夏のはて
森野苳
本編
現在①
店の制服である黒のエプロンを脱いで、簡単にたたんでリュックに入れる。ついでにリュックのサイドポケットからスマホを取り出すと着信が1件、父方の祖父母の家から午後8時15分に電話があった。
携帯電話と呼べないと周りに呆れられるほど、私はスマホを触らない。仕事中はもちろん、昼休みと仕事が終わったこの時間でさえ時々確認を忘れる。
今は夜の10時を過ぎたところ。早寝早起きのおじいちゃんたちは9時には寝てしまう。緊急だったら家族からも着信やメッセージがあるだろうし、店の電話にかけるはずだ。明日電話することにして、再びリュックにしまう。
モッズコートを羽織り、忘れ物がないかロッカーの中をチェックしてから扉を閉めた。
「お先に失礼します」
「お疲れさま。ケーキ余ったから持ち帰る?」
「2個選んでいいよ」
「やった。チョコレートケーキとショートケーキがいいです」
だいたい売り切れるので持ち帰れる日はレアだ。どうしてもケーキが食べたい日は、提携している近所のケーキ屋さんから届いてすぐに取り置きさせてもらう。
店長夫婦に挨拶して裏口を出た。冷たい空気が顔に当たった。昼は暖かくなってきたとはいえ、朝夜はまだ厚めの上着が必要だ。それでも家と店までの道にある桜のつぼみが日に日に膨らんでいるのを見ると、春の訪れを感じる。
店の壁に沿って置いていた自転車を引いて表に周り、暗闇にそびえる瓦屋根の建物を見上げた。
古民家を改築したカフェ『たわわ』が私の職場だ。
野菜をたっぷりとれるバランスのよい定食は好評で、女性客だけでなく男性客も訪れる。ティータイムもスイーツ目当てのお客さんが訪れる。季節ごとにメニューを入れ替えるので、アルバイトだった専門学生時代から正社員になった現在でも、ここの定食に飽きたことはない。
今日の
また賄いで食べたいな。メニューを思い出しながら自転車で漕いでいたら、前方を黒い小さな影が横切った。慌ててブレーキをかける。金属がこすれる甲高い音が夜道に響いた。距離が離れていたからぶつかる心配はなかったものの、心臓の鼓動が速くなる。
黒い影は道路の端に駆けていき、安全を確保してからこちらを振り返る。それは、闇に溶けるような黒猫だった。瞳孔をまんまるにしてこちらを観察した後、そのまま狭い十字路を走り去っていった。
「びっくりしたー」
ライトを点けた車とすれ違ってから、再び自転車を漕ぎはじめる。
日本では黒猫が横切ると縁起が悪いという迷信がある。その一方で良いことだと捉える国もあるらしい。
私にとって黒猫は親しみのある存在だった。
――あれから10年以上が経った。
黒猫と不思議な男の子と過ごしたあの夏を、季節を越えて記憶をたどる。
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