということです。」



 アレックスは十年以上、信仰の頂点に君臨する教皇を務めている。万人に慈愛を説きながらも、誰より冷徹に真理を見抜く眼を持っていた。




「さて、どれが正解でしょう?」





 柔らかな微笑みは、どこまでも美しく、だからこそ不気味だった。



 



「神の二面性…和御魂ニギミタマ荒御魂アラミタマ。神とは対立する二つの神性を持つと、方術では教わりました。ですが、聖下を見ているとわかりますよ。」


 シオンが扇子を畳み、その先端を“それ”に向ける。


 そして、その紫色の瞳に彼の姿を映す。長くウェーブのかかった緋色の髪が風にそよいだ。



「その微笑みは、救いにもなれば──破滅にもなる。命令オーダーを。十二騎士第三位、緋色の教皇。」




 言葉を受け、アレックスの瞳がわずかに細められる。



「これは足止めだ。時間稼ぎに徹する。作戦は先ほど伝えた手順通り。制限時間は…四十秒。」


「移動時間は?」


「五秒で十分だ、六位レイン。」


「ははっ、最高にイカれてやがる…。」


 レインが唇を歪めて笑う。


「魔法陣による転送は?」


「無駄です。展開・着地・攻撃準備に数秒かかる。その間に状況が変わる。即時行動が最適と判断しました。」


「では、強かな三位聖下の提案に乗りましょう。」




 シオンが肩をすくめ、風に香が舞った。




「では──作戦、開始。」





 次の瞬間、空を裂いて三つの影が宙を舞う。


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