第38話
山神様が祀られているのは、四本の杉に囲まれた平地の中心にある、小さな石祠の中だ。祠の正面には、水で満たされた湯飲みと、生米が盛られた皿が供えられている。
族長は祠の前に跪くと、懐から小さな酒瓶と塩の袋を取り出し、湯呑みの水を捨てて、そこに新たに酒を注いだ。次に、懐紙を広げて塩を盛る。
それらを丁寧に祠の前に並べた族長は、手を合わせて祈りはじめる。
「山神様。お山におわす、をろち様。どうぞ、村をお守りください。どうぞ、狩る者達から、村をお隠し下さい。狩る者達を退けて、女子供男衆全ての同胞をお守りください」
僕は族長から十歩ほど後ろに下がった所で、祈りを捧げる小さな円背を見守る。
始まったばかりで悪いけれど、これいつ終わるんだろう。
罰あたりだとは思いつつ、早くも帰りたくなってきた僕は、時間を確認しようとポケットからスマホを取り出した。その時。僕の頭上に、何かが動く気配を感じる。鳥とかそういう、小さなものじゃない。むしろ、雲がゆっくり僕の体に影を落として流れていくような、そんな感覚だ。
気配の正体を掴もうと、頭上を仰いだ。続いて左右に視線を走らせ、最後に後ろを振り返る。
いる。と確信した。
目には見えない。けれど、とてつもなく大きな何かが、僕と族長を囲っている。例えて言うならそれは、何十両と繋がっている長い電車が、僕達の周りを超徐行運転でずるずると這いまわっているような。
でも、正体は電車じゃない。蛇だ。純白の大蛇が、脳の後ろ側で視える。赤い両目。体がうねるたびに、貝殻のような鱗が虹色にきらりと輝く。
なんか凄いのがいる! いや、なんかっていうか、蛇で確定なんだけれど。それにしても大きすぎる。山一個が、蛇にとって変わったみたいだ。
半ばパニックになっていると、額にふっ、と妙な風が吹きつけた気がした。今もしかして、顔面が通過したとか?
もはや一歩も動けないどころか、片腕を上げる事すら恐ろしい。
凍りついていると、人間のものらしい絶叫が、どこからか聞こえた。多分男性だ。年齢までは分らないけど。
数秒後、東側の斜面から大きな塊が転がり落ちてくる。形から推測するに多分、人だ。でも周りに何かが群がっている。蜂? 違うな。ああ、あれ、藪蚊だ。
斜面を派手に転がって来た藪蚊まみれの人は、木の根本にぶつかると、回転が止まると同時に体の動きも停止させた。気を失ったみたいだ。
「まず一人」
族長がぼそりと言った。
え。この人、ハンター?
大蛇の気配に注意しながら、僕は落ちてきた人に駆け寄った。群がっていた藪蚊は、いつの間にか解散している。
ハンターは、若い男性だった。野焼きに使う、草焼きバーナーを背負っている。
「大屋敷に連れて行け」
族長が祠に手を合わせたまま、僕に命令する。
「でも、族長が独りになりますよ」
いくら族長が妖怪じみているからって、老人には違いない。ハンターがうようよしている山の中に独り放っておくなんて、できない。
渋る僕に族長は、「そのうちオジイが来るじゃろう」と言った。
確かにオジイなら、ボディーガードにはなるかもしれない。でも犬は懐中電灯持てませんよ。そこんとこ分ってます?
やっぱりここにいます、と命令に背こうとしたその時。僕のスマホが着信を知らせるベルを鳴らした。電話をかけてきているのは、木村先輩。
無視しようとしたけれど、あまりにしつこく鳴らし続けるので、電話を取る。
「はい?」
『よかった! 愁一郎、落ち着いて聞けよ!』
何やらひどく興奮した先輩が、まくしたてる。
先輩こそ落ち着いて下さい。そう言うと、『こんな時に落ち着いてれっか!』と怒鳴られた。要求と主張が真逆だって分って言ってんのかな、この人。
先輩は僕の返答を待たず、今、斎藤さんの車に乗っている、と伝えてきた。
「どちらの斎藤さんですか?」と訊ねると、『斎藤恵里に決まってんだろ!』とまた怒鳴られた。
何故に斎藤さん? 先輩、斎藤さんと面識あったの?
面食らっている僕に、先輩はたたみかける。名取が攫われた。車は見失った、と。
とりあえず僕は電話を繋いだまま、鬱蒼と茂る木の葉の隙間から見える星空を仰いで、名取の引きの強さを嘆いた。それから族長に、「すみません」と声をかける。
「ちょっと僕、友達助けに行ってきます」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます