第6話 伝説の真実

 水槽すいそうの中で揺れる水草みずくさは、こんな気分なのだろうか。


 どこまでも広がっているような、完全に閉じているような、そんな奇妙な空間に私は立ちすくんでいた。自分の足で立っているつもりなのに、地面の感覚は曖昧あいまいだ。体全体が、なんだかふわふわとしていて落ち着かない。


「藍果」


 不意に、背後から声をかけられた。初夏の風にそよぐ若葉のような、つややかさと初々しさをあわせ持った声。聞いたことのない声なのに、あの子の幼い横顔が、犬のしっぽのような髪が、涼しげなまなざしが、思い浮かんでは消えていく。

 振り向くなと言われた道で、その禁忌を犯そうとする——それによく似た恐怖と緊張の中で、私は後ろを振り返った。


「え……」


 そこにいたのは、水干を身にまとい、高い位置で髪をくくった、少年——だった。

 私よりもほんの少しだけ背は低いけれど、あと半年もすれば追い抜かれるだろう。服の色は、いつもの水色よりも深い、大人びた彩度さいどの青。ゆるくウェーブのかかった髪が、胸の辺りまで伸びている。成長途上ではありつつも、丸みの取れた面立おもだちからは精悍せいかんさがのぞいている。体格は歳の割にかなり良く、敵陣で弓や刀を振るう武家の血を思わせた。


「ゆ、弓丸? 弓丸、なの……?」


 よく冷えた川の水に手をひたした時のような、えた印象の目元にあまり変わりはない。ただ、その金の混じった虹彩こうさいの内側に、何かよからぬ欲求の炎が揺れている。まるで、そう、私の中の大切な何かを書き換えてしまおうと企むような、自分と同じ場所に引き込もうとするような。


「どうしてそんな、急に大きく……」

「君が、勝手に子ども扱いしているだけだ」


 彼は、私の問いにはそう答えるだけにとどめて、スッと一歩距離を詰めた。その手に強く腕を引かれ、バランスを崩した私は尻もちをついて座り込む。背骨の付け根の、少し出っ張ったところを打ったせいで、腰がじんじんと熱をもって痛んだ。


「ちょっと、急にどういうつも……」


 文句を言うつもりで顔を上げれば、その言葉の先を奪われた。やや薄く、柔らかい唇が、私の唇をふさいでいる。突然の行動に頭の中が固まって、声を出そうとすることさえできない。体がカッと熱くなり、彼の霊力を無理やり流し込まれていく。あの洞穴で大量に血をもらったときよりも、もっとあざやかで激しい感覚。しっかりとした肩、筋肉のついた腕、硬くなった手のひらに身動きを封じられ、されるがままにその行為を受け入れる。


 やっと解放されたとき、私は指の先一つ動かせなくなっていた。体が重い。まるで、自分の中の生き物としてのことわりが、丸ごと書き換わってしまったかのような。体の臓器を入れ替えられて、全身がその変化に呆然としているような。

 

「なん、で……こんな」

「これで君は、僕の神様になれるんだ」


 その少年は、押し花を手にした幼子おさなごを思わせる表情で——私の体を、腕の中に閉じ込めた。


***


 ピピピピピピピピピ——。

 目覚ましアラームの音にさえぎられて、私はゆっくりと目を開けた。いつもの天井、ベッド、パジャマ代わりのTシャツとショートパンツ。数秒経って、私はようやくさっき見ていたものは夢だったということを理解した。


「うわー……」


 ——君に、神様になってほしいと思ってる。


 あの告白は衝撃的だった。実際、こんな夢まで見てしまった始末だ。よっぽど脳裏に焼き付いていて、こんな夢を見たんだろう。


「ごめん、弓丸……」


 思い出そうとするまでもなく、夢の内容は覚えていた。どこがどうとか範囲をしぼらずとも、最初から最後まで徹頭徹尾あかぱじだ。というか、そもそも弓丸に申し訳なかった。次に会ったら謝らないといけない……いや、この場合はこんな夢を見たと伝えること自体が気持ち悪すぎる。私は、初めて経験したタイプの後ろめたさにうなだれながら、のそのそとベッドから起き上がった。


「弓丸が……変なこと言うから」


 こんなことなら、ただ単純に好きだとか付き合って欲しいとか言われた方が百倍マシだった。……百倍は盛りすぎとしても、数十倍マシ、くらいは言わせてもらいたい。


 気に入ったちょうをいつまでもそばに置きたがって駄々をこねる子どもっぽさ。死ということわりを否定してでも、私を奪わせたくないという切実な怖れと独占欲。うつわ見初みそめ、自分の隣に誘いをかける執着心。


