今日は検査だけをする旨を斎藤さんに伝えた僕は、施術用折り畳みベッドを開けて部屋の中央にセットした。

　斎藤さんは左足を骨折しているから、立位をとると左への荷重を避けて、重心が右へ寄ってしまう。本当は立位で骨格のアライメントをチェックしたかったけれど、重心が偏っている状態じゃ、ちゃんと検査結果が出てこないから、仕方がないので治療ベッドの上に座ってもらってチェックした。脊椎に沿ってさっと指を滑らせると、胸椎七番を中心に若干の歪みを感じた。

　それよりも気がかりなのは、斎藤さんの心的ストレス。一応、触る前に一声かけたけれど、やっぱり緊張は避けられないみたいだ。僕が触れた途端、斎藤さんの全身に力が入った。こればかりは、徐々に慣れていってもらうしかないんだろうけれど。

　次は、施術ベッドの上に仰向きに寝て、両腕はお腹の上には置かずに、体に沿って伸ばしておいてもらうよう指示した。

　僕は部屋から適当な丸椅子を持ってくると、それを斎藤さんの頭側に置いて座る。

「頭を触ります。気持ち悪かったら言って下さい」

　そう前置きして、両手で頭蓋骨を左右から包むようにコンタクトした。小指から人さし指までの四指を全て、頭蓋の隆起や縫合部分にあてる。

「いい匂い。オレンジ？」

　うっすらと瞼を開けた斎藤さんが訊いてきた。

　気に入ってくれたみたいだ。つけてきてよかった。

「ハンドクリームの匂いですね。この村で作ってるんですよ」

　答えた途端、数歩離れた位置で見ている浅葱が顔をしかめる。浅葱は料理人だから、食材に匂いがつくようなハンドクリームの類は嫌いなんだ。僕は指先が命の職業だし、こうやって患者さんに喜んでもらえる時もあるから、ありがたく且つ積極的に使うんだけど。

　今つけているのは、オレンジと乳香のハンドクリーム。真知さんを含めた真識の奥様方が作っている、アロマグッズの一つだ。

　大屋敷にある石鹸や化粧水、シャンプーや入浴剤など、殆どのスキンケア用品がここで作られている。それ以外にも、ポプリのように雑貨として出せる製品は、町の店におろしている。法律上の問題があるから医薬品扱いになるものは売りに出せないけれど、いい小遣い稼ぎになっているらしい。ここの女性たちは実際、男性よりも稼ぎ上手だ。

　真識で作った製品のメリットは、品質が良い点。デメリットは、使用期限が短い点。保存料が入っていないから、日持ちしないんだ。

「多分、真知さんがお風呂に何か用意してくれてますよ。嫌じゃなければ、使ってみてください」

　説明の後でそう言うと、斎藤さんの顔が初めて、目に見えてほころんだ。

「楽しみ」

　という言葉が返ってくる。同時に、嬉しいことに斎藤さんの首の力がすっと抜けた。ベッドから浮いていた両肩の角度も、なだらかになっている。少しだけリラックスできたみたい。

今のうちだ。

　僕は頭蓋の検査を始めた。力が入っていてもやりようはあると言ったけれど、正直、力を抜いてくれるに越したことはない。

　問診表からの情報や、僕が覚えた喉の違和感は一旦忘れるんだ。先入観を捨てろ。感覚も、全部ニュートラルに。

　掌全体で頭蓋骨の両側頭部をホールド。指先の圧は均等に。添えるだけ力は入れない。力を入れたら、情報を正しく読み取れない。

　僕はまず、斎藤さんの頭蓋の動きを中心に、一次呼吸の状態をみていった。

　一次呼吸っていうのは、人間がお母さんの子宮の中にいたときからしている呼吸のことだ。これは呼吸といっても、肺を使って行っている酸素と二酸化炭素の交換とは違う。脳脊髄液の循環に合わせて、頭蓋から全身にわたって極微細でリズミカルな運動が起きるんだ。これは意識的に止めたり動かしたりはできない、不随意的な運動だ。

