其の十二

「じゃあ俺は第二行ってくるから」


 授業がブッキングしたこの日、海家先生はふたつの音楽室を行き来し、二クラス同時に授業を行うことになった。


 第二音楽室では一年生が授業をしているようで、先生がどちらかに出向いている時、もう一方は必然的に自習となるのだけれど、一年生の方が当然放っておけないので、どうしても向こうにいる時間が長くなってしまう。


「とりあえず合わせる練習しておけ」と言い残した先生が去ってから十分が経った。


 まず初めに主導権を握ったのは我らが絵空さんで、「それじゃ、先ずは課題曲を合わせましょ」とピアノに向かい、指揮者担当の澤登さんを前にみんなの出して、率先して伴奏を行った。


 相変わらず完成度の高い演奏をしてみせ、合唱ともまぁまぁの融合性を見せたという評価をしたのは私だけではなく、途中で様子を見に戻ってきた海家先生も同様だったみたいで、「まぁ、いいんじゃねーの」と、また一年生達の元へ戻って行った。


「それじゃ、次は自由曲やってみましょ」


 阿櫻さん。と、私をピアノの椅子に招く。


「う、うん」


 楽譜を手に、最大級の憂鬱さを胸に、ピアノへ向かう。


「じゃああたしは戻るから」


 肩をポンと叩かれて、耳元で「しっかりね」と囁かれ、何とも言えない気持ちになるけれど、今はとにかく集中しないといけない。課題曲が割と上出来だったから、余計にヘマはできない。


「じゃ、じゃあ、いきます」


 ピン――


「ご、ごめん、弾き直すね」


 自由曲担当指揮者の三澤さんに謝意を告げ、頭でリズムを刻み、演奏を再会する。


 タタタータター、タタタンッ、タタタタタン、タタタタタン、タタータン――


 序盤はスムーズにいっている。このままミスをしなければ――


 デデーンと、いきなり黒鍵に指が引っ掛かり、ピアノ経験者でなくとも明らかに間違った鍵を押したであろうことが分かるくらい無様な音を出してしまって、三澤さんが恨めしそうにこちらを振り返る。


「ご、ごめん、初めからやるね」


 タタタータター、タン――タン――


 あ、全然違う。……あれ、イントロってどんな感じだっけ。


 ……。


 頭の中が真っ白になった。


 楽譜通りに弾いているつもりなのに、全然音がイメージできなくて、実際に弾けている感覚もなくて、正しい音がどういう音なのか分からなくなってしまう。


「ご、ごめんね。もう一回――」

「いい加減にしてくれる?」


 え? と、私はビックリした顔を作るけれど、何を驚いたフリしてるんだかという冷徹な視線を三澤さんから感じ、それでも何か言い返さなきゃと思い「ご、ごめん」と、取り合えず謝る。


「ごめんって……何回目? 全然練習が進まないんだけど」

「……ごめん」

「だから謝られても困るんだってば。課題曲はもうほぼ完璧なのに、自由曲は全然練習できてないんだよ? もう本番まで残り何日もないんだよ?」

「……うん」


 先生の伴奏に合わせての練習は行われているから、合唱側はまぁ何とかなるのだろうけれど、私の伴奏に合わせて歌い切ったことはまだ一度もない。

 何度も何度も私のミスで中断し、結局私のピアノ練習で授業が終わってしまうからだ。


「こないだもそうだったけどさ、阿櫻さんがちゃんと弾けないからって、先生付きっきりで教えててさ、私達いっつも自主錬してんだよ? 指揮者だって伴奏と連携取らなきゃいけないのに、そもそも弾けないんだったら連携も取り様がないじゃん」


 ご尤もな意見だけれど、私にだって言い分はある。というか、海家先生といい、三澤さんといい、なぜこうも私が裏で全く努力していないかのような物言いを平然と口にするのだろうか。


 できない人間は努力をしていないのだろうか。

 できる人間だけが努力をしていたと看做みなされるのだろうか。


「で、でも、私も頑張ってはいるんだよ?」と、か細い声で反論を試みるけれど、「そんなの当たり前じゃん。抜擢されて頑張んない人なんていないでしょ」と、至極真っ当なことを言われ、私は黙してしまう。


「とにかくさぁ、もうミスしないで」

 嘆息まじりに三澤さんはそんな無理難題を押し付け、「さ、もう一回やろう」と、指揮棒を回す。


「さん、はい――」


 タタタータター、タタタンッ、タタタタタン、タタタタタン、タタータン――

 ターンターンターン、タタタン、ターンターンターンターン――


 ここで、私は楽譜を開いていないことに気付いた。


 ここまでのイントロ部分は流石に暗記してしまっていたので、見るまでもなく指が覚えていたのだけれど、Aメロの導入の音を忘れてしまっていて、慌てて楽譜を開く。


「あ」


 そうなると当然、鍵盤から手は離れ、そして指揮棒は振られ続け、クラスメイト達は歌い始める。


 ――伴奏のないまま。


「ちょっと!」


 バン! と、三澤さんはピアノの側板を強く叩き、私を強く睨んだ後に「もうやだ……」と何故か泣き出してしまう。


三輪みわちゃん大丈夫……?」「可哀想……」などと、女子の一部が彼女の周りに集まり、慰め出すのを見て、「あ、ご、ごめ、んなさ――」と、どうしていいか分からない私は慌てふためくけれど、そんな私に同情する空気は室内には皆無で、皆泣きじゃくる三澤さんの味方らしい。


 が、しかし、意外にも私の味方はひとりだけいた。

 その味方は――私をフォローした彼女は、先生不在の今、この音楽室を支配している女王だった。

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