シャナのやわらかいこと
ポットの取っ手を握る長女の手が、ちょっとだけ赤くなっていた。熱さのせいか、それとも重さのせいかは分からない。でも、どっちにしても、それを理由に手を放すような人じゃない。
わたしは、小さめのタッパーを両手で抱えるようにして歩く。中には、今日焼いたミートローフ。端の少し焦げたところと、あの、いちばん甘くて香ばしい真ん中の部分を入れてきた。ボブおじさんが喜びそうなところを選んだつもり。
歩くとき、スカートの裾が膝にふれて、それが風といっしょに揺れると、なんとなくうれしくなる。わたしはこういう時間が好き。三人で並んで歩いて、特別なことは話さなくても、どこかに気持ちが寄り添ってるみたいな時間。
でも、今日は――少しだけ違う。
次女の足取りが、たまに小さくもたついている。長女の手は、いつもよりきゅっと力が入っている。わたしは、それを「大丈夫」とは言わない。言ってしまうと、たぶんこぼれてしまう。何かが。
ボブおじさんの家の前まで来ると、風の向きが変わった。ミートローフの匂いと、薬膳スープの匂いがいっしょに混ざって、わたしの鼻に届く。これも、今日の匂い。わたしは目を閉じて、深く吸い込む。少し湿った草のにおい、遠くの犬の鳴き声、風見鶏が回る金属音。全部、今日という一日の続きの中にある。
ノックの音。間もなく開いたドア。ボブおじさんは、ちょっとだけ目を丸くして、でもすぐに、あの、いつもの目尻が下がる笑顔になった。
「おや、どうした?」
わたしはタッパーを少しだけ持ち上げて言った。
「晩ごはん、多めに作ったから……おすそ分け」
ほんとうのことだけど、ほんとうのぜんぶじゃない。
長女が差し出したポット。そこからすこしだけ、例の匂いがにじむ。わたしは好き。でも、好きじゃない人もいるってことは分かってる。それでも、おじさんは何も言わずに受け取った。ちょっと困ったような目で、でも笑ったままで。
なんとなく、その笑い方に、長女の笑い方が重なる。困ってるときでも、誰かのためなら笑えるところ。強い、というのとは少し違う。守りたいから、笑ってる。そういうふう。
わたしは、それを「やさしさ」と呼ぶ。
でも、やわらかいだけじゃない。ちょっと痛くても、まっすぐなやさしさってある。それを今、見ている気がした。
帰り道、三人はしばらく何も言わなかった。沈黙はあったけど、嫌な感じじゃない。ただ、ひとつの時間を共有してるだけの感じ。
その静けさのなかで、次女の声が落ちてきた。
「……ごめんね」
わたしは、振り向きかけて、やめた。代わりに、足の裏の感覚をたしかめる。土を踏んで、風に吹かれて、今ここにいる自分がちゃんといる、ってことだけを、いちばん大事にしたくて。
「この匂い、野犬よけになるかもね」
そう言った次女の声は、いつもの冗談っぽさが少し混じっていて、わたしはふっと笑った。長女も、ほんの少しだけ表情がほどけたように見えた。
やわらかくしようとしてる。そう感じた。言葉でなくても、思いは動く。空気も、すこしずつ変わっていく。
帰り道の空には、オレンジと薄紫のあいだのような色が広がっていた。風が草を鳴らして、すこし冷たさを運んできた。
スープの匂いはまだ残っている。誰かの気持ちが残していったように。
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