第2話 喪服の死神と角部屋の女の子
花を変えるのが仕事だった。
ここいらでは、一、二を争う大きな病院の、西病棟の三階。窓から山際の変電所がよく見える、角部屋の花だ。洗濯屋を後にした少年は、昨日と変わらずその病室の前に立っていた。いつもと違うのは両手に花がないことと、病室のネームプレートが外れていることだけだ。
それ以外は、ぜんぶいつも通り。
ナースステーションの喧噪も届かない静かな廊下で、少年は深く息を吸った。目をつむって、それを吐き出して。最後にもう一度深呼吸をしてから、少年はようやく、病室の扉に手をかける。
ガラリ、と開けてしまってから、ノックをするべきだったことに思い至った。
「あら?」
白いベッドの上に青白い入院服を着た少女が座っている。髪は、少年の記憶通り、腰のあたりまで長く伸びている。けれど、その美しい黒髪が揺れているのは、ずいぶんと久しぶりだ。
ぱちくり、と少女は大きな目を丸くして瞬く。
「お見舞いなんて、私初めてよ」
少女は目を細めて、唇をかすかに上げる。
あぁ、そうだ。
彼女は、確かにこんな声だった。
二年ぶりに聞いた声に違和感は無い。染み入るような懐かしさが込み上げる。
「初めまして。俺は、お見舞いではありません」
少年はネームプレートの外された病室に、一歩、足を踏み入れる。二年前に死んだとき、死にきれなかった少年は今、その頃とはまったく別の姿を与えられている。本当は初めましてじゃないけれど、死神が死人に前世を明かすのはルール違反だ。
「お見舞いじゃいのに、レディの病室に勝手に入ってきたのかしら」
少女は、年齢に見合わない大人びた仕草で、ゆるく丸めた手を口元に運ぶ。目を伏せて、くすりと笑う。それが、相手をからかい半分で威圧するときの彼女の癖だと知っている。髪が伸びたこと以外はすべて、記憶にある彼女のままだ。
「壁をすり抜けて入ってきた方が、好みでしたか?」
「あなた、壁をすり抜けられるの?」
「ええ、まぁ。あんまりやると怒られるので、今はやりませんが」
「いやよ。面白そうだからやってみせて」
少女は身を乗り出して強請る。そんな風に目を輝かせられると、どうしたって弱い。
「はぁ……。一度だけですよ」
少年は降参するように、両手を顔の横にあげる。それから、すたすたと扉の方へと足を進め、小指につけられた金の指輪をそっと外す。
「わっ」
少年の体が半透明になり、ふわふわと地面から離れる。宙を泳ぐように進み、少年はそのまま、壁をすり抜けてみせた。きちんと廊下で体勢を整えてから、金の指輪を左の小指にはめなおす。
これは、死神に支給されている秘密道具のひとつだ。死人の魂を無事に洗濯屋に送り届けるため、必要があれば使っていいことになっている。
(ま。今のが《必要があれば》に該当するかは、俺と本部じゃ感覚が違うだろうけど)
とはいえ、そう大きな問題になることはないだろう。人間に霊体になっているところを見られたわけでもないのだし。死人なら、洗濯屋が洗えば、綺麗さっぱり忘れてしまう。
宙を泳いだせいで少し乱れたような気がする襟元を正して、少年は病室に戻った。
今度はきちんと、扉をあけて、歩いて、だ。
そう大きな問題になることはないだろうけれど、小さな問題だから起こしてもいい、というわけでもない。
「あら。戻ってくるときもすり抜けたらよかったのに。私、もう一度見たかったわ」
「先ほどは、これからの話を飲み込みやすくするために見せただけです。本来、ああいった行為は、あなたに危険が迫っているとき以外、行ってはいけない規則なんですよ」
「ふぅん。あなた、私のことをよく知っているような口ぶりね?」
「いえ。大抵の場合、あれを先に見せておく方がスムーズ、というだけです」
少女は猫のように、じっと、少年の瞳を見つめた。黒い瞳に覗き込まれて、少年は静かに唾を飲み込む。ねばついた、苦い唾だった。少女はこちらの緊張をどう受け取ったのか、笑みを浮かべたまま、もう一度「ふぅん」とつぶやく。
「なにか?」
「いいえ? それで。あなたのお話、というのは? 一応、私のおねだりを聞いてもらったのだし、話くらいは、聞いてあげてもよくてよ」
少女はベッドの上で居住まいを正した。背筋を伸ばして真顔になるだけで、そこだけ、絵画の一部のような雰囲気になる。
金の額縁を持ってきて、永遠に、彼女のそばでそれを掲げ続けてもよかった。本当に、そんな風に、少女のそばで無為に一生を終えてもいいと思っていた。
もう、叶わない夢だ。
少年は一瞬だけ目を閉じて、鋭く息を吸う。どうしたって手が震えるから、それは背中に隠した。まっすぐに、正面から、少女を見つめて告げる。死神になってから二年間、何度も口にしてきた定型文だ。
言い慣れた言葉も、彼女の前では特別なものに変わる。
「初めまして、
少女の目元がかすかに強張る。
「これから、新しい輪廻に向かうため、洗濯屋へと向かいます。道中、怪異による妨害が想定されますが、担当死神を務めます、わたくし、翠が責任をもって、あなたをお守りいたします」
規定されたとおりに、深く頭を下げる。恭しく、胸に右手を当てて。
「なにか、ご質問はございますか?」
少年は、目線を須藤京香に向けた。二年前、事故にあった日から昨日まで、眠り続けていた少女を見た。魂だけになってようやく、二年ぶりに、声と表情を取り戻した彼女を見た。
姿勢を正して、気づかれないように、小さく息を吐く。
これから始まるのは、彼女が、本当に死ぬための、最後の旅路だ。
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