7-2 百年の縁

 散々に追い詰められ、ようやく信じてくれる人に出会えたと思ったら、裏切られ、縛り付けられ。ああもう死ぬしかないのだと嘆き、ただ涙を零していた、あの日。


 俺の元にやってきた安倍という男は、端正な顔立ちだったが、穏やかで優しい亜麻色の瞳をしていた。彼に殺されるのだと理解し、俺はただ地面を見てすすり泣いていたように思う。


 しかし、安倍は俺のそばに座り込むと、何もしないでしばらく過ごしていた。流石に困惑して顔を上げると、彼は優しく微笑んで言った。


「これまで誰にも信じてもらえず、とてもお辛かったでしょう。私の言葉も信ずるに値しないかもしれないですが、私にはわかりますよ。あなたが人喰いなどしたことはないとね」


 確かに、俺は男のことを信じられなかった。これまで散々、優しい言葉をかけられ、裏切られてきたのだから。しかし、縛られ目の前に陰陽師がいる状況で、俺には何も選びようがない。彼が信じるに値するかどうかはともかく、彼に全てを委ねるしかなかったのだ。


 それでも。今までの俺の悲しみを肯定してもらえて気がして、俺は愚かにも彼の言葉に涙を零した。


「俺は、俺はなにもしてない、なにもしてないんだ」


「ええ、わかりますとも」


「本当に?」


「もちろん。私は陰陽師ですから。あなたからは悪しき気配など、少しも感じたりは致しませんよ。大丈夫。私はあなたの力になれます。ただ……」


「ただ……?」


 安倍は表情を曇らせたものだから、俺も不安になって問う。彼は小さく首を振って、答えた。


「あなたは都から離れた山村で生まれ育ったと聞きました。それならば、今の世を知らないでしょう。天からの厄災により都を始めこの地には、飢えと病がはびこっています。それが故に人心は乱れ、穢れなき御霊は欲と煩悩に満ちている。人を貶め呪う、この世の「鬼」と化した罪人たちで溢れかえっているのです。そう、今まさにこの世こそは無数の鬼の住まう「地獄」……」


 長い瞼を伏せて、憂うように囁くその姿。今の俺にはわかる。そいつの顔には確かに、心光の面影が有った。


「なればこそ、今の私にはあなたを人に戻すことは難しい。人々の疑念と確信が怪異を生み、その怪異が人々を恐怖させ、憎しみを生む。この循環の中にあっては、一度人を外れたものを元に戻すことは難しいのです」


「そんな……じゃあ俺は……」


 このまま、彼に退治されるしかないのか。打ちひしがれている俺を、安倍はそっと撫でてくれた。優しく、穏やかに。労わるように。たったそれだけの優しさが、温もりにどれほど救われたことか。あれほど裏切られたというのに、愚かな俺はまた彼を信じようとしていた。


 しかし、安倍はきっと信じていい部類の人間だった。彼は真剣な眼差しで俺を見つめると、ややして言った。


「まだ、完全に確立されていない術ですが、鬼から人へと肉体を回帰させられるかもしれません。あなたは百年の時、眠りにつく。その間にあなたの中から記憶を抜き取ります。百年も経てば、あなたを覚えている者はほとんどいなくなる。あなた自身も、自分が鬼であることを忘れるでしょう。その時、私の子孫があなたの封印を解き、あなたのことを「人」だと呼べば、きっとあなたは人に戻れる」


「……確か、なのか?」


「……正直に言えば、確証はありません。しかし、それ以外に今、鬼となった人を戻す方法は無い。ほとんどの鬼となったものは、人を殺め喰らい、身も心も化け物となってしまうのです。だがあなたは違う。鬼の身でありながらも、こんなにも心優しい人のまま。私もあなたを、なんとかして救いたい」


 どのみち、このまま鬼として人目を盗んで生きるか、退治されるかしかないのです。私を信じてみてはくれませんか。


 そんな言葉に、俺は安倍の瞳を見つめる。亜麻色の優しい瞳はじっと俺を見つめ返していた。その澄んだ輝きには、嘘偽りなど感じられない。それに、俺だってこんな辛いことは忘れたかった。これから一生、人に怯え隠れ暮らすのも嫌だった。楽になりたかったんだ。


 そして俺は、安倍の手を取り。やがてあの祠へと封じられた。




 そうか。だから俺は。封印を解かれてすぐ、心光を見て。彼に惹かれてしまったのか。


 俺を最後に信じてくれた人。俺を助けようとしてくれた人。覚えていなくても、彼の顔から、目に見えぬ力それを感じ取ったのかもしれない。


 だが、百年後の子孫は俺を覚えておらず。訪れた心光は、既に影と融合していた。そして封印の時間は足りず、俺の額には隆起が残ったまま、瞳も金色に染まったままで、俺にも自分が鬼だという自覚があった。


 だから、偶然にも俺の封印を解いた心光は、俺を鬼と呼んでしまった。俺は人には戻れなかった。百年もの歳月をかけて。


 はぁ、っと深い溜息が漏れる。やはり、鬼が人に戻るなんて無理なのではないだろうか。鬼として、どうにか人と共に生きる方法を探るべきなのでは。それこそ、国親のような陰陽師のそばでなら、式神だと言い張ればどうとでもなるような気もした。


 国親のほうを見ると、彼は申し訳なさそうに目を伏せる。


「私としても、できれば君を人に戻してあげたいんだけど……すまないね。百年の時を経て陰陽師っていうやつは、貴族のお抱え占い師のようになってしまって。術の研究などはあまり進んでいないんだよ」


「そうか……じゃあ、改めてまた百年封じられるしかない、と」


「おまけに、今度こそ百年後に子孫が現れるかわからない。世は移りゆくものだからね」


 まぁ、君についてわかったのはこんなところだ。国親の言葉に、俺は頷いた。それで十分、これ以上のことなど、元より俺には無いだろう。


「……心光は、どうなった?」


 俺の問いに、国親は微笑みを浮かべて尋ねた。


「会いたい?」


「会えるのか?」


「もちろん。今はいい子にしているしね。ただ……まぁ。自由を与えられないのは承知してくれると助かるな」


 それはつまり。心光もまた、人に戻れてはいないということだろう。はぁ、と溜息を吐き出して、それから「会わせてほしい」と頭を下げた。

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