聖剣悪女

河田 真臣

序章

第1話 伝説の剣

 夜が明け、薄暗い霧が森を包み込む頃、その女は現れた。


 サンティナ・ディ・フィオーレ。

 それは、黒衣と冷笑の絵画であった。


 全身に漆黒の衣をまとい、口元には薄い冷笑が浮かんでいる。

 まるで邪悪な絵画から抜け出してきたかのような姿に、小鳥たちのさえずりは途絶え、森の影たちすら身を竦めた。


 その女は悪女であり、魔女である。


 肩から流れる漆黒の巻き毛が胸元まで柔らかく波打ち、まるで闇そのものが形をとったかのようであった。

 朝陽がわずかに差し込む中、その冷たい微笑みが浮かぶ顔には、底知れぬ悪意が宿り、眼差しには冷酷な光が宿っている。


 魔女が一歩進むたび、草むらや木々の間に息を潜めた小動物たちがその気配に恐れを感じ、じっと動きを止めている。


 森の空気は一層重たく、何か禍々しいものに満ちていく。

 サンティナの邪悪さが森全体に染み渡り、息を潜めた生き物たちさえも魔女の存在に飲み込まれていくかのようだった。


 湿った地面に魔女の足音が重く響く。

 ゆっくりとした歩みは、石畳に変わるとさらに冷たい音を立てた。

 苔むした巨石が立ち並ぶ狭間を抜けると、やがて石の台座が冷たく光を放ちながら姿を現す。


 小さな湖の先に、魔女の目指す遺物はあった。


 朝陽の光が湖面を淡く照らし、霧が徐々に晴れていく。

 その先に現れたのは、湖の中州に孤高に佇む一本の剣――時の流れを拒むかのように、錆びることなく鋭い輝きを放っている聖剣が刺さっている。


 剣の刃先には朝陽の光が反射し、冷たく青白い輝きが辺りに溶け込むように広がっていた。

 手入れもされていないはずのその剣は、奇跡のようにどこにも傷ひとつない。

 中州の岩に突き立てられた姿は、まるで神聖な儀式の残響が今でも続いているかのようである。


 水面に映る剣の影が朝陽に揺れるたび、その周囲にただならぬ威圧感が漂い、空気がわずかに震えるかのようだ。

 湖の静寂の中で、その剣は時の流れさえも封じ込めたかのように、永遠に輝きを失うことなくそこに佇んでいる。


 霧が漂う湖面の上に、サンティナは音もなく立った。


 黒衣が風にひるがえり、魔女の裸足は冷たい水面にわずかに沈むだけで、湖は静かに魔女を支えている。

 歩みを進めるごとに足元からゆっくりと波紋が広がり、水の表面が小さな円を描く。

 朝陽がその波紋に触れ、光が揺らめきながら広がるさまは不気味な美しさを醸し出している。


 その異様な気配に気づいた森の小動物たちは、一斉に木々の中から逃げ出し始めた。

 草むらの奥から、ウサギや小鹿が姿を現し、必死に遠ざかろうとする。


 鳥たちもまた、大小さまざまな羽ばたき音を立てて木々の影から飛び立っていく。

 色鮮やかな小鳥から暗い羽を持つ大型の鳥まで、朝の静寂を破るように森から逃げ出した。


 サンティナはその騒動に目もくれず、湖面をゆっくりと歩き続ける。

 魔女の周囲だけが異次元のように静まり返り、波紋だけが絶え間なく湖面を支配していく。


 森を駆け抜ける恐怖の叫びが、朝霧の中に溶け込んで消えていくなか、サンティナの冷たい微笑みだけが、すべてを見下ろしているようだった。


「本当に錆びてないわね……」


 魔女は嘲るように呟き、唇の端をわずかに持ち上げた。

 その顔には、伝説の剣などただの戯れにすぎないといった無関心さと、他者を見下す冷酷さが浮かんでいた。


 剣は台座に深く突き刺さっていながらも、長い年月を経てもその輝きを失っていない。

 サンティナはまるで自らの支配を示すかのように細い指先で剣の柄を弄ぶと、剣がわずかに震え出したのを見逃さなかった。


 周囲の動物たちは気配を消し、じっと息をひそめている。

 まるで森全体が魔女の邪悪な気配に恐怖しているかのようだった。


 やがて、サンティナの指がゆっくりと剣の柄にかかる。

 冷たい金属の感触が指先に伝わると同時に、剣はわずかに震えた。

 長い眠りの中で、己が目覚めの時を悟ったかのように。


 彼女は細い指先で柄を撫でるように握りしめ、ゆっくりと力を込めて引き上げていく。


 刃と岩の間で、わずかな抵抗が生じる。

 まるで剣が、最後の別れを惜しむかのように、台座へとしがみついているようだった。


 しかし、それも束の間――次の瞬間、剣は音もなくするりと抜け出た。

 岩が悲鳴を上げるように微かな振動を生じさせ、周囲の空気が一瞬にして張り詰める。


「これが伝説だなんて……嗤わせてくれるわ」


 自嘲気味に吐き捨てた魔女の声が、遺跡の冷たい空気に響き渡る。

 その手に収まった剣は、まるで生き物のように彼女の意志を感じ取り、かすかに震えていた。


 その瞬間――空が不気味な音を立てて裂けた。

 雷鳴のような轟音が響き渡り、黒雲が空を覆う。


 まばゆい閃光が降り注ぎ、剣の刃に触れた瞬間、激しい魔力の波動が四方へと炸裂した。


「ああ、これで私は――」


 サンティナの唇がゆっくりと動き、その言葉を紡いだ瞬間、彼女の顔には満足げで邪悪な笑みが広がった。

 冷たい瞳が光を帯び、闇の力が彼女の全身を包み込んでいく。


 伝説の剣は数世紀の眠りから覚まされた。

 邪悪な魔女の手によって。


 そして、この魔女は世界で最も危険な悪魔となった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る