カーラの静かな時間

 ソファの上で、わたしは体を小さく折りたたむようにして丸まっていた。背中には日差しのあたたかさがじんわりと染み込んでいて、テレビの画面は、午前中から変わらない、どこか遠い州の農業レポートを淡々と流していた。


 聞き流すにはちょうどいい。でも、なにかを考えるには少しうるさすぎる。いや、考えたくないから、こうして音に身を浸しているのかもしれない。


 空気が、変わった。


 まずはトマトと玉ねぎの甘い香り。オーブンの熱気に包まれて、ミートローフの匂いが部屋全体に広がっていく。ああ、あのにおいだ。シャナの料理。優しくて、まっすぐで、なんだか「ただいま」って言われたような感じがする。


 目を閉じる。吸い込む。息を止める。


 ……でも、すぐに混ざってくる。あの独特な、深い、強い、得体の知れない香り。いや、香りっていうには重すぎる。もう、気配だ。薬膳スープ。


 わたしは静かに目を開けた。ソファの背もたれに額をもたれさせて、天井をぼんやりと見つめる。スープの匂いはどこか、湿った森の奥みたいで。乾いた草と動物の毛皮と、少しの薬棚のにおい。コヨーテが汗をかきながら草むらに転がってる――みたいな想像すらしてしまう。


 ふと、笑いそうになった。いや、笑ってもいいのかもしれない。


 だって、そんなにおいのする大鍋を、あの真面目くさった顔で、眉間に皺寄せて煮込んでるんだから。


 わたしのお姉ちゃんは、本気でそれが「みんなを元気にする」って信じてる。たぶん、今日だけじゃなく、ずっとそうなんだと思う。そのためなら、苦くても、匂いがきつくても、躊躇わない。


 そこが、すごいなって、思う。


 でも、やっぱり近づくには、ちょっと重たい。


 目だけ動かして、台所を覗く。オーブンの前にシャナ、鍋の前にアビー。二人とも、黙々と料理を続けている。言葉はないけれど、あの沈黙は、冷たいんじゃなくて、なにかを整えているみたいだった。空気のしわを、ひとつずつなでて伸ばしてるみたいな。


 そこに、わたしは混ざれない。


 今日だけじゃない。いつからだろう。気づくと、輪の外で黙ってる自分がいた。言葉が空回りするのが怖い。タイミングを間違えるのが怖い。だから、何も言わずにいると、少しだけ楽になる。けれどその分、少しずつ、遠くなる。


 「もう、黙ってる方が楽」


 自分の中で、その言葉が繰り返された。でも、その後にぽつんと残る声もある。


 「でも、それでいいの?」


 黙っていれば、何も壊さずに済む。でも、何も変えられない。


 ミートローフの匂いが、そんな迷いごとをごっそりと包み込んでくれる。やっぱりシャナの料理はすごいな。美味しいのはもちろんだけど、空気の粒が丸くなる。喧嘩の後でも、部屋の中が少しだけ明るくなる。そんな魔法みたいな手。


 それにしても、なんでアビーのスープって、ああ、こう、匂いで主張してくるんだろう。香りじゃなくて、雄叫びだ。食卓のど真ん中に立って「どうだ!」って腕組みしてる感じ。真剣さがすごすぎて、もう逆に笑ってしまう。


 でも……たぶん、あれは、謝りたいんだろうな。あの人なりに。不器用に。言葉じゃなくて、鍋いっぱいの薬膳で。


 わたしはソファの端に手をつき、上半身を起こした。腰を上げるのはまだ怖いけれど、なんだか少しだけ、台所の空気に近づけた気がした。


 今日は、そういう日なんだろうな。


 苦いスープと甘いミートローフと、よくわからない自分の心と。


 全部いっしょに、食卓に並ぶ日。

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