春を送る

森野苳

本編

8月(1)

 うだるような熱帯夜だった。


 部屋のクーラーは夕方にぷすんと間抜けな音を立てたきり動かなくなった。明日業者が具合を見に来ることになったけれど、一晩も越せそうにない。


 寝苦しく、何度目かの寝返りをうって、とうとう部屋を出ることにした。


(喉渇いた)


 向かいのドアの下から明かりが漏れている。この中はクーラーが効いて涼しいのだろう。とはいえ、遅くまで勉強している受験生の部屋に、布団を運んでのんきに寝るのは気が引ける。なるべく足音を立てないように静かに階段を下りた。


 1階は電気が消えていた。ダイニングの豆電球を点け、冷蔵庫から冷えた麦茶を取り出しガラスのコップに注ぐ。行儀悪く飲みながら歩いて、リビングのソファーに腰かけた。私が冷房を消してから1時間ほど経ち、ぬるい温度になっていた。お母さんは朝が早いのでとっくに眠っている。


 テレビをつけると吹き替えなしの洋画をやっていた。知らないタイトルの映画で、老人が青年に若かりし頃の忘れられない恋を語っている。眠気はあるけれど続きも気になり、音量を小さくして英語と字幕を追った。




 テレビの音がふつと消えたのが、浅い眠りの中でわかった。


あずさ


 今何時なのか、映画がまだ途中なのか終わったのかも知らない。夢と現実の狭間はざまが心地よく、声が聞こえるほどは寝覚ねざめたのに、まぶたが重くて開けられない。


「寝てんの?」


 かすれた声の後に衣擦きぬずれの音がして、ソファーにもたれる右肩のそばがへこむ。何かが電気を遮り、まぶたの向こうがさらに暗くなる。微かにシトラスの匂いがして、お風呂入ったんだ、と思ったとき、髪越しの左頬に指先が触れる。五感が鋭敏になり、空気が動くのを感じる。


 ――時間が止まった。


 人の気配が遠ざかる。リビングを出て階段を上る足音を耳にしながら、両手で顔を覆う。


 夢だと思いたかった。

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