　一次呼吸では通常、頭蓋骨はしぼんだり膨らんだりを、ゆっくり繰り返す。斎藤さんの場合、頭蓋全体の膨らみ方が少々弱かった。それに、仙骨あたりで一旦ロックされるような動きが感じられた。

　この検査中、僕の体に目に見えた動きは無い。傍からは、銅像みたいに固まっているか、目を閉じていたら寝てるようにも見えるかもしれない。でもこれが、父さんや他の先輩達から教わった検査の中で、僕が一番成功率を上げられる方法なんだから仕方ない。

　指先から始まる全身はレーダー代わり。殆ど意識レベルの微細な動きで患者の体にかける圧や牽引力を調整し、不調を起こしている根本的な原因を見つけ出す。

次に僕は、一次呼吸から離れて、全体のブロックのチェックに移った。

「ちょっと持ちかた変えますね。首の上の方、触りますよ」

　両手の位置を後頭部下へとずらし、軽くひっかけた。ここから膜を通じて全身を診ていく。

　人体に起こっている機能的なブロックである歪のようなものは、そこに楔がささっているように伝わってくるし、気の流れが悪い所は詰まっているように感じられる。　

　僕は頭の中に全身の人体解剖図をイメージしながら、楔と詰まりの位置を、ざっくり確認していった。

　上位頚椎と右の第七胸肋関節。第七胸椎。右肩甲上腕関節。下部腰椎の……多分、四番五番あたり。仙尾関節。左仙腸関節。左膝関節、左第二中節骨。楔はこの九カ所。あと、若干、右の卵管に軽い捻転の力がかかっているみたいだ。

　気の流れが悪いのは、喉。……これは甲状腺か。胃。それから大腸。

　さてそれじゃあ、一番ネックになっている楔の場所を突き止めよう。そう意識したところで、「どうですか？」という斎藤さんの声が聞こえた。

　そういえば、僕の検査は殆ど動きがないという事前説明をしていなかった。卓上時計を確認すると、検査を始めてから一〇分近くが経過していた。よく今まで何も言わずにじっと待っていてくれたもんだな。

「すみません。全然動かないから、不審でしたよね」

　僕は苦笑いで謝った後、これまで派手に尻もちをついた記憶はないかと訊ねた。

　斎藤さんは軽く首を傾げて三秒ほど考えてから、「事故は横に倒れたから尻もちはついていませんが……小学生の頃、雪の日に階段で足を滑らせて、お尻を強く打ちました。あの時は痛くて、数日歩くのが辛かった記憶があります」と返答をくれた。

　なるほど。仙尾関節の異常はそれかもしれない。尾骨の歪みが髄膜を緊張させて、頭蓋骨の膨張を妨げているのかも。

　一次呼吸が乱れると、神経系や内分泌系、免疫系の働きに問題が起こったり、内臓や全身性の機能低下とか、時には情緒面にまで影響が出る事もあるから、ここは矯正しておく必要がありそうだ。

