6-1 都

 月明かりの下、風渡る一面のすすきの原を越え、丘の頂に昇る。見下ろせば広大な平地に、荘厳な都の姿が遠く薄っすらと浮かび上がっている。風が曼殊沙華の花を揺らし、俺たちは身を寄せ合ってその景色を眺めていた。


 ようやっと。ようやっと、都に着いたのだ。


「あぁ、蘇芳……」


 心光が、感嘆の溜息と共に、呟く。


「わたくしは、帰って参りました」


「……ああ……」


 ここまで長い道のりだったように思う。


 俺の姿が完全に鬼となり、陰陽師たちを見逃してしまった以上、街道を歩くのは難しくなった。当然、都の陰陽師は俺たちを祓おうと追手を放つ。だから森に、山に身を隠しながら、大きく遠回りをして都へと近付いた。


 それでも、時折は追い付かれる。その度、俺は心光と陰陽師の身を同じほど守らなければいけなかった。俺が何とかしなければ、また心光が人を殺めてしまう。俺は強い鬼だから、できると信じれば、俺の身体はますます力を増した。ここ数日は陰陽師たちも追って来ない。俺が一筋縄ではいかないと思ったのかもしれなかった。


 だが、都に入るとなれば話は別だろう。これまでの集落とは広さも繁栄も全く異なる。あそこにどれだけの民と、陰陽師が住んでいるのか見当もつかない。


 そんな人々の中を無事に切り抜け、安倍とかいう高名な陰陽師に助けを求める。そんなことが本当に可能なのか、俺にはわからなかった。


「蘇芳」


 心光の声に見れば、その揺れる瞳で都をじっと見つめながら、彼が呟く。


「都に着いてしまったら、いよいよわたくしが正気を保てるかわかりませぬ。いかにあなたがわたくしを信じて下さっていても……」


 ですから、その時は、どうか。


 俺はその先を聞きたくない気持ちになって、心光をぎゅっと抱き寄せた。


 確かに、わからないことばかりだ。


 だが、行かねばわからない。もしかしたら、何もかもうまくいくかもしれないのだから。最悪のことなど考えたくもなくて、そして考えてもきりがなくて。


「俺は何があってもお前を守る、助ける。だから案ずるな」


 ただそう答えることしか、その時の俺にはできなかった。




 今にして思えば、自分はそう思いたかっただけなのだろう。


 心光は彼自身が言っているとおり、影の怪異と元の僧とが混ざり合い、もはやどこが境界かもわからない存在だった。つまり、彼がどれほどしおらしく穏やかでも、それが演技かそうでないかさえも曖昧なのだ。


 それはわかっていたはずだ。その上で、俺は知らぬふりを決め込んでいた。


 俺を人喰い鬼ではないと断言し、涙ながらに助けを求め。いじらしく俺の身体を求め縋りつく。そんな男を俺はもはや手放せなくなっていた。記憶も過去も無い俺には、それしか無かったのだ。


 お夏たちと同じように、俺を鬼と恐れなかった。たったそれだけの男だというのに。


 そして、都に着けば。安倍とかいう陰陽師に会えれば、きっと良くも悪くも何かが変わるはず。そんな甘い考えが、俺の思考を曇らせていた。





 都には夜、月明かりが雲に隠される時を見計らって近づいた。


 これまで立ち寄った集落は、日が暮れるとどこも灯りを落として静まり返っていた。だが都は夜なお煌々と松明や灯篭が輝き、人の往来もそれなりにはあるようだ。人が集い、灯りが揃えば暗い夜を恐れることも無いのだろう。


 都の周りはぐるりと高い塀に囲まれており、四方に大きな門が口を開いている。そこにはいつも兵が立っているのだそうで、堂々と都に入ることは難しい。都の中にも物見櫓も有る。街の中も夜警の兵が巡回しているから、入れたからといって無事で済む保証もない。そして、俺たちは安倍の居場所もわからないのだから、侵入できたとしてどうすればいいのやら。


 しかし、するしかない。賭けでもいいから、そうしなければ俺も心光も救われないのだ。その時はそういう心持ちになっていた。焦っていたのだろう。


 心光が影の力で俺たちを火の明かりから隠し、俺は心光を抱いて人には不可能な速度で駆けた。月明かりが翳った瞬間、助走を付けて都の塀に向かって飛び、その壁面を蹴って駆け登る。そんな冗談のような芸当が、俺にはできた。人を捨て、鬼となった俺にはできたのだ。


 心光をぎゅっと抱き、塀を飛び越えると地面に降り立った。それなりの高さから落ちたはずだが、なんともない。いよいよ人を大きく超えてしまったという小さな悲しみと、今の自分になら何でもできるのではないかという高揚、そしてついに都に辿り着いたのだという安堵に、俺の胸は熱くなっていた。


 そっと心光を降ろせば、彼は「ああ」と感嘆の声を上げ、辺りを見渡した。


「帰ってきた、わたくしは帰ってきたのですね。あの麗しき都に……」


 とはいえ、ここはまだ都の端の端。安倍とやらが高名な陰陽師であるのなら、きっと皇族や貴族の住む中心地にいるのだろう。ここからどうやってそちらに近づくのやら。きっとそうした場所のほうが警備も強いだろう。そんなことを考える俺をよそに、心光は月明かりの下で踊っている。


「南には朱雀の赤門、ここより北に白虎の銀門……ああ、ああ。まごうことなき都の景色。わたくしは帰ってきた。帰ってきた!」


「心光、あまり声を出しては」


 はしゃぐ心光に思わず声をかける。すると彼は、俺のほうを見て目を細めた。


「蘇芳、ありがとうございます。あなたがいなければ、わたくしは都へ辿り着けなかったでしょう」


「そうか? 俺なんかがいたからここへ入るのにも苦労したんだろう」


「いいえ、いいえ。あなたがいてくれなくては、困るのですよ。だって、……ねぇ?」


 心光がにこり、と笑みを浮かべる。その表情は何処か、……どこか、寒気を覚えるもので。


 どす。


 身体の内側から、そんな鈍い音が聞こえたような気がする。途端、鋭い熱と共に痛みが、太腿を襲った。


「……あ?」


 視線を落とせば、俺の太腿を深々と、黒い影が貫いている。


 いったい、何が。


 困惑し、心光を見ようとした俺の脇腹を、足の甲を。次々と影が刺し貫く。焼けるような熱、それから痛み。血が赤く飛沫を上げるのが、月光と火の明かりを受けて煌めく。


「あ、あっ、うぐっ」


 鬼の身体とはいえ、傷つけられれば動きも鈍る。影に突き飛ばすよう薙ぎ払われて、俺は堪えきれず固い地面に転がった。


 揺れる視界の中で、心光が笑っている。赤い瞳をした、心光が。それはそれは、楽しそうに、嬉しそうに。


「ちゃあんと、最後までわたくしの役に立ってくださいね、蘇芳? あなたがいてくれればこそ、わたくしは自由にこの都を駆けられるのですから」


 彼は優しく囁くと、ひとつ大きく息を吸って。


「誰か! お助け下さい! 鬼が! 鬼がおりまする!」


 そう、辺りに向かって叫んだ。

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