嫌いなものがあります。私を嗤う人が嫌いです。

 好きなものがあります。あったはずです。でも、みんなに笑われるので、それは捨ててしまいました。

 ——だけど、もう誰も私を嗤えません。

 一人目の人間を殺した時、途端に笑われなくなりました。

 時々、夢を見ます。私が殺した人間が、目の前に立っています。立っているだけです。何もせず、じっとこちらを見つめます。

 怖くはありませんでした、だって、怖がるのは普通、殺された側の人間でしょう? 


 余裕ができたので、人助けをすることにしたんです。私が笑われなくなっても、誰かが笑われるのは我慢できません。



   ◇



「じゃ、またね。——困ったら、いつでも連絡して」

「はい。……ありがとうございました」


 朝、六花さんに見送られ、一晩を過ごした家を出る。

 ——不思議な人だった。私なんかに優しくしてくれて、そのうえで何の見返りも求めてこない。裏があるかと何度も疑ったが、その度に彼女の屈託のない笑みを見せられ、最後には疑う気すら起きなくなった。

 多分、いい人だったんだと思う。


 学校に行くわけでもないのに制服を着て、日曜日の街を歩く。まだ家に帰る気にはなれず、ふらふらと街をさまよっていた。

 そして、いつの間にか私はベンチに座っていた。昨日栞ちゃんと会った公園で一人、溜息を漏らす。


 暇になると、余計なことを考えてしまう。

 昨日の光景。詠うような呪文、飛び散る赤色の塊。私がやったわけじゃない。だけど、あいつらを殺したいと言ったのは、私だ。

 あいつらみたいな馬鹿は嫌いだ。死ねばいい。だけど、あいつらと六花さんや六埼くんに、なんの違いがあるのだろうか。見ず知らずの人間だった。話してみると、六花さんみたいないい人かもしれない。

 六埼くんもそうだ。同じクラスで、彼の人柄を知ったような気になっていたが、離してみると全然イメージと違った。

 じゃあ、あの時死んだあいつも……。


「や、紗幸ちゃん」


 顔を上げると、目の前に栞ちゃんが立っていた。

 薄手のカーディガンに、ロングスカート。秋らしい服装に身を包んだ彼女は、冷たい目のまま口元を歪め、笑みを投げかけてくる。


「……おはよう」

「時間的には、こんにちはだけどね」


 いつの間にか昼が来ていたようだ。普段食べない朝食を食べてきたので、お腹は空いていない。


「デートに行こうか。せっかく早く出会えたんだし、ね」


 栞ちゃんの口から飛び出したのは、予想だにしない言葉だった。


「……といっても、こういうのって、どこに行けばいいんだろうね」


 駅前まで歩いた後、噴水の前でぼんやりと立ち止まる。

 そんなこと、私に聞かれても困る。——友達と遊ぶのなんて、小学生の頃が最後だ。


「……イオンとか?」


 具体的に何をするかは知らないが、イオンに遊びに行ったという話はよく聞く。……もちろん、盗み聞きだ。


「それだ。そうしよう」


 どうやら栞ちゃんも友達と遊んだ経験がないようで、逆にそれが浅いイメージを共有する助けになり、何とか一日の予定を立てることができた。


「まずは、お昼ごはん」


 友達とイオンに来て食べる昼食と言えば、ハンバーガーだろう。

 やたらと長い列に並び、セットを二つ注文し、混みあった飲食スペースで何とか席を見つけると、並んで腰を下ろした。


「……多くない?」


 栞ちゃんが小さく呟く。

 ハンバーガーとポテトとドリンク。正直、ハンバーガーだけでも十分に腹は膨れるが、なんとなくそれっぽいからという理由でセットを注文したわけだが……。


「いける……?」


 行けそうには見える。頑張れば行ける。……多分!


「……食べたね」


 ハンバーガーはぺろりと食べられたのだが、ポテトが難敵だった。それは言ってしまえば芋と脂の塊なわけで、ある一点を超えると急激に手が進まなくなる。


「うん、お腹いっぱい」


 涼しい顔をした栞ちゃんだが、涼しい顔をしているだけだ。顔以外は潰れて、机に全体重を預けている。

 

「次、どうするよ?」

「……映画とか」

「いいね。あんま動き回りたくもないし」


 イオンの中にある映画館まで歩いて向かう。

 お互い、特に見たい映画があるわけでもなかったので、時間が一番近い映画を選んだ。

 ……なんだこれは。

 面白いと言えば面白いが、面白さの方向がかなり胡乱だ。サプライズニンジャのような脈略のない面白さが延々と続く、変な映画だ。

 席はほとんど埋まっていなかった。隣を見ると、スクリーンを注視する栞ちゃんの横顔が見える。こうして見ると、普通の女の子だ。彼女が人殺しだなんて、思えないほどに。


「……面白いけど……あれを面白いとは言いたくない」

「同感」


 気付けばもう五時。五時になると、なんとなく帰らないといけないような気がしてくる。望むなら、いつまでも外に居ていいことはわかっている。たぶん、成長していないのだろう。


「……ねえ。魔法ってさ、わたしにも、できる?」


 駅前の広場で並んで空を見上げる。それは、吐き気がするほどに赤い夕焼けだった。


「できるよ」


 数秒の沈黙の後、神妙な顔で栞ちゃんは口を開く。


「具体的なコツとかは無いんだけど……想像というか、イメージというか。私の場合は偶然できちゃった感じだから……。私がやったのと同じような感じで、できると思う」


 あの時の光景は、今でも頭に焼き付いている。瞬きすら忘れて見入った光景、栞ちゃんの指一本一本の動きも、言葉も一言一句違わずに、再現できる。そして、その結果として起きる現象も。


「……ありがとう」


 ベンチから立ち上がる。


「……ねえ」


 横から声がかかる。冷たくて、優しい音色。


「楽しかった?」


 言葉は返せなかった。私は無言のまま頷いた。表情は多分……笑ってたんだと思う。




   ◇



「じゃあ、俺は九条さん探しに行ってくる」

「うん。松田さんは私が追いかけるよ」


 


   ◇





 仁田栞は松田と別れた後、駅前へと向かっていた。

 あの時、最後に見た松田の笑顔は本物だった。必要な時に使える力も、使えるようになったはずだ。これで、彼女は誰にも笑われない。ようやく前を向いて歩ける。私がそうだったように、彼女も救われるんだ。


「……仁田栞、……だよね」


 駅前のトイレ。個室の並んだ女子トイレ。その通路に、一人の少年が仁王立ちをしていた。


「ここ、女子トイレなんだけど」


 子供離れした鋭い目に、男にしては長い髪。六埼有矢がそこに立っていた。


「大丈夫。人は来ない」


 冷たい声色で、有矢はそう告げる。

 栞は腰を落とし、指先を有矢の方へと向ける。口元で小さく呪文を唱え、いつでも目の前の男に攻撃できる体制を整えた。


「人の可能性は無限大だけど、生きてるうちにだんだんと道は狭まっていく。だから……人殺しはいけない。人を殺すと、道が一つになる。横に地面はなくて、振り返ることすら許されない」

「……何が言いたいの」

「俺は、——お前を殺さないといけない」


 明瞭に、端的に、言葉は口にされた。

 ならばすでに言葉は不要。栞は指先に集中させていた意識を解き放つ。

 成形された石の銃弾は目で捉えることすら難しい速度で、有矢の額をめがけて射出される。——はずだった。


「え……」


 遅い。人を殺すのには十分な速度。だが、必中と呼ぶにはあまりにも遅すぎる。

 どうして……? 理由はいくつも考えられた。だが、栞の視界に映った有矢の姿が、その結論を一つに、――すなわち正解へと導いた。

 目の前のこいつのせいだ。こいつが何かしたんだ。

 ——気付いたところで、栞にはどうすることもできない。石の銃弾を躱した有矢は既に、栞の目の前へと迫っていた。



   ・・・



「別に、有矢くんがしなくてもいいんだよ?」


 九条さんは苦笑いを顔に浮かべながら、トイレの中に入ってくる。


「俺がやりますよ」


 今まで殺してきた人たちのためにも、今更引くわけにはいかない。


「まあ、終わったんならいいよ。それの処理も君がするんだろ? ——俺はさっさと退散させてもらうけどね」


 九条さんの視界の先、俺の足元には、一人の人間が横たわっている。左胸、ちょうど心臓のある場所に穴が開いた人間の死体。先程まで仁田栞だったもの。


「——用事でもあるんですか?」

多田羅たたらの野郎がくるんだよ。……あいつ苦手なんだよね。まあ、終わったんならあいつも大人しく帰ってくれると思うけど、一応気を付けて」

「そんな、強いんですか」

「まあ、そうだね。——ここの街はすでにマークされてるんだ。今までの件でね。君たちも、暴れるのは控えたほうがいい」


 そう言い残すと、九条さんはトイレから出て行った。 

 ……マークといえば何らかの組織にだろう。詳しいことは知らないが、魔法使いにもグループがあるのだろう。

 死体を寝袋に詰め、血痕を消すと、俺もトイレを後にした。


「いや、待て――。九条さん!」


 

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