　次に僕は、甲状腺に関しての質問に移った。やっぱり斎藤さんを前にしたら、喉に違和感が出るんだ。気道じゃない、もっと前の方。喉仏のすぐ下あたりに。

「斎藤さん。甲状腺に関して、医者に何か言われた事はあります？」

　斎藤さんは目を瞬くと、ぱっと上体を起こした。身体を捻って僕に顔を向け、「やっぱり甲状腺が悪いの？」と食い入るように見つめて来る。

「一度、病院で甲状腺の検査はしたんだけど。お医者様にはホルモン濃度にも大きさにも異常はないって言われたの」

　そう言った後にまた、「甲状腺が変なの？」と僕に確認してきた。

　丁寧語が消えている事から考えて、斎藤さん自身も病院での検査結果に納得していないようだ。

　僕は「まだ分りません」と答えた後、でも若い女性の場合、症状はあっても甲状腺機能検査に異常が出ない場合もあることを伝える。

　斎藤さんは「そう……」と視線を落とすと、黙り込んでしまった。

　夕陽が差し込む部屋の中に、重い沈黙が落ちる。

　やばい。見習い整体士が、ちょっと喋りすぎたかもしれない。

　これ以上はただのでしゃばりになってしまうと考えた僕は、一計を案じた。ここは一度、腕のいい医者に診てもらうべきだ、と。つまり、父さんに。

「斎藤さん。実はこの村に、内科医が一人いるんです。僕の父ですけど。斎藤さんの事を相談してもいいですか？」

　僕の父さん。久(く)世継(ぜつぐ)重(え)は、腕利きの自然療法師であると同時に、内科医の免許も持っている。医者が医療行為を牛耳る現代社会では、父さんはこの村で貴重な人材の一人だ。

「継重さんは北海道だろうが」

　検査中、ずっと黙っていた浅葱が口をきいた。

　さっき仕事着に着替えている最中に、父さんから二・三日中に帰るというメールが届いたんだと伝えると、浅葱は目を輝かせた。

「マジか！　活きのいい鶏一羽、絞めっかな～。それとも、冷凍してある猪肉出すかな」

　うきうきして、ご飯のメニューを考え始める。おおかた、慰労会でも開こうと考えているんだろう。今は治療計画に集中しろと注意すると浅葱は、ばつが悪そうに口をつぐんだ。

「すみません、斎藤さん。ちょっと話が逸れましたが……」

　僕はぽかんとしている斎藤さんに向き直る。

「正直言うと、僕は未熟者だから斎藤さんとの関わりを禁じられているんです。今日は浅葱に無理を言って診させてもらったわけですが。でももうこれ以上は、上司の許しなく首をつっこむわけにはいきません。その点、僕の父は上司と同じくらい権限があるし、腕も保証できます。どうです？　父に会ってみませんか？」

　斎藤さんは僕をじっと見つめながら、黙って話を聞いてくれていた。やがて、浅葱にふと目をやる。きっと、浅葱に気を使ったのだろう。

　浅葱は視線で問いかけてきた斎藤さんに、「お任せします」と頷いた。

　浅葱の返事を聞いた斎藤さんは、僕と浅葱の真ん中あたりに向かって、ゆっくり深々と頭を下げる。

「良くなる可能性が少しでもあるなら。お願いします」

　強い決意と期待がこもった斎藤さんの声。これまで聞いた中で、一番活き活きとしていると僕は感じた。

　

　こうして、お忍びの検査は無事終了した。

「じゃあ、また後で夕食持って来ますんで」

「検査、受けて下さってありがとうございました」

　浅葱と一緒に一礼して、斎藤さんの部屋の扉をきっちり閉める。

「やった！　やった！　やった！」

　パタンという扉が合わせる音がするやいやな、自分の診立てが間違っていなかった喜びを我慢できなかった僕は、浅葱の腕をバシバシ叩いたり拳を突き上げたりしながら歓喜した。

　実を言うと、斎藤さんの口から尻もちをついたエピソードを聞いて検査結果の裏付けた取れた時点で、僕は心の中で大きくガッツポーズをとっていたんだ。実際行動に出したら子供っぽいと思われるだろうし、不謹慎だし、セラピストとして信頼してほしかったから、必死に平静を装っていたけれど。

　見栄を張る必要が無くなった今、プロフェッショナルらしくいようと被りまくっていた猫が、ボロボロボロと落ちてゆく。

　そんな僕を冷めた目で見下ろした浅葱はなんと――

　黙って斎藤さんの部屋の扉を開けた。

　大きく開いた扉の向こうには、呆気にとられた様子でこちらを見ている部屋の主がいらっしゃる。

　天井に向かって右拳を突き上げた格好のまま固まっている僕に、引きつった笑顔を見せた斎藤さん。

「げ、元気なのね」

　配慮によってかけられた言葉は、有難いやら悲しいやら。

　化けの皮っていうのは、こうも簡単に剥がされてしまうものらしい。もう、カッコつけるのはやめにしよう。