 あの言葉には、彼の内面にくすぶる全てが内包されていた。そんな告白に、一体何を返せるというのだろう。


 ぐるぐると螺旋らせんを描く脳内を持て余しながら、私は洗面台へと向かった。


***


 放課後。通学路の途中にある市立図書館の前で、私は瀬名と一緒にアヤのことを待っていた。


「なるほど? つまり、藍果は〈ドクロ蜘蛛ぐも〉とかいう化け物遣いのせいで異空間に閉じ込められて、また危ない橋を渡ったってわけね。アヤと而葉さんはそれに巻き込まれた。その後、弥永やながのおばちゃんのところに顔を出したら、そんな出所不明の言い伝えを教えてもらったと」

「うん」

「……そう。とりあえず、お疲れ様」


 そしてアヤを待つ間に、昨日あった〈ドクロ蜘蛛〉にまつわる事件と、例の伝説の話を瀬名に伝えた。瀬名は半ばあきれた表情を浮かべつつも、大体の経緯を理解してくれた。

 ちなみに、旧五年一組の元クラスメイトがいたことや、美命のこと、稀瑠のことは一旦話から外してある。もちろん、而葉さんの正体のことも教えていない。


「それにしてもさ、藍果。自分で気づいてるのかどうか知らないけど、顔色ちょっと悪いよね。日曜日のことを抜きにしても、なんていうか……悪い夢でも見て、よく眠れなかったっていう顔してる」

「え」


 図星を言い当てられて、心臓がドキッと跳ねた。さすが瀬名というべきか、観察眼が鋭い。あるいは、一年と二ヶ月の付き合いにもなれば、こういうことは伝わってしまうものなのだろうか。


「あー、えっと。大体そんな感じ、かな……」

「他人のこと気にするのもいいけど、自分のことも大事にしなよ。藍果って、たまに自分に罰ゲームでもさせてるのかなってときあるから」

「罰ゲーム?」

「そう。思い当たる節、あるでしょ」


 思い当たる節。あの洞穴に初めて入ったころは気づいていなかったけれど、あの〈学校〉から帰ってきた私は、瀬名の言いたいことがよく分かった。


「あの、瀬名……相談なんだけど」


 言うだけ言ってみようか。いっそ、抱えているものを洗いざらい全部。そうすれば、案外悩んでいることのいくつかは簡単に解決してしまうのかもしれない。弓丸のことを話せば怪訝けげんな顔をされるだろうし、美命のことを話せば困らせてしまうだろう。でも、瀬名はきっと最後まで話を聞いてくれてしまうし、いっとうえた選択肢だって教えてくれる。だからあとは——。


「瀬名先輩、藍果先輩、遅くなってすみませーん!」


 言葉がのどまで出かかったそのとき、走り寄ってくるアヤの姿が見えた。ふっと力が抜けて、思わず後ろの壁にもたれる。言わずに済んだ……不思議と、胸に残ったのはそんな気持ちだった。


「先生に頼みごとをされてしまって……ついさっき教室を出れたんです」

「気にしなくていいよ、アヤ。私たちもさっき来たばかりだったし、今日はそんなに暑くもないし。でも私、十七時までには塾に入らないといけないから、ここにいられるのは二十分くらいかな。藍果もそれで大丈夫?」

「あ、うん、大丈夫だよ」

「そしたら、遅れた私が言うのもなんですけど、早く行きましょうか」


 そう言ってアヤはスタスタと図書館の方へ進んでいく。私もそれに続こうとすると、瀬名が私の肩に手を乗せてきた。隣を見れば、瀬名の大きな瞳が私の顔を映している。心配そうな声音で、瀬名は一言ささやいた。


「いつでも話、聞くから。言えるようになったら教えて」

「……ありがとう」


***


 自動ドアを抜け、カウンターの前を過ぎて、瀬名は森の木のように立ち並んだ本棚の間を迷いなく進んでいく。どこまで歩くのかも分からないまま瀬名の後ろをついていくと、彼女は「総記」と書かれた本棚の前で足を止めた。


「ここの棚のね、多分〈09〉のところ……と思ったんだけど」

「なさそうですか」

「うーん……子ども向けのものがほとんどね。ここより、郷土資料館の方を見てみるのがいいかも。あの場所なら、ネットに載ってないローカルな情報も手に入ると思うのよね」

「じゃあ行きましょう。そこの本棚の、一番奥にあるドアが入り口でしたっけ」

「うん、正解。行こ行こ」


 郷土資料館。あまりこの場所に通う習慣がない私にとって、そのワードを聞くのは久しぶりのことだった。中学生の頃、伝統文化についてレポートを書く授業で一回だけ入った記憶がある。この図書館に併設へいせつされた小さな建物で、地域に根差した資料や出土品が色々置かれているスペースだ。


 二人に連れられるまま、私も資料館の中に入った。展示物の周りは照明がしぼられているせいで、館内は少し薄暗い。元々それほど広い場所ではない上に、こうも人が少ないと、あの洞穴の中を思い出す。


「狙い目は、そう……こういう、〈持禁〉ってシールが貼ってある本が並んでる棚よ。大体ここに、何かこの土地の地形とか、民話が載ってそうな本が……っと」


 瀬名が手に取ったのは、『岐依国きいのくに案内あないうつし』と書かれた古めかしい本だった。くすんだ緑のハードカバーに、タイトルが黒で印字されているだけの地味な装丁。厚さは一センチほどで、歴史書というには心もとない薄さだ。


「ねぇ、なんでそれを選んだの?」

「結構こういうのはかんに頼ってるところもあるんだけど、一つの理由としては、案内って書いてあるからかな。案内書なら、特に重要な風土の話とか載ってそうだし」

「なるほど……写しってことは、それなりに古い情報を書き連ねてるかもしれないですしね。源氏物語みたいに」

「さすがに、写しの原本じゃなくて、写しの印刷版ってところだろうけど。写しの印刷版……なんか面白い日本語だね」


 そう言いながら、瀬名が本のページをめくっていく。確かに瀬名の見立て通り、その本はほとんどが漢字で構成されていて、何かの写本を印刷に起こしたもののようだった。岐依きいの特産物についての記述もあって、その横には食べ物や品物の絵が添えられている。


「あっ、瀬名、ちょっと待って。ストップ」

「何? あぁ、これね」


 山のが見えた気がして、瀬名のページをめくる手を止めた。やはり山の……というか、岐依の風景をすみでざっくりと描いた絵図だ。白黒で分かりにくいけれど、大まかな地形と位置関係くらいは読み取れる。


「川の位置も、山の数も違う……」

「確かに。藍果先輩の言う通り、二つあるはずの山が一つしかありませんね。大きさも、今よりもっと大きいような……?」


 弓丸の鎮場神社がある湖井山こいやま。〈ヤドリ蔦〉のときに入った洞穴がある願山ねがいやま。それがあるはずの位置には、「請願山」と書かれた山だけが一つある。


「読み方は、請願こいねがいやまでしょうか」

「そうね。となると、弥永のおばちゃんが言ってた話も現実味を帯びてきたわ」


 向かって左側には「鎮場神社」と書かれた神社の絵も描かれているから、同じ山であることは間違いない。


「あの二つの山は元々一つの山だった。それが二つにわかたれて、この地は魑魅魍魎ちみもうりょうであふれた……おばちゃん、確かそう言ってたよね」

「はい。とにかく、状況が一変するような一大事が起こったと」


 瀬名は私たちの話にハッとした表情を浮かべて、何やらスマホで調べはじめた。それから、絵図の横に印字された漢字だらけの文章に視線を移し、書かれた内容を読み進めていく。アヤはその様子を見て、じれったそうな表情で瀬名のことをのぞき込んだ。


「瀬名先輩、何を思いついたんですか。早く教えてくださいよ」

噴火ふんかと地震の記録について調べてたみたいだけど……それが何か関係あるの?」

「……噴火も地震も、小さなものなら過去に何度か起きてるけど、山が二つに分かれるほどの規模は記録にない。それから、一緒に伝えられていた色んな現象があったよね。あれと照らし合わせれば、答え合わせだってできる」


 本から顔を上げた瀬名は、ほおを紅潮させ、興奮を隠し切れない様子で私たちの方を見た。手にしたスマホを握りしめ、おそらくは〈あの言い伝えの真実〉であろう推測を口にする。


「大雨による山体さんたい崩壊ほうかい——それが原因で、あの山は二つに別れた。それも千年に一度降るかどうかの、超ド級の大雨で」

「さ、さんたい……崩壊?」

「そ。きっと間違いないはずよ」


 瀬名は本を私に渡して、ぐーっと気持ちよさそうに伸びをした。時計を見れば、図書館に入ってからちょうど二十分が経っていた。


 

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