第34話 お嬢様、見てはいけません!

「――では、お嬢様、今夜はここまでにしましょう」


 俺がピンクのリボンの栞を挟み、読んでいた『愛とジョセフィーヌ』を閉じると、ベッドで静かに耳を傾けていたお嬢様がエメラルドグリーンをきらきらさせてこちらを見た。

「ありがとう。どう? ジュリー、参考になりそうかしら」

「参……も、もしかして、先程のジョセフィーヌと執事の逢瀬のシーン……のことですか?」

「ええ、そうよ。執事のラファエルがジョセフィーヌと二人きりになりたくて、夕暮れのガゼボへ誘うシーン、とってもロマンチックで素敵だったでしょう? 誘い方も『お嬢様のお好きなコマドリが羽を休めているのをお見かけしました』っていうさり気ない言い回しがとてもいいわぁ」

 お嬢様がうっとりとエメラルドグリーンの目を細める。

 参考……なるほど、道理で『愛ジョセ』(俺は密かにこう略していた)二巻を読んでくれと言い出したわけだ。昨夜は六巻終盤だったのに、なんでいきなり二巻なんだ?って思ってたけど。

「ジュリーも今度ブラン様にそうお誘いかけしてみたらどう? ブラン様の場合だと……剣のお稽古を見てみたいと言ってみるとか」

「それ、ロマンスのかけらもないと思うんですけど」

「あら、ロマンスは意外なところから始まるのよ、ジュリー」

「……そろそろ私は失礼致します。おやすみなさいませ」

 にこにこと俺を見るお嬢様の視線が居た堪れない。

 俺は逃げるようにお嬢様のお部屋を後にした。



 

 どうしよう。

 完全にお嬢様は俺とブラン様がデキていると思っていらっしゃる。

 しかもそれを応援してくださっているのがまた……これが主人公とブランだったら嫉妬して嫌がらせしまくってくるってのに。まあ、それと比べたら全然マシだけど。

 この分だと、次のバルテル家訪問でもいらん気を回されそうな気がする……下手したらマリー嬢にまで話してしまいそうだし、そうなったら流石のブランも困るだろう。あいつは唯一俺の正体知ってるしなあ。

 くそ、俺が男であるとバラしてしまえばブランとの疑いも晴れるだろうけど、それだけは流石に職を失行かねんし。

 と、ぐるぐる考えながら、自室の前まで戻ってきた時だった。


「お疲れ様、ジュリーさん」

「おっ、お疲れ様です!」


 近寄ってきたクロエさんに俺は慌ててドアノブをひねろう手を引っ込めた。

「あのね、使用人用のバスルームが故障したんですって」

「え、バスルームが?」

「そうなの。旦那様に修理の業者を雇っていただけるか、明日交渉する予定らしいんだけど、しばらくは我慢してもらうことになるって話よ」

 困ったように眉を下げ、クロエさんが言う。

 他の貴族様の家は分からないが、少なくてもこのメルセンヌ家は使用人の衣食住が充実している。毎日シャワーが使えるのもその一つだ。

 それがしばらく使えないとなると、確かに厄介だ。使用人は基本重労働だし、特にお嬢様のお傍でお仕えする俺は清潔でいることも仕事のうちだからな。

「分かりました。教えてくださってありがとうございます」

「お互い、しばらくは我慢しないとね。あ、ジュリーさん、香水は持ってる? もし必要なら私のを貸すわよ」

「あ、いえ! 私その、香水アレルギー……あ、いや、昔からあまり得意じゃなくて」

「あら、そうだったの?」

「え、えへへ、実は……あ、お嬢様の香水は大分慣れたんですけどね」

 冷や汗をダラダラ掻きながら乾いた笑いを浮かべる俺に、クロエさんは戸惑いながらも納得してくれたようだ。

 まあ、嘘なんだけど。猫に香水はご法度だからさぁ。




 というわけで、自室に戻った俺はキッチンから提供してもらったお湯でタオルを絞り、黙々と体を拭いていた。

 普段はメイド服で隠れているジュリーの体は、前世の俺よりもチビで貧相だが、喉仏はくっきり見えるし、二の腕や腰回りは男のソレだ。とはいえ、メイド服でしっかり隠してしまえば誤魔化せるし、顔も地味だけど可愛い寄りだし、声もちょっとボーイッシュな感じだけどギリギリ女の子っぽくはある。これが俺の前世にいたら「男の娘」にカテゴライズされてたんだろうなあ。

 自室をいいことに裸になって拭いている俺を、ねこきちが綺麗なオッドアイでまじまじと見つめている。裸を目にするのは着替えで何度もあるだろうが、長い間晒しているのが珍しいからだろうか。

「すまんな、ねこきち。しばらくお風呂に入れないからさ」

 俺が苦笑いしながら言うと、ねこきちはゆらり、と金色の尻尾を揺らした。

 その時、ノック音が響いた。

「はい?」


「――ジュリー、あたし」


 その声に俺は思わず持っていた温かいタオルをべしょ、と落としてしまった。

「おっ………………お嬢、様?」

「……そうよ。あなたに渡したいものがあるの。あまり目立ちたくないから、入れてくれるかしら」

 ドア越しのお嬢様の声は、いつもよりしおらしく聞こえる。周りを気にして忍んできたって感じだからだろうか。

 ……って、いやいやいや!? お嬢様はとっくにおやすみになってる時間だし! そもそも、お嬢様が使用人の自室を訪ねるはずがない! 

 ホンモノか? いや、偽物だとしても一体誰だよって話だけど。

 戸惑う俺をよそに、またノックされた。今度は少し強めに。

「ねえ、いいから早く開けて。誰かに見つかったら大ごとなんだから」

「え、で、ですが、お嬢様……」

 どう対応すべきか考えていたら、不意にねこきちがニャア、と鳴いた。

「こ、こらっ、シー!」

「何? 今、なんか聞こえた気がするんだけど。って言うか、早く開けてよ、ジュリー」

 どんどん、と再びノック音がすると、ねこきちはドアに近づき爪をガリガリやり始めてしまったではないか。

 いや、何でこのタイミング?!


「ちょ、ちょっと何? なんの音なの?」

「こ、こら、やめなさい! やめろっ」

「ジュリー? 本当に何なの? 早く開けなさいってば!」

「い、いや、それは……って、ああっ、剥がれた! 本当にヤメロォ!」


 ねこきちを慌てて抱え上げた次の瞬間、ドアが勢いよく開かれた。

 ドアの向こうにいたのは、確かにお嬢様だった。ベッドでお休みになった時と同じ、ピンクのシルク素材のパジャマ姿の彼女は、そのエメラルドグリーンの目をこれでもかと言うくらい大きく見開き、唇をぽかんと開けて固まった。

「な……っ」

「お、お嬢、さま……」

 俺の腕の中でねこきちがにゃおん、と呑気に鳴く。

 けど、お嬢様の目はねこきちではなく、俺……の曝け出された上半身に向けられていて。

 そこで俺はようやく自分が半裸だったことに気づき、一気に青ざめた。



「ジュリー、あなた、おと…………」



 唇を戦慄かせてお嬢様が何かを呟いたかと思うと、その小さな体がぐらりと傾いた。

 咄嗟に受け止めたが、お嬢様は青ざめたまま気を失ってしまっていた